雨である。無理はしないで雨が上がるまでは自宅待機、もしくは今日はお休みするるかもしれない。任されている仕事なので、本人の裁量で仕事を進められるのが一番ありがたい。
今年の8月で、このフリーアルバイターになって丸5年になる。私に初孫が授かったのが5年前。コロナのパンデミックから丸3年、そしてウクライナで本格的な戦争が始まって、もう1年4ヶ月が過ぎようとしている。70才で企画したことで、ウクライナという国の名前、言葉は私のなかに染み付いてしまった。
東京の娘のところに送られた紫陽花 |
時代の未来は誰にも予測がつかない。だがいつの時代も、限りない困難を先人たちは、そして今を生きる私たちも、生きている事実にしがみつき、わたしは五十鈴川だよりを打ちながら、心身を整えている。
想像するのが嫌になるほどの、ウクライナのダムの決壊による、水没災害に困窮する人々の映像には言葉を失う。悲惨というしかない、戦争人災にたいして、長きにわたって平和的な状況しか生きて、経験してこなかった私としては、沈黙、忸怩たる思いである。これから先の未来時間の過ごし方、一人の老人として何ができるのか、できないのか。(考えるしかない)
どこかしら、諦感、といった感じで日々を生きてる。なるようにしかならない。水は流れる方に流れてゆくしかないように、私もまたかそけき日々を流れてゆく。
わすれてゆく器としての私は、だから五十鈴川だよりを打つことにしがみついて、心身の安寧を平衡感覚をキープしているのだろう。もしこの5年間肉体労働アルバイトが、なかったとしたらと考えると、ちょっとゾッとする。
動き、汗をかき、飲み食べ排泄し、新陳代謝を繰り返しながら考え日々を生きる。私の場合読んではいないが、ヤマザキマリさんの本のタイトルのように、動きながらしか考えられない体質なので、このアルバイト先に巡り会えた幸運を毎日のように感謝している。一仕事終えたあとの達成感、充実感が単細胞の私にはあっている。
まるで日々トレーニングするかのように労働できる環境で過ごせていられルからこそ、かそけき流れではあれ、充実した今が生きられているのだ。そして思う、若い頃から今に至るも華奢で肉体労働が苦手で、本を読むことも文章を書くことも大の苦手立った自分が、世の中に出て53年、今ではこの3つが欠かせない自分と化してしまっているのが不思議である。
人間は変化し続ける器である、とつくづく思う。もっと打てば変化し続けないといきられない器である。自分のダメなところ、弱点を克服しながら、尺取り虫のように、確実に一歩一歩歩を進めてゆく面白さは、やはり富良野での3年間と、中世夢が原での22年間で培われたからこそ、今があるのだと梅雨真っ只中の朝に思う私である。
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