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2025-06-22

猪風来さんのトークライブの朝が来た。そして思う五十鈴川だより。

 6月22日の朝である。昨日、今日の猪風来さんの【縄文芸術人生を語る】については五十鈴川だよりで打ったににもかかわらず、蛇足であれなんであれ、朝の時間他にはやりたいこともなく、簡単な準備は昨日のうちに済ませているので、何か打ちたいという老人妄想五十鈴川だよりである。

オシント情報(オープンソース)のみで、ほとんど表面的、一方的なニュースを受けとるばかりで、世界の複雑怪奇なあちらこちらでの出来事に関しては、もうまったくうんざりしているというのが、老人の偽らざるおもいである。(イスラエルのイラン核施設への突然の一方的な攻撃は、遠い島国の老人をも、気持ちを萎えさせる)

村上原野さんの縄文造形作品

さて、梅雨のこの季節にしては、異常気象という言葉の虚しさを感じるほどに、日中の陽射しは老人の我が体にはきつすぎる。がしかし、ぼやいてばかりではよけいに虚しい。そのような陽射しを浴びながら、今週もなんとか労働し、日々をやりくりし猪風来さんのトークライブの日の朝を迎えた。ちょっとうきうき、企画を発案したものとしては嬉しい。

今のところ25名の事前申し込みがある。先日レディオモモ(FM)で事前申し込みはしなくていいので、関心があるかたは当日直接いらしてくださいと、私が話したので、効果があることをねがっている。がしかし、昨日も打ったが、25名来ていただけるだけで、私としては充分にありがたく嬉しいのである。

心からやりたい企画が私の足を動かす。ゆっくりしか歩けず、今や走ることは不可能な我が体ではあるけれど、確実に歩を進められる。そのことの老いの醍醐味の気付きの深まりをかろうじて我が体は感じている。老人は時代に置いてきぼりにされる。私自身にそのような自覚がある。だが、置いてきぼりなりの企画がやれる。仲間もいる。わたしは元気に今を生き存在している。

そして、なによりかにより、猪風来さん御夫妻に(このお二人は2卵生双生児であるかのようである)なにやら本質的に、この年齢にして出会えたことの偶然的な必然の恵をかみしめている。お二人が放つ、縄文世界の豊かさのオーラを以前にもまして感じる。

感じる。うきうき、そわそわ、文字のない縄文時代に思いを馳せるとき、なんという天然大自然のなか、日本列島に奇跡的に出土した縄文時代の一万年にも及ぶ長きに花開いていた空前絶後の文化をお二人から教えられる。自由自在にその土地、風土、環境の中で命の讃歌を土偶や器に魂をこめていたのかと。老若男女、畏怖し、感動し、悦び、全身で創る。邪念のかけらもない。

気の遠くなるほどの豊かというしかない縄文時代にとりつかれた猪風来さん、さてもさても、今日は暫し企画者であることを忘れ、猪風来さんのお話に耳を澄ませたい。

2025-06-21

明日県立図書館デジタル情報シアターで行われる猪風来【我が縄文芸術人生を語る】前日の朝に想う五十鈴川だより。

明日は県立図書館デジタル情報シアターでの、猪風来さんの【我が縄文人生を語る】14時から16時(開場13時半)の日である。企画したのは私である。

詳細は割愛するが、昨年暮れ猪風来さんから今年秋の(10月12日)猪風来美術館開館20周年記念イベントの企画応援のお電話をいただいてから、すでにおおよそ8ヶ月以上の時が流れている。

企画者冥利である。

40才で岡山に移住し、仕事としての企画を美星町の中世の歴史公園中世夢が原で一から始めて(61才から69才まではまったく企画からは遠ざかっていた。その間は生活しながらひたすら、シェイクスピアの翻訳日本語の音読、リーディングにエネルギーをかたむけていた)70歳から再び企画を再開して今に至るのだが、よもやまさか、猪風来さんから直接お電話をいただくなどとはおもいもしなかった。

私は企画応援を引き受けるのにあたって、昨年暮れから新見の猪風来美術館に先ずは通うことから始めた。猪風来さんの過ぎし来しかたをほとんどなにも知らないといっても過言ではなかったからである。

何回か通って、年が明けてスパイラルアームズの公演に向かいながら時間を見つけては猪風来美術館に通っている時に、これほどの芸術家の存在が、私も含めてあまりにも、 この岡山で知られていないことに、愕然としたことが今回の企画の発端である。

先ずは私自身が少しでも猪風来さんの歩み、縄文造形人生を知るために本人に、改まった場所、空間で他者の前できちんとお話ししてもらう機会をつくり、その事を記録として遺しておきたいというのが動機である。(ゆく度に猪風来さん、急逝されたご子息原野さんの縄文造形作品の圧倒的なまでの、独創性、生命力の輝きにいまも打たれ続けているからである)

40才から、企画することをヒトに教えてもらったわけではなく、馬鹿の一つ覚えのように、感動する器、体がかろうじてあったからこそ、我が体が発熱するのを頼りに、(老人ではあるがいまだ発熱するそこにしがみついて企画をしているだけである)

トーク、(猪風来縄文造形デザイン語り世界)を企画するのは初めてである。この年齢で初めてのことを経験する、出来るなんて、私には実に贅沢なことなのである。お金をふんだんに持ち合わせている御仁ではなく、私のような生活労働者、一庶民が猪風来さんのトーク、物語を企画できるなんて、夢のようである。ましてこの年齢になると、元気にワクワク企画できることは何物にも換えがたい【何か】おおいなるものからのプレゼントに思えるのである。

企画をすることは、謙虚に學ぶことである。老人妄想癖企画者と受けとられてもかまわない。あえて打つ。他に誰もがやらないような企画がなせるなんて、企画者冥利に尽きる。参加者の多い少ないではない(多いに超したことはないが)。自分がやりたい、嬉しい遊び心のない企画は私には出来ない。私がほとんどの企画をやれたのは、中世夢が原(フィールドオブドリーム)の場と空間があったからである。(あそこだったから企画が成せた)

一万6000年まえからおおよそ10000年続いていたと言われている人間らしい、穏やかな縄文時代の、日本列島の北から南にかけて百花繚乱出土している縄文土器、言葉を凌駕してやまないあまりの敬虔な祈りに満ちた、遊び心の極致とでもいうしかない変幻自在な渦の紋様の美。その世界に導かれ、人生50年を捧げた猪風来さんのお話に、明日来られる参加者と共に耳を傾けたい。


2025-06-19

6月19日夕刻、瀬政さん我が家にやってくる。U氏からお葉書いただく、そして想う。

 6月19日の夕刻、ちょっと時間があるし、五十鈴川だよりタイム。今瀬政さんが秋の猪風来美術館の20周年記念イベントの後援名義の申請の件で、わざわざ家まで来てくれて、ちょっとお話をして、帰られたばかりである。

正直あまりの暑さのために、思考がほとんどおぼつかないし、何をするきもおきない。が、瀬政さんとちょっとお話が出来たことで、五十鈴川だよりが打ちたくなるのだから、われながらいい加減もここに極まりとでもいったような案配である。

内実が伝わる。有り難き幸せである

インターネットを利用しながら、五十鈴川だよりをうちながら、絶対矛盾を生きている私として、発信ししながら、内心まったく時折嫌になるときがあることを、正直に告白する。やはり私は骨の髄までアナロ人間である。だからといってデジタルワールドの世界を否定するのではまったくない。いや、あえて言えば、もうインターネットののない世界には私はおそらく存在できないだろう。

そんなこんな、なにを打っているのだろうかと、自分でも嫌になるが、昨日手書きの思いもよらぬかたから、お葉書を頂いたからである。この今の時代に、手書きのお葉書をいただける、もらうことの、ある種の贅沢、稀少価値に私の老いた体は悦びにうち震えるのである。

インスタントラーメンの、ある種の美味しさ、またときおりいただく我が身としてはその事実を否定するものではないが、自筆のお葉書をいただく嬉しさは、自分で育てた野菜をいただく嬉しさに例えれば、ご理解いただけるのでは、と思える。

今週日曜日、岡山県立図書館で、猪風来さんの縄文世界に半生をかけたトークを、発作的に企画した私であるが、反応は少ない。だが本番目前、私の心は穏やかである。企画するときにいつも想うことは、自分のなかで企画をしたいことがあるから企画しているのであって、他にはなにもこと更な理由はないからである。

猪風来さんのお話に耳を傾けてくださるかたが、一人でも多く来てほしいとはおもうが、誤解を恐れずにあえて打つが、参加人数の多い少ないではなく、猪風来さんという稀有な縄文造形アーティストの存在をひとりでも多くの人が知ってもらえればと、私としては企画をしたことに、どこか安堵するのである。

話の論旨がまとまらなくなってきたので、これ以上打つのは控えるが、言えることは、U氏のお葉書をいただくことがなければ、きっと五十鈴川だよりを打つことは無かった。この世に今存在する老人の私にとって、肉声、肉筆ほど、心を震わせるものはないのである。そのような、家族、友人に恵まれた私は、野暮を承知で打つ。企画をすることは愛する存在を確認するためなのである。お前には愛する存在がいるのかいないのか、それが大問題なのである。

2025-06-15

散歩と労働、読書と小さな旅(新見の猪風来美術館往復の)で鬱陶しい梅雨を過ごす五十鈴川だより。

 静に過ごす日々が以前にもまして、多くなってきている。若いときにはあれほど右往左往とあちらこちらに出掛けていたことが、まるで嘘のような気がする。がきっとこれが老いてきているということなのだとおもう。

さて、今日から妻が長女家族の助っ人として4泊5日ほど上京するので、私は今日からメルと花と私の生活になる。これまでも度々妻が上京したら、私は何かしら一人で食事をつくって、短期間ではあるけれど、ひとりでの生活を何とかやって来た。

この事は、私の年齢を考えると、パートナーのどちらかが先に召されたとき、いやでもの一人暮らし生活を考えてしまう。そのことに思いを馳せるとき、私は粛然たるおもいにかられる。私が先にゆく分にはなにも心配してはいない。

1936年お生まれの著者、凄い。

だが、こと命の灯火だけはそうはとんやがおおろさない。私の父の場合は母が先に召された。その後の父の目に見えての憔悴、衰えは何をもってしても空虚さの穴を埋めることができず、数年後にまるで母を追うように旅立った。(最後は幸せで本当に良かった)

兄や姉から、私が一番亡き父に似ていると言われているし、私自身も父に似ていると年年歳歳想うようになってきている。似ているから思春期から対立関係が続いていたのかもしれないと、今では思える。そしてあの父の頑固なまでの潔さ、厳しさ、情の深さ、愛情表現の下手さはかなりの程度私の現在に受け継がれているのを、痛感する。

だからといって、いまとなってはそのことを、私はプラス思考でとらえている。ヒトはいかんともしたいことを一生抱えながら、とぼとぼではあれ自分なりの生をまっとうするしかないというのが、偽らざる正直な気持ちである。本質的な遺伝子はこの世から消え去るまで、五十鈴川だよりを打てる間は、背負う覚悟をもって生きるしかないというのが、今の気持ちである。

さて、話を変える。自分でも年を重ねるに従って、限りなくシンプルな(自分で言うのもなんだが)生活が今のところ送れている。自分なりに足りる生活を心がけ実践している。我が道を我が体で、右往左往ヨタヨタ、家族の一人としての責任をなんとかキープ、生きている。

私は18才から世の中に出て、生活に追われ、無知蒙昧、無学のごまめの歯ぎしりのように生きてきたのだが、カサカサに渇いた心の一番の妙薬はやはり本を読むことである。今現在も本を手にすれば、心の安寧が保たれる。新しい一日をいい感じで過ごす必須アイテム、私には散歩と労働、旅と本が不可欠である。本を読むにはかなりの集中力、持続力、体力がいる。鬱陶しい梅雨を乗り切るために、体と心が満たされる、著者の本に出会いたと切に念う。念う心がなくなったら、きっと五十鈴川だよりは打てない。

2025-06-14

梯久美子著【戦争ミュージアム】を梅雨入り早々読み、静に反省する五十鈴川だより。

 梅雨入り早々、我がふるさとエリアでは大雨が続いている。肉体労働、雨は正直この年齢では辛いものがある。だけれども今週も4日ほど働くことができた。昨日は雨が終日降らなかったので、このときとばかり植え込みの剪定刈り込みの作業を、ゆっくりと行った。

この仕事を始めて8回目の刈り込み作業である。最初はおそるおそるではあったが、今では楽しみな仕事のひとつである。初夏と晩秋2度行うのであるが、延びた枝が刈り込まれると、見違える。ヒトに例えると散髪をしたような感じである。

静に反省する

大げさだがやりおえると気持ちがいい。刈り込んだ枝を片付けたあとの爽快感は私だけが感じる気持ちのよさである。梅雨、重く垂れ込めた雲は嫌でも気持ちを萎えさせてしまうが、そのような季節の剪定、刈り込み作業は今の私にはうってつけの労働である。

人間気分が重いときは誰にだってあるとおもうが、ゆっくりゆっくり体を動かし、作業を続けていると、はかどるに従って、気持ちも上向いてくる。誠にもって人間の体は動かすことが先ずは大事であると、我が体に知らされる。

すでにかいた記憶があるが、20年から23年にかけて、コロナ渦でヒトとの接触を避けることを、余儀なくされる生活にいきなり放り込まれたときに、人と接触せずただただ体を動かすこの仕事で私がどれだけ救われたかは、計り知れない。

この年齢で、いまさらのように健康にからだが動き、苦にならない仕事があり、生活が営め、その間に二人の孫、新しい命と巡り遇えたことの、有り難いという気付きの深まりは、何度書いても例えようがない。私の今の生活に孫たちの存在が、生きるエネルギーをくれる。

あらためて健やかな命の有り難さを想う。かたや絶望的に想えるほどの命の軽さが、国内はもとより、世界のあちらこちらから伝えられ、今のこの世を覆っている。鈍麻しそうになる。(アラブ世界のあまりの不条理は老人の想像力を萎えさせる)

話を変える。孫たちの存在が、私がこれまで手にしなかったような本を読むようになってきた。とくに先の大東亜戦争について。その渦中を生きてこられ、高齢になられ、その思いを伝えようとされて(それぞれの立場で)おられる方々の。(私がそのような理不尽な経験をしたならばとおもうと、言葉が虚しい)

孫たちの存在が、他者の命の尊さ、かけがえのなさにまで、知らねばとのとの思いが(反省が)本を捲らせる。今読んでいるのは梯久美子著【戦争ミュージアム】ー記憶の回路をつうなぐ_である。新書版の本で梯さんは国内14の戦争ミュージアムを紹介している。そのなかで私が行ったことがある戦争ミュージアムは都立第五福竜丸展示館だけである。

元気なうちに、おもいたったが吉日、この本で知らされた戦争ミュージアムを訪ねたくなっている。私の両親は北朝鮮からの引き揚げ者である。(長男と長女も)舞鶴引き揚げ記念館、岡山からさほど遠くはない。近々時間を見つけて行こうとおもう。


2025-06-08

どんよりと曇った梅雨入り模様の窓から、朝の空を眺めながら想う五十鈴川だより。

 雨の日以外、どんなことがあってもメル散歩は欠かさない。勿論今朝も行ってきた。毎日新しい朝をメルと共に迎える。夕刻は妻がゆく。もう14年近く共に暮らしていると家族そのものである。犬猫、動物が妻は大好きである。大きな声では言えないがきっと私のことも、動物の変種くらいに思っているのではないかと想える。がその事に関しては論考を避ける。

さて、6月3日長島茂男さんが逝去された。野球をやったこともない私でさえ、中学時代からテレビを通じて長島茂男という存在を知り、日本シリーズなどでの勝負強い、いわゆるはなのあるスター選手と同時代を生きられたことのありがたさをおもう。

冥福を祈ると共に、どうしても記しておきたい事がある。それは晩年病に倒れリハビリに励まれる姿である。人間の真価とは逆境でこそ試されるとはよく聞くことである。各々の苦難、艱難辛苦は千差万別である。ましてや、若いときではなく、晩年あれほどの大スターが、世間に身をさらしてリハビリに打ち込む姿をさらされたことに、私はそこに一人の人間としての威厳尊厳を感じた一人である。

一人の叫びが平易に綴られている。

雨にも負けず、風にも負けず、という有名な宮沢賢治の詩があるが、生前何かで読んだ記憶があるのだが、いかにも長島さんらしいと唸ったのは、僕は雨を楽しむ、風を楽しむとおっしゃっていたことである。スポーツマンの鏡というしかない。以後、私もあらゆることに、負けずと言う言葉をつかうことは極力しないと決めた。面白がる、楽しむという風に変えたのである。

企画を決断する際も、一旦決めたら前を向くだけである。年齢的なことも含め、収支、一切合切ネガティブなことは、考えない。少しでも地下に根をはり水を探す。言うは易し行うは堅ではある。が見渡せば、凄い先人たちの遺産がごろごろとおられる。そういう方々が遺された魔法の言葉を浴びて、私のような凡人は勇気をいただくのである。

晩年、仏教の言葉では遊行期をいかに生きるのかが、肝要である。私もそのような年齢である。昭和の時代、戦前世代と戦後世代、生まれ落ちた年齢や環境で体験された記憶が全くと言っていいほど違うのだということを、最近痛切に感じる。

先日、1936年(敗戦時9歳)東京生まれのNHKの名物アナウンサーとして、その名を知られる鈴木健二さんの【昭和の遺言】という新書の読みやすい本を読んだ。改めて多感な年頃で敗戦を体験した世代の、未来への伝言の重みを痛感した。長くなるので割愛するが、関心を持たれたかたは手にしてほしい。誰かを思いやったり、普通に平凡に、暮らすことのできる生活の重み、有り難さが染みた。

日々の暮らしのなかで、ややもすると、つい感謝することがなおざりになったりしてしまいがちに、私などはなりがちである。休日や、雨で労働が出来ないときは、鈴木健二さんの本のように読みやすいのだが、内容の濃い本を読まねば、と改めて思う。難しい言葉、読めない文字はほとんどなく、平易にすらすら読める。だが中身は、個人で全身で感じたことが書かれているので独特の文体。そこが凄い。

難しいことを、分りやすく、分かり易いことを深く、深いことを、、、、、。のお手本のような本である。謙虚に耳を傾ける、ことの大切さ。何故企画をするのか、平凡な暮らしを脅かす時代の足音には、徹底的に耳をそばだてる。敗戦後80年、いよいよ戦争を頭ではなく、皮膚で体感した世代が次々と居なくなる。お茶の間では、飢えたことも、家を焼かれたことも、肉親を殺されたこともない輩が、のうのうと他国の戦争のあれやこれやに、ご高説をのたまっている。

極限状況、戦場ではいかに普通の人間が狂って、鬼畜かしてゆくのかを、多くの極限状況でたたかった、多くの日本兵が90才を過ぎ語り始めている。おぞましいという言葉を越えている。五十鈴川だよりではこれ以上は打たない。五十鈴川だよりを打つものとして、無数の死者の遺言に耳を傾ける。(かたむけたい)

2025-06-07

梅雨入り目前、この夏熱中症を乗り切る対策に思いを馳せる五十鈴川だより。

 梅雨入り間近を思わせる土曜日の朝の五十鈴川だより。あっという間に6月も7日である。今週も5日無事に働いて、土曜日五十鈴川だよりを打てる。無事これ名馬、私は名馬でも何でもない、無名の今をいきる老人である。五十鈴川だよりを打ち始めて、幾年月が流れている。

極めて個人的な日録、一筋の流れのように、右往左往しながら、ささやかな思考を思い巡らし、あくまでも一庶民生活者の老人だより、でありたいと、今日もまた打ち綴る。さて、昨日午後家でお昼を済ませ、新見の猪風来さんを訪ねた。用件は後援名義の申請用紙を書いてもらい判子をもらうためである。

縄文スパイラルアート展のポスター

よし子さんが書いてくださり、用件はすんなりと終わった。猪風来さんは創作時間であったので、すぐに戻ろうかと思っていたら、午後4時、創作を終えた猪風来さんがやって来た。ちょっとお話をしているとそこへ猪風来美術館の開館20周年記念、縄文スパイラルアート展(7月1日から10月31日)の出来上がったばかりのフライヤーを那須さんが届けにきた。

4人で寸暇語らいコーヒータイム。出来立ての素晴らしいフライヤーとポスターを預かる。もう一度フライヤーをとりにゆく手間が省けた。無用の用、思わぬ出来事が重なる。4人での笑顔のスパイラル。

ミーティングは勿論大切ではあるのだが、普段の生活のなかでたまたま生まれてくる何てことのないおしゃべりの中にこそ、神は細部に宿りたまうなんて言うが、私は日々の細部を慈しみたいと古稀を過ぎてからは、体が発するサインに従うようになってきている。6月22日のことや、10月12日に向けての事など、寸暇ではあったがお話が出来て良かった。

毎回思うことなのだが、企画者の端くれとしては動くことで、人と会って話を対面で直接するということが、私の場合は不可欠である。(それしかできないと言ってもいい)

廃校跡が美術館になっている。ゆく度に、老いた体に新鮮な息吹が吹き込まれる。居心地がいいのである。それは言葉ではあらわせられない、目には見えない何かである。

さて、話を変える。この数日一気に夏の暑さを感じさせる。この数年毎年のように思うことは、過酷な夏を働きながら乗り越えられるか、ということである。とくにこれからの3ヶ月半を。72才までは乗り切ったが、今年の未知の夏はいかに。夏は五十鈴川だよりを打つ気にならないくらい消耗する。

だが、おそらく私の場合好きなアウトドアがやれなくなったら、一気にもっと精神的に駄目になってしまうような気がする。今おもうことは、一日一日やり過ごし、週末は五十鈴川だよりを綴って、のらりくらりやり過ごすというのが、私の熱中症対策である。動と静のバランス、栄養をとり、夜はひたすら体を休める。

だが、昨日も元気に働き、午後新見を往復運転し、朝の早い私はぐったり疲れたが、ぐっすりと眠り五十鈴川だよりを打ちたくなるほどに回復するのは、猪風来さんご夫妻の目には見えない縄文のエネルギーを浴びているからに違いない。