五十鈴川だより、 他に打つことがないのかと、時に思わぬでもないけれど、もう私は一老人の老境を綴り打つことが、老いの心身機能調節として欠かせない、からこそ打っている。
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妻丹精の小さき花、小さきままに生きる。 |
66才の夏から働いている、今の肉体労働アルバイトだが、この夏が来れば、丸7年働いている。この間のコロナ下生活でも、人との接触のないこの労働のおかげでどれ程私が救われたことか、本人がいちばんよく自覚している。年金生活者は余裕がない。額の多寡ではなく、収入がある暮らしというものがないと、まず私の場合企画することは不可能である。
幸い娘たちの手が離れ、老夫婦のみの生活なので、余分な出費が不要だからこそ、このような願ってもない暮らしが、つつがなく送れていることはまず間違いない。他の方はいざ知らず、何よりも体が動いてくれているからこそ、労働もやれているし、企画もやれている。
その事にまずは、例えようもない有り難さを痛感しながら、73回目の春の日々を、ありがたいお念仏を、草を刈りながら天空の下で唱えながら生きている。真の意味で富良野での天空の肉体労働、中世夢が原での天空の下での22年間、そして今の労働をプラスすると、すでに30数年、私は天空の下で、四季の移り変わりを体感しながら、大いなるものに身を委ねる生活を、日々生きている。
従ってお金と言うものとは、一定の距離をおきながら(必要な時にのみできるだけお金を使う)の生活を送ってきたし、お金のない暮らしと言うものを、18歳からいまに至るも継続しているそのせいなのか、耐乏生活を続ける耐性感覚がいやでも身に付いている。
だからといって、けちな生き方は御免である。どなたかの本のタイトルではないが、貧乏だけど贅沢な生き方がしたいと、いまも心からそう願っている。だからなのではないかととも思える。企画することを継続しているのは。文章を書いたり、音読したり、本を読んだりするのには、ほとんどお金は不要であるし、何よりも精神的な安寧が得られる。
もっと年を重ね、いよいよもって家からほとんど出掛けられない、体が動かなくなってくる日を、一日でも先伸ばしするための、今のところ私が見つけた一番の方法は、気持ちよく体を動かす労働力をキープすることである。起きてから日が沈むまでの生活と、陽が沈んでからの生活のメリハリをつけ、老いては夜は体をひたすら休める。余分な情報は入れない。これまで学んできたことを、ただ繰り返す。ご縁のあった方々と共に生きる。これにつきる。(今日はこのような五十鈴川だよりになりました)
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