五十鈴川だよりにはいただくコメントが少ない。だからたまにコメントをいただくと本当に嬉しい。実は新見の縄文美術館に打ち合わせに行って、(瀬政さん、那須さんと4月30日に配布する、予告フライヤー、及び猪風来さんの縄文土器に打ち込んだ50年の人生を語るトークフライヤー2種類を作るための)帰ってきたばかりで、ぐったり疲れているのだが、谷口さんの頂いたコメントを読んだら、無性に何か打ちたくなったのである。
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今日頂いたDVDのフライヤー |
コメントに交通事故に遇われたことが触れられている。改めて想う。お会いしたのは一度だけ、あれから33年の歳月が流れたのである。おそらく誰にでも訪れたであろう時間の流れ、重みを想うとき、文字だけではなく、じっくりと改めて送られてきた焼酎【凪海】を飲んでみたくなったのだが、今のところまだ開封していない。
長くなるからはしょるが、先日我が家にステイした、小島京ちゃんと4月30日のハレノワが終わったら、我が家で祝杯をあげることにしていたのでそれまでは、凪海を味わうことは控えている。凪海は、私にとっては特別のお酒になってしまったのである。
であるが、今後いつまで飲めるかは別にしても、飲める間は谷口さんの造った焼酎を家では飲み続けたい。いや、飲む、だから、ささやかだが谷口酒造の焼酎を年に何回かまとめて注文したい。あわよくば、私の回りの焼酎好きにもPRしたい。
なにやら舞い上がっているかのような、老人五十鈴川だよりだが、ヒトは舞い上がれたり、動き回れるあいだに何事も思い付いたら吉日をモットウ、としている私としては私の心が思い付いたことに従うのである。
よしんばそれが現世の常識的通念とは乖離が甚だしくとも、感じるヒトは感じるし、わかるヒトは解るし、解らないヒトには解らないのだから。そういう意味では、今年は私の中の老いをより深く味わい、意識的に生きる老人元年として記憶に刻み付ける、エポックな年にしたいという老いのいい意味での欲望が、谷口さんのコメントで湧いてきている。谷口さんの造る御神火焼酎は名前が、今を生きる老人の私に火を灯すに充分である。
誤解を恐れずに敢えて打つが、ハレノワのスパイラルアームズが満員にはならなくても、もちろん満員にはなってほしいのはやまやまなれど、私のなかでは、どこか企画を引き受けた段階からなるようにしかならないという、どこかいい意味での諦念のような感覚が、ぬぐえなかったのは事実である。(うまく言えないが今という虚ろな時代を必死で生きているヒトはきっと反応する)
本番迄一人でも多く足を運んではほしいものの、どこか腹をくくってはいる、のだ。来られるかただけで、ハレノワの空間にえもいわれぬ熱が満ちれば足りるのである。谷口さん始め、濃い聴衆が駆けつけてくださることがハッキリしているからである。
この年齢にして、またもや何かを掴んだという実感が今の私の体を包んでいる。謙虚にこの感覚を育てれば、何か次の世代にバトンタッチできるような、プロデュースする側の意識の転換イベント、企画になる予感が今日も打ち合わせをしていて、体にわいてきたのである。ハレノワから秋の縄文美術館でのイベントにつながる流れを私は模索している。文章で思いを伝えるのは、やぶさかではないが、この五十鈴川だよりに実体を注ぐには、私の今現在の肉体が動いて事実を伝えるしか私には方法がないのである。
こんばんは。
返信削除京さんと一緒に飲む焼酎はまた送りますからとりあえずお一人で飲んでみてくださいという意味で焼酎を送りました。
今日考えたことは「今を生きる」ということを100パーセント感じている人は少ないということ。
「朝は朝だ」と思っている人は朝をじっくり感じていないと思います。
だからつまらないのではないかな? と。
だって朝陽が登ってくるのは素晴らしいし、夜が明けて鳥が鳴く声だって美しい。
この世は奇跡のように美しいんです。
実はすべてのものは素晴らしいのに自分でつまらなくしているのでは? と思いました。
だから日高さんのイベントは日高さんが楽しむために到来した日高さんのイベントなのだと思います。
おやすみなさい。
この世は奇跡のように美しい。私もそう思います。伊豆大島への旅をゆっくり計画します。感謝します。
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