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2023-06-18

初めて谷本真由美さんの新書版の本を読みました。無知は恐ろしい。そして思う。

 静かな朝の休日のひととき、メルとの散歩を済ませて、穏やかに五十鈴川だよりを打てるなんて、まるで浄土世界に、いったことはないがいるようである。中世夢が原の武士の屋敷の縁側で、夏、誰もいない朝、せみしぐれを聴いていた情景を思い出す。たしか、藤原新也さんが書かれていたかと記憶している(あるいは間違いかもしれないが)この世に天国も地獄もあるのだと。

初めてこの方の本を読みました

さしずめ、私はこの世の浄土に存在しているかのような気分、まさに極楽とんぼである。一転目を転じれば、またはちょっと想像力を働かせれば、この世のあちらこちらで、目をおおいたくなるような、この世の地獄を否応なく生きておられる方が途方もなく存在する。

そのようなことを心のどこかに留め置く感覚をなくしたら、きっと企画することは止める。古希を過ぎて、いちだんと想うことは、ささやかに存在しながら生き続けて今を迎えられていることに対する感謝と、どこか忸怩たる思いである。

この感覚を、日々確認するかのように、五十鈴川だよりを打っているのではないかとおもう。これも記憶にあるのだが、詩人の石垣りんさんの言葉であったと思うが、他者の痛み、もののあわれに、耳を澄ます想像力をなくしたら明日は我が身であると。

作者は失念したが【気がつけば・戦争が廊下の奥に・立っていた】という俳句も新聞で知ったのだが記憶に残っている。年を重ねればあらゆる感覚が鈍くなり、どこかが弱まってくるのは摂理ではあるとはいえ、せめて五十鈴川だよりを打てる間くらいは、世界のあちこちで日々起きている出来事に無関心であってはならない(と私は考える)。(谷本真由美さんの本で知ったがシリアからの難民をのせ、転覆覚悟でたどり着いた島に、そのような報道に全く無関心で、新婚旅行にゆきたいというノウテンキカップルの、世界認識の程度の低さに警鐘をならしておられる)

長いものには巻かれろ的な厭世感が漂い、生成AIに関する記事が見当たらない日はないくらいだが、年寄りとして思うことは嫌な感じの始まりがすでに表面化してきてきているのでは、との危惧である。タモリも戦前の始まりの気配があるとのべていた。なしくずしにあれよあれよと事が決まってゆくことの恐ろしさ。

防衛費の増税が閣議決定された。庶民の一人として思うことは、仮想敵を想定し新しいミサイル防衛構想に巨費を投じるというのは、素直に首肯できない。北朝鮮からのミサイルが飛んできたらどうする。まずはそうならないように外交、叡知を絞って考え詰めるのが大人の方法、態度ではないかと、一庶民としてはごまめの歯軋りである。

風が吹けば桶屋が儲かる。戦争で一番いいおもいをするのは誰なのであるか、子供だってわかりそうな話である。気が遠くなるほどのお値段、超音速飛行機や原子力潜水艦、ミサイルとうの私の関知したくないおぞましき兵器の製造発達には言葉を失う(劣化ウラン弾、レジーカッター、クラスター爆弾、すべて中村哲先生の本で知ったが、先生はこのような武器を造る人間がいることがわからないと書かれていた)地獄の沙汰も金次第のグローバル化である。

思考麻痺、仕方がない、という言葉が私は好きではない。仕方がないということがこの世にあまねくあることは認識しているが、だからといって無関心を装うことはよしとしない。子供を亡くされた母親が泣き叫ぶ様は、生き地獄である。そのような映像はみたくはない。

話は変わる、打つのも気が引けるほどの大惨事、ウクライナの理不尽極まるダムの決壊による平凡な人々の生活がなしくずしにされてゆく不条理、頻発する山火事とうの自然災害。世界の良心のあるジャーナリストの報道に(出来事に)耳を澄ます勇気が私には必要である。

高校3年生の時に田舎で黒澤明監督の映画【天国と地獄】を何度も見た、タイトルが直球である。あれから50数年、戦後78年がたつ、私は71才である。他人事ではない、という感覚をなくしたくはない。

世界の現状はテクノロジーの発達と共にますます悲惨度数が上がっているかのように、私には感じられる。どうしたらいいのか、ひとつ言えることは無関心からは何も生まれないと言うことである。


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