年だなあと思うし、感じる。こんなことを打つと、そうは思いたくない方々から、あまり年だ年だと、打たないほうがいいとやんわりと指摘される。が本人がそう感じているのだから、致し方ない。
だが、だがである。ここらへんのいわく言いがたい言葉の綾で、受け取りかたは多様にかんじてしまうのは、致し方ないと、私は思っている。どちらかと言えば、老いてきたなあ、と感じるのは肉体の方で、心の方はいい感じで老いを迎えられている、のだ。
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今フライヤーをNさんが作っている |
その事を、言葉で表すのは至難なのでよすが、私としてはこれが自然なので、どう思われようと、私自身の内実の吐露を五十鈴川だよりに打ちながら、流れるほうに流れてゆきたいと、ただ想うのである。
老いたなあと感じるのは、だんだんと血が騒がなくなってきつつある、というか、もう何が起こってもすべて受け入れるとでもいうしかない、どこか諦感にもにた感覚、感情が芽生えてきている、のだ。再び、だがだがである。絶対矛盾とでもいうしかないが、老いの心は、青春時代とはまったく異なって、激情にはほど遠いが、老人の心も激しく右往左往するという、当たり前を私は生きている。
話は一気に変わるが、昨年暮れから、新見の猪風来縄文美術館をたびたび訪れている。今年になってからは、猪風来さんの縄文美術館開館20周年記念事業、秋の大きな企画のお手伝いをすることになり訪れている。公私なくゆくのが愉しいのである。
つい先日15日も、そのための大切な打ち合わせ、秋に向けてのミーティングがおこなわれ、猪風来さん、村上よし子さん、とNさん、香川からOさん、瀬政さんと私の5人でおこなわれた。濃密でよきミーティングができたことだけを、五十鈴川だよりに記しておく。
私が打ちたいのはその事ではない。明らかな私自身の内面の変化が、(猪風来縄文美術館を訪れるたびに)起きているということである。老いゆく喜びの発見とでもいうしかない、ような感情にたた誘われるのである。その事に関して、今は縷々綴っている余裕はないが、老いつつも心がいきいきとしてくる感覚が満ちてくるのが分かるのである。だから私は新見の縄文美術館にゆき、猪風来さん、よし子さんに会いたくなるのである。
私がとうの昔に無くした、記憶のなかの風前の灯火の源風景が、あたかもまるで忽然とよみがえってでもくるかのような(錯覚であれ)安堵感に私は浸れるのである。だからゆくのである。臆面もなく五十鈴川だよりに刻んでおくが、今や猪風来縄文美術館は、現在の私のよりしろのような精神のトポスなのである。(今朝はこれまで、これから労働します)
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