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2019-12-31

大晦日の朝に想う。

大晦日である。良し悪しは置くとしても、悠久の時の時間の流れは日々変わらないのに、やはり大晦日は粛然とした気分になるのは、空気民族の日本人のやはりDNAとしか言いようがない。

もう私などはこの一週間、年越し前の前夜祭といったあんばいで過ごしている。今日は次女の旦那さんがお昼にやってきて年越し前の夕食まで共に過ごすことになっている、娘婿がわざわざ来てくれるそのことも私にはとてもうれしい。

近年こんなにゆったりと年の瀬を過ごしたことはない。そのことは先の五十鈴川だよりに書いたが、簡略に振り返っても還暦以降の年の瀬時間では、思い出に残る歳としてきちんと五十鈴川だよりに書いておきたい。長女が結婚した年と同じくらい思い出に残る歳となった。

2月の日高ご夫妻との出会い、弓の師との出会い、6月のロミオとジュリエットの発表会、8月の次女の結婚式、9月小学校の同級生との思わぬ出会い、折々の望晃くんの成長、とくに10月、11月連続再会時間でのあまりの変化に驚かされたこと、などなど。(12月中村哲先生の訃報は思わぬ出来事して決して忘れない)

ともあれ家族含めて、私にとって身近な方々が元気に四季折々過ごせたことに対して、まことに持ってありがたき大晦日というほかはない。昨日も午後娘、母妻含め4人で温泉に行ったのだが、娘が帰ってきた日にも温泉に行ったので年の瀬2回も温泉に入ったのも初めてである。

今は亡き生家の庭の晩年の両親に手を合わせる
地震は多いが湯船に入っているときには、そのようなことは事はけろりと忘れて、日本列島に生まれた湯あみの恩恵に浴する。母、娘が手をつなぎ湯から出てきたときの母の満面の笑みは菩薩的だ。年の瀬の冬の温泉は家族を幸福にする。

帰りコンビニにより、湯上りアイスを食べながら家に戻ってきた。吉井川の上流は幻想的な霧雨で 視界があまりよくはなかったのだが、それもまた良き思い出となった。戻って妻と娘がこの数日二人で手早く夕飯の準備、豚肉の炒め料理、サーモンのサラダ、餃子ほか。

母は80歳を超え、とくにこの数年私と共にささやかにビールを飲飲む、その時の表情がなんとも言えない。再び極楽的な顔つきになり、ああ幸せとのたまう。私まで幸せになる。ともあれ、幸福とは何か、苦を度々乗り越えてきたからこその母の笑顔なのであると承服【笑福】する。

母は夕飯後は薪ストーブのそばで、マグロになる。今年最後の夕飯は次女の旦那さんも加わる、感謝である。(ドレスデンの長女家族のことも想像しながらいただくことにする)



2019-12-29

年賀状は卒業し、年がだよりを書くことにしました、そして想う。

いつまでできるのかはわからないが、年賀状は卒業し、年の瀬に書ける範囲で年賀だよりを書くことにし、昨日までに数十通何とか投函できました。形式にとらわれず、内実を採る、ことにしたのである。

老いてきたら義理を欠くことに決めたのは、先日も書いたが、老いの気配をわが体に感じつつある今、今現在の大事な方々には、書ける範囲で直筆の文字を書いてお年賀を出したいとのおもいが湧いてきたのである。いろんなことを並行してやりながら、一日に5,6通のたよりを書く、一週間でそれなりの方々にはささやかに思いを伝える一文がつづれる。このようないっときが持てる年の瀬が、ありがたく嬉しい。

振り返るとこれまでの人生で、一番静かな年の瀬を過ごしているのではないかと思う。年の瀬はとにかく一年を振り返るまたとない時間である。どこにも出かけないで家の中で過ごすなんてことは初めてである。 多分これからますます家の中と、ご近所周りが私の視界に映る世界のすべてになってゆくのだろう。(ドレスデンにでも出かけない限り)

視界はせまいが想像は無限にたゆたう、そのような晩年時間をこそ過ごしたいと私は願う。とはいっても年が明けたら決めてはいないが、ふらりとどこかに小さな旅に出掛けたいとは思っている。名所旧跡とは無縁の小さな旅こそが私にはふさわしい。
文字を書くのに疲れたら、短いこの方のエッセイを読む

父親の形見の硯と墨、それをすって墨汁を作り文字を書く。ひたすら集中して書いていると、いくらつたなくとも文字が成り立ち、拙文がつづれる。相手の顔を思い浮かべながら書いていると、おのずと一文が湧くのは相手が私に一文を書かせているのである。そのような思いになる。だから書が最近の新たなわが愉しみなのである。

シェイクスピア遊声塾も、書も、弓もすべて退職後に始めたことである。とくに書と弓はまったくやったことがない。そういう意味では下手に自分の世界を広げる必要もないとは思うが、何かが私をそういう世界へといざなうのである。

鮮やかに文字を墨ですって書いていた父の姿が脳裏に刻み込まれている。そのような晩年時間の父の姿に、どこかで私もあやかりたいのである。碁を打っている姿、文字を書いている丹前姿、などなど在りし日の父の男姿がほうふつと浮かぶ。

上手下手は置いといて、まずは墨をする。姿勢を伸ばしてただただ擦る。一行の最初の文字に集中する、あとは流れのままに。邪心を祓い、邪心を抜くために、きっと声出しも、弓も、物事に当たると、そこにはやはり共通する何かがある。

文章も、声出しも、弓も、きっと相手があってこその何かなのである、そのような気が最近とみにする。文字を書き伝えたい相手に恵まれなければ、書く意欲は生まれない。そういう意味で、落ち着いて年賀だよりを出したい方に恵まれたことの有難さを想う。

交友関係は年々移り変わるが、それなりの方とのご縁は深まり、とくにこの数年の塾生も含めた新たな交友は、老いゆく花を開きたいと願う、わが煩悩に大いなる刺激を注いでくれるのが覚る。

2019-12-28

次女が帰ってきて我が家の年越しがちょっとにぎやかになりました。

昨日から母もやってきて、午後3時前に次女を岡山駅まで3人で迎えに行き、そのまま市内の温泉に行き全員さっぱり、6時に戻り久しぶりに4人での楽しい語らいの夕食ができた。妻と娘がとんかつ他てきぱきと作ってくれ、私は薪ストーブ他を担当、猫の花は寒がりで、ストーブを焚くとそこから離れない。冬の夜長薪ストーブで家族全員が温まる。

これから大晦日まで、次女がいるので母と妻の喜びようは、男親の想像を超えているが、にぎやかなことが好きな私にとっても、やはりうれしい。メルも花も嬉しそうだ。

おひとりさま率が増え、孤独をいかに強く生ききるのか、といったハウ通本が売れる世相だが、私のような軟弱な男子は、助け合って支え合って生きてゆくのが性に合っている。というか人間という字が示すようにヒトはヒトとの間合いをとって生きてゆくしかないと、おもうのである。良き間合い、というものが家族であれ肝心である。(あらゆる関係性に言える)

文章が素晴らしい、想像力を刺激する

ともあれ、昨日も書いたが母の喜んでいる姿を見ると、今年も無事に家族が年を越せそうで、軟弱な家長ではあるがささやかに嬉しい、の一言だ。

私も妻も華美な生活とは無縁の、とくに幼少期は物のない貧しさの中、必死で親が育ててくれたので、質素な暮らしの中での喜びで足りるし、それが身の丈に合うのである。

しかし、私の小さいころと比較すると格段の食生活の豊かさを生きていられる現在の暮らしは信じられないほどのものだ。だから一文を綴りながら、何かに感謝するのだ。当たり前のような暮らしは、いつ何時当たり前で無くなるのかは歴史が証明している。

そういう意味では、食品ロスや長時間労働が見直(良心のある経営者が増えている)されてきているのは希望だ。道徳や倫理言葉の問題ではなく、まず実践、特に食べ物を大事にし、人と人が共においしくいただく命の連鎖の授業は、まずは家庭から始めないと、命のかけがえのなさの大事がおざなりになってゆく、そのことはオーバーではなく、国の礎も揺るがしかねない。(と私には思える)

私が現在穏やかに生活できているのは、やはり両親のように身の丈に合う暮らしを持続してきたからだろう。母に至っては筋金入りのつましさを現在も生きていて、そのくせお金にはまったくといっていいほどに執着していない。娘や孫たちのためにほとんどを使う。見上げたものである、あっぱれとしか言いようがない。地に足がついているというのは、母のような人の生き方であると思う。私にはあのように生きればいいのだというお手本が身近にある。

このところのバブル期以降の浮き足立つ日本人に対して、アフガニスタンの大地から地に足の着いた生活を忘れないように、と絶えず警鐘を鳴らし続けたのが中村哲先生であった。かけがえのない家族、命を支える水や食べ物、本当に大切なもの を先ずはきちんと見据えることだと、軟弱な家長はあらためて思う、年の瀬である。





2019-12-27

次女が帰ってくる年の瀬の朝に想う。

今日から元旦まで次女が里帰りする。長女家族はすでにドレスデンに。長女は22日から(レイさんと望晃くんは16日から)里帰りしている。(レイさんと娘から動画や写真が送られてくる、良き里帰り時間を過ごしているのがよくわかる、ありがたい時代だ)

だからこれから大晦日まで私と妻と母と娘の4人となり、しばしの間家族の賑わいとなる。午後岡山駅まで迎えに行くことにしている。次女が帰ってくるのを、妻と母はことのほか楽しみにしている。やはり生理的に妻には、いつまでも(嫁いでも)娘である。

妻と娘の守護神白血病のキャリアを克服した花
娘は姓が変わったとはいえ、私にとっても娘であるのは同じである。時代が変わり、娘が実家に里帰りして過ごせるようになってきたのである。大みそかには旦那さんも年越しに来てくださるとのことで、私としては感謝しかない。有難い。

次女の旦那さんは、細やかな気配りの感性があるので、ふつつかな親としては娘たちが二人ともこのような得難い男性を人生の伴侶として、巡り合ったことに感謝せずにはいられない。ともあれ、このようなことを臆面もなくつづれる私の年の瀬時間である。

それもこれも、やはり義理の母の、この数十年の陰ながらの支えというものが、あってこその年の瀬なのだということを、ようやくにして思い知る私である。娘たちもそのことを有難いことに、よく自覚していて相思相愛である。深い思いはやはりきちんと伝わるのである(重々思いいたさないといけないと反省する)

あらゆる人間が、あらゆる関係性を結びながら生きるのが世の習いであるが、かけがえのない関係性を結べるのは、たやすいことではない。ところでたぶん今日あたりから、母も我が家にやってきてお正月を過ごすのが年の瀬の恒例である。

昔母が植えた我が家のご神木の八朔、今年もたくさん実った
母は86歳、もうそろそろ一つ屋根の下で共に暮らそうと、何度も話すのだが、母はまだひとりがいいと譲らないのである。気丈な母ととしかいいようがない。そのような母だが、お正月だけはいそいそとやってくる。お正月はひとりが嫌なのである。

娘のように育てたという次女が帰ってくるので、母は 喜びもひとしおなのである。年々歳々、幼少期のお正月のあの浮き浮きとした情緒は私の中でも薄れてゆくが(甘受している)我が家の中には、失われしあのころの面影が、そこはかとなく残っている。

恒例の玄関先のお飾りも、母と妻の3人で我が家らしいお飾りを作るのが恒例である。家族の安全と無事を祈る、先人たちの紡いだ儀式はきちんと心から心に伝える、一つの家族でありたく想う。いつまで3人でできるのかは神のみぞ知る。今年は次女も含め4人で作ることにする。 そのことがうれしい。

2019-12-24

年の瀬、放置していた最初の書斎の整理整頓がやれる範囲でできました。

臆面もなく、つづるや五十鈴川だより。冬休み4日目の朝。妻も昨日から仕事がオフに入った。この3日間、今年の私は静かな年の瀬を楽しめている。

私は現在娘たちがかって使っていた2階の一番広い部屋を、書斎兼寝室兼弓の鍛錬兼等々の場として使っている。日当たりの良いこの部屋が今やすっかりお気に入りである。

家を建て替えた時に作った、西向きの冬は寒い四畳半の書斎とはすっかり疎遠になり、これまでの人生でたまった年賀状、手紙、チラシやポスター、物や写真他が放置、保管されていたのだが、一念発起、どうしても処分できない品々 のみを遺すことにして、整理整頓処分した。

おおよそ3時間以上書斎の中で、ひとり思い出と格闘しながら、かなり思い切って処分ができてようやく空間がすっきりとした。断捨離という言葉はあまり好きではない、とくに私は思い出に生きるタイプの情緒に弱い初老男なので。でも気力がしゃんとしているときに思い切らないと、きっと後々禍根をの残すような気がしたのである。身軽になりたいのである。

真実、時は残酷なまでに無残である。昨日まで立っていた人が、横になってしまう現実を還暦以降 、間接直接間近に知見してきた。そうなってからやろうと思っても遅いのである。だからやれるときに、やれる範囲でやっておこうと思ったのである。

告白する。私は整理整頓が苦手である。弱点であるといってもいい。振り返ると、18歳からの私の人生は、自分の弱点との戦いであった、と思える。少しづつ少しづつ自信をつけながら、時に大いなる反省をし、自問自答し、脱皮するかのように歩み、今もかろうじてその歩みの延長にある、といったあんばい。

でてきた宝のポスターを今使っている部屋に飾る
私は思う、思い出に耽るだけではあまりに能がない。ジャンプするためには老いたりといえども、ささやかにジャンプするためには力を貯め充電しないといけない、そのための冬休みである。過去の宝石のようなおもいでの数々が、私にエネルギーをくれるのである。だからこそ私は記憶の宝にすがり、今日を生きる 。時折過去を本質的に振り返るには、またとない年の瀬である。

話を変える。とはいっても難関が一つ。写真の整理整頓、40代のガンガン企画をしていたころの写真や、アフリカやインドでの珍しい風景写真など(これは処分できない)の整理整頓をやらねばならない、これに頭を悩ませていた。(デジタル以前のフィルムのネガの保存に)だが、忽然と救いの神が顕れたのである。

入塾したてのk子さんがカメラが趣味で、私がやってあげましょうかと(私が頼んだのだが)言ってくださったのである。思いもかけぬ申し出、お言葉。彼女に整理をしていただくにしても、まずは私が最初に書斎にきちんと足が入れるようにしておかないといけないと思ったのも、書斎の片付け整理にまずは取り組んだのもそのことが大きいのである。

彼女をお招きする最低の整理整頓は、何とか年の瀬にできた、そのことにほっとしている。ところで今日はクリスマスイブである。妻と二人でささやかに過ごす。





2019-12-23

2019年年の瀬に想う。

年の瀬3日連続で五十鈴川だよりが書ける、書きたいという自分がいるのが、やはりうれしい。1日の始まりは改まった体の朝にある、とやはり思う。夜明け前の暗さから徐々に夜が明けてくるときの一時の静けさは、もう何十回も書いているが、やはりなんとも言えない。

ゆっくりと布団をたたみ、洗面を済ませ、コーヒーを淹れ、新聞にさっと目を通し、五十鈴川だよりの前に、昨日の新聞の書評をじっくりと読み、自分の琴線に触れた書評を切り抜き、ノートに貼りつけたらあっという間に1時間以上が過ぎた。

時間とは集中しているとあっという間に過ぎて行ってしまう。同じ時の流れなのに電車を待っているときなどには長くも感じたりするのに、好きなことをやっているときには、瞬く間に過ぎゆく。この年齢になると好きなことに、集中してことと向かい合っている時間が、一番幸福感に満たされる。(ように感じる)
五十鈴川だよりを綴れる間は書評切り抜きも続けたい

きっとそれぞれの年代を通過してのちの、今にして味わえる感慨というほかはない。若い時にはあれほどほしかったものが、今は全然といっていいほどにほしくはないのだから、ヒトは変化するのである。以前はぶれない生き方なんかに憧れたりもしたが、還暦を過ぎてからは、あられもないほどにブレブレである。(だって世界がこうもブレブレなのだから)

別に開き直っているのでも何でもなく、五十鈴川はあるがままに変容し、流れ流れ、日々を生きるほかはない。誰のコトバであったか、老いては義理を欠けという言葉に従いたいと、だんだん思うようになってきた。

話は変わるが、シェイクスピア遊声塾を立ち上げてから以降、言葉も交わすことがなくなっており、疎遠になっていた方から忘年会のお誘いがあったのだが、しばし逡巡したが断念した。それ以外にも思わぬお誘いがあったのだが、これもお断りした。

我ながら、不徳の致すところというほかはないが 、もうこれからの人生時間はお会いして自分にとって気持ちのいい方との時間を優先したいし、何よりもひとり時間や、妻との時間、母との時間、家族時間を最優先したいのである。

家族との時間以外では、シェイクスピア遊声塾の塾生との時間が、今の私にとっては一番大切な時間である。だからいつかも書いたが、水曜日のレッスンに現時点では体調を崩さないように、いいコンディションでレッスンできるように、以前にもましてとくに今年から気を付けている。

精神が安定し、健やかでないとよきレッスンは不可能である。立ち上げて7年目、7人の情熱のある塾生の面々との限られたレッスン時間は、老いながらますます大事な時間となってきた、この面々と翻訳日本語のシェイクスピア音読時間が、一番大事になってきたのである。だから、有限なるわが時間をあだやおろそかにはしたくないのである。

だからごめんなさい、私はますますこれから不義理な初老男に変身してゆくことを、この場を借りてお許し願いたい。限られた時間、シェイクスピア遊声塾の面々が豊かに成長するためには、私自身が一番もっともっと謙虚にわが体と向かい合い、学ばなければ、と おもうのである。

時間のゆるす限り、水曜日以外でも塾生が個人レッスンしたいという意欲があれば、忘年会はお断りしても、塾生の要望には応えるつもりである。健やかな体から発せられる、稽古場で出る思わぬ予期せぬ聲。今の時代のさなか、このような私塾に参加してくださっている、塾生との時間をいよいよこれから大切にしたい、と年の瀬に想う。

一途に頑固にしかし、どこかに余裕とユーモアをもって、言うは易しであるが。

2019-12-22

怒りを込めて振り返る、年の瀬に想う。

年の瀬なんの予定もなく、静かに穏やかに過ごせるといういっときが持てるという、いわば心の余裕というものがある、ということはなんとありがたいことであるか、噛みしめつつ今朝の五十鈴川だよりを書きたい。

しかし、何を書くのかは老いゆく日々の生活の中で、 湧いてくるわが内なる思いを、つたなくも言葉にするだけで、とりたててさあ書くぞといった思い入れ、発露は、弱くなってきたことを自覚している。

怒りを込めて振り返れ、というタイトルの芝居 があるが、きっと老いるということは、感情の喜怒哀楽がいやでも弱くなってゆく、という気がしている。とは言うものの、怒りを込めて振り返らないことには、にっちもさっちもいかないほどに、この国の未来を託す政治家や、企業人、官僚たちの劣化は(自分もである)いかんともしがたいほどに、私の眼にもあまりにも無残な姿で映る。

データの改ざん、隠蔽、偽装、フェイク、臭い物に蓋をする、見て見ぬふり等々、一庶民感覚にしても、この数年の堕落ぶり(バブル崩壊から原発事故から何も学んでいない)はここに極まる、といった感がする今年の年の瀬である。

とくに経済的な構造、格差を生み出すこの全世界をおおう富の流れの偏重には言葉を失う。金とものはヒトを狂わせる。持てるものと飢えてる民との天と地ほどの乖離、溝を埋める食い物が行き渡る経済循環の新しき英知人の出現を私は望む。

このわが国の人的枯渇の行く末が、私には恐ろしい。でもこのようなことを書きながらも、どこかに私は希望を探す。そうでもしないと息が上がってつまるからである。

わが体は、可能な限り風通しよくありたいから、良き風に触れるべく良き人物の良き言葉を探すのである。人間は間違い、気づき、反省し、螺旋状に成長する器である(と考えたい)。

間違いに気づく人はやはり気づくのである
私の大好きなシェイクスピアの一番短い芝居の初期の作品(処女作ともいわれている)は【間違いの喜劇】である。おそらく数限りない愚かな間違いや絶望を繰り返しながら、人類はおそらく数千年かけて、何とかかろうじてここまでの地点まで歩んできたのだと思われる。

凡夫の、私の朝の五十鈴川だよりでは、収拾がつかなくなるのでこれ以上書くのは控えるが、あおるかのような視聴率偏重のテレビや、その時だけのメディア報道、グルメ番組、あまたの雪崩のような どうでもいいCMの垂れ流しなどなどに自分も含めヒトは麻痺する器である、、ゆめゆめご用心、からめとられないようにしないと、本当に危ない。(自分も含め人々が熱狂に走るときはとくに危ない)

懐疑心、真実を追求する姿勢、つまりは普通のあたり前感覚を失わない、報道人や言論人や政治家経済企業人、芸術家一般庶民が、少数になってきているような時代の不気味さを私は個人的に感じる。そのことだけは老いつつある中、ごまめの歯ぎしりのように、五十鈴川だよりにきちんと書いておきたい。

どんな権力も組織も人民も(私個人も)堕落癒着は逃れえないのかもしれない、ならばどうしたらいいのかを、点検あらためなければ、原発事故をはじめ、ことを間違えたら、核戦争、宇宙戦争、SF世界、 取り返しのつかないサイバー都市文明の渦中を全人類は生きている。いくつになっても五十鈴川だよりを綴れる間は、やはり怒りを込めて振り返れ、である。

2019-12-21

今日から冬休み、さあどのように過ごそうか、五十鈴川だよりを書きながら考える。

今年も余すところあと10日となってきた。年の瀬をあわただしくすごすのは嫌なので、昨日でアルバイトにもけりをつけ、シェイクスピア遊声塾のレッスンももう年内はない。

これからほぼ2週間以上完全なオフタイムに入る。小さなオフ時間とちょっと長めのオフ時間が、私の場合はやはり年齢的にも必要であるとの思いが、にわかにこの数年強くなってきた。そういう意味では今年は娘の結婚式で北海道に行ったり、故郷に4回帰ったり、何と甲子園に2回も出かけたりと、折々の季節、結構移動 したのは五十鈴川だよりに書いている通りである。

一年を振り返るのはまたにするが、私の場合季節が移ろうように、心も心なしかそれに沿うように移ろうようになってきてしまっているのではないかという、気が最近とみにしている。老いの自覚が深まり、微妙に体に響くような実感があるのである。

65歳を過ぎてから、可能な限り、老いを意識的に生きようと思い始めて間もなく3年になるが、老いの自覚を静かに深めるのに始めた弓も間もなく3年になる。何事も3年近く続けていることで、いまだ老いつつも体が微妙に変化しつつあるのをこのところ感じている。

冬の夜長は静かに本を読むのが最高です
老いるにしたがって日々を丁寧に過ごすようになってきたのは、弓を始めたからではないかとの実感がある。とにかく弓の作動、所作は 丁寧さ集中に尽きるのではないかとおもへる。

はじめて3年くらいでは何とも言えないとは思うものの、自室に設けられている巻き藁稽古の一時が、精神のざわつき、揺らぎを鎮めるのに、かかせなくなってきた。

気分がふさぐような出来事や、ニュースなどがあっても弓をひくことを続けていると、こころが 鎮まってくるのが以前にもまして実感できるようになってきたのである。故郷で出会った師から14キロの弓をひきなさいといわれ、今年からふるさとの日高弓具店で求めた稽古用の弓をひいている。(先生は私の弓の握り中塚を私の指に合わせて直してくださった)

弓には現在の年齢の心技体が 全て顕れる。どこかに体調の不具合があっては、絶対にといっていいほどに弓は引けない。まずまっすぐに立っていなければ(立てなければ)弓は引けない。だから何をなすにも、つまり働くにも声を出すにもまっすぐに立つという基本が弓によって、以前にもまして意識せざるをえなくなったおかげで、あらゆる生活面で効果が表れてきているのだ。 何事もゆっくりと丁寧に行う。

気持ちのいい健やかさというものこそが、いかにかけがえのないものであるという実感は、老いてきているからこそ、老いてこないと分からないということが、よくわかる。

だから、現在働け、声が出せ、弓が引け、本が読める体の有難さが、冬空の下沁みるのである。情熱の意欲の根拠は体こそすべてというほかはないのである。ずっと先にはきっと潮時というものが訪れるのだろうが、今はそのようなことに想いをいたすべきではなく、今日一日をいかに過ごすのかに初老男は想いをいたすのである。


2019-12-15

老いを見つめて丁寧に生活する五十鈴川だよりに、シフトチェンジする。

これから五十鈴川だよりを綴る日々、回数は減ってゆくと思う。一日という時間のなかでの、やりたいことの優先順位が微妙に変わってきたのである。だからこの場を借りて、(毎日のように貴重な時間読んでくださっておられる方には)ご寛恕願いたい。

でもまだまだ、このゆれる 初老男は体は動くし、情熱の血潮が騒ぐし、回数は減ってもその分密度の濃い五十鈴川だよりが書けるように、ささやかに学び続けるつもりである。

それがあまたの、私が個人的に影響を受け、今も私の胸に生き続けている死者たちに対するいわば仁義である。わたくしごときの一文、お恥ずかしき限りではあるが、世の中に出ての無知蒙昧さを知らされて以来、いまだお恥ずかしきことの連続の果てに、何とかかろうじてこの世の片隅に存在させていただいているという自覚がある。恥は一瞬、学ばざるは一生の恥である。
赤裸々な親子のやり取り、コトバなく感動した

この半世紀、見た体感した日本以外の国々のあまりにも異なる風景、生活、歴史、言語、民族の違い、旅の重さ、一人の人間との出会い、一冊の本との出会い、一つの舞台、一つのフィルム、今も心に刻まれたあらゆる無数の出会いの記憶の集積が私の全財産である。今まで何度打ちのめされたことだろう。

でも打ちのめされたからこそかろうじての今がある。でもまだまだだ、油断してはいけない。日々を大切に学ばねば、すぐに劣化する。自分とは松岡正剛氏の言葉に習えば、フラジャイルな葦のような存在なのである。

いまだ消えず燃え続けるわが体の記憶の宝におそらく導かれて、私は いよいよこれからの人生時間で学んできたことを、繰り返し再生、歩むことになると思う。

あきらかに言えることは、自分がこれまで憧れたり影響を受けた方々とは異なる、極めて平凡であるかのように生きてきた方々の、非凡さの側に、素晴らしさに徐々に気づき始めたのである。だからまずは、日々の身の回りの生活をきちんと丁寧にできる自立した初老男になるべく、、、。

これまで主に重きを置いて過ごした、学んできた芸術や文化的な時間は卒業し、まったくこれまでやらなかったこと、生活してゆく上で見過ごしてきたことを、きちんとやれるようシフトチェンジする。

2019-12-14

中村哲先生がお亡くなりになり10日余り、ささやかに想う。

こんなに五十鈴川だよりを書かなかったのは初めてである。いろんな理由が考えられるが、やはり一番大きいのは中村哲先生がアフガニスタンの地でお亡くなりになったことが、遠因としてあるのは確かである。

 がしかし、そのことに関して五十鈴川だよりの中で整理するには、まだまだ時間がかかるのは、自分の体が一番深く理解しているが少し書きたい。これまでの人生で多少なりとも本を読むことで、かろうじて精神の均衡を保つことができ、いろんなかたがたに御本の一文に心と体が啓発され、何とか現在まで生きてこられた(いまも生きていられる)のだという自覚がある。

40代の終わり、ちょうど父親が亡くなったころに、私は中村先生の御本【ダラエヌールへの道】という本を読んだ。一読まだ若かった私は一驚した。深く心が揺り動かされた。爪の垢でも飲んでこのような方の生き方から、何かを学ばねばと思ったのである。
1993年に発行され私が読んだのは2000年の本

あれから20年近い歳月が流れた。やがてこの20年間がどのような時代であったのかは、時がもう少し経ち、後世の賢者の手にゆだねるほかはないが、このような人間がこの時代に存在し、それが日本人であり、それが九州人であったことに、とてつもないある種の誇りを九州人の端くれの一人として誇りを持つ。

最近、いい意味での衰え、老いの自覚がある。その老いの自覚が若いころと違って、静けきひとり時間をこよなく大事にするようになってきつつあるさなかに飛び込んできた、先生の突然の訃報である。(その日は塾のレッスン日であまりテレビを見ない私は、知るのが一日遅れた)

先生はお亡くなりになっても、ペシャワール会 の会員であろうとなかろうと、先生の御本を読んで何かが揺さぶられた方の胸には、今後ますます光り輝く存在となって、行く末を照らし続けると思う。

見事というしかない情熱の行く末の姿を、身を挺して先生は行動で範を示された。深く首を垂れ、ご冥福を祈念する。 私を含めて言葉であれやこれやを語る輩は、ごまんといるが自ら体を動かし、率先垂範される言文一致表裏一体の虚飾が限りなく少ない先生のお姿は、ある種私のような俗物には崇高という言葉しかない思い浮かばない存在である。

先生は神の領域の住人になってしまわれた。そして想う、還暦を過ぎて私は頻繁に故郷詣で、五十鈴川もうでを繰り返している。凡夫俗物のわたしであるが、寄る年波と共に故郷の母語での会話を楽しむ、楽しめる心からくつろげる人たちとの、幼少期感覚を共に過ごした方たち、あの環境で生きてきたふるさとから離れなかった人たちとの時間が、こよなく大切で、かけがえがなくなってきた。

ふるさとを飛び出しおおよそ半世紀。私は巡り巡って岡山に住んでいるが、豊かな水と緑に今も恵まれた、五十鈴川人であるとの思いはますます深まる。そこに生を受けたおのれの幸運を神に感謝、先祖に感謝するのである。いろいろな絶対矛盾を抱え込みながら、私のような凡夫は歩むことを余儀なくされるが、これからの時間の中で、可能な限り考え続けたい。人間にとって最も大切な命と水と緑を育む奇跡の大地のかけがえのなさを。

先生は命を賭してあの過酷なアフガニスタンの大地から、人類が争いをやめ、武器を捨て大地の恵みを噛みしめることの根源的な大事な哲学、人類絶望に向かうのか、それとも穏やかに全人類が飢えずに住める世界を目指すのかを、40年以上にわたって身を挺して発し続けられたのである。

そのことの重さを、これからささやかに五十鈴川だよりを書くものとして受け止めたい。

2019-12-02

今回も日高ご夫妻を訪ね、わが心に新しき親戚ができました、そして想う。

昨日に引き続いて、ご先祖の地で今年の2月に出遭ったのが、私と同姓の日高ご夫妻である。今は亡き厳しき父親が少年期から思春期を過ごし、生家から五十鈴川をさかのぼること35キロくらいに位置する宇納間というところが、父方のご先祖の地である。

父は2000年に亡くなったので、来年は20周年である。父亡きあと、そして私が近年歳を重ねるにつけて、宇納間や高千穂、北方、高城、等々父親との思い出の地を帰省の度に、ドライブ散策探訪 をくりかえしていて、なかでも宇納間はこの数年とくに足が向かっていたのである。

そしてついに私は同姓の素晴らしき、宇納間人と呼ぶにふさわしい、私より先輩のご夫婦に今年2月巡り合ったのである。そのことは五十鈴川だよりに書いているので、重複はさけるが、今回もそのご夫妻にどうしても会いたく、弓の稽古を終えた午後姉と二人で、お顔を観に出掛けたのである。

ご主人はあいにく不在であったが、E子さんは在宅で、五十鈴川だよりをよく読んでくださっており、私が帰省することをご存じで、ひょっとすると現れるかもしれないと、思っていたとおっしゃってくださった言葉を聞いた時には、本当にうれしさがこみ上げてきた。
いろんな形のこんにゃく味は絶品

私がゆくと前もって知らせると、いろんなおもてなしを用意してくださるので、前回と今回は、突然うかがうことにしたのだが、あにはからんや私と姉に宇納間の地が産んだ山間の実りを、またもやずっしりとお土産に下さったのである。

そのいちいちをここに書くのは控えたいとはおもうのだが、やはり少し書いておこう、このような山の幸をいただくことは、現代人にはほとんど不可能だろうと思うからである。それほどにこのご夫婦の生き方は、地に足のついた地産地消、宇納間人が歩んできた食の伝統を今に豊かに伝える、絶滅危惧種的な生き方を実践しておられるからである。

イノシシの肉、ゆずのしぼり汁、ゆず唐辛子、冬柿、完全無農薬の水菜、ホウレン草、小松菜、そして手作りのこんにゃくを持たせてくださった。私の姉は大陸引揚の者なので、遠慮というものを知らない。まあ、私も似たようなものだが、突然訪ねても毎回この時代にあっては貴重な 一品の数々をいただくのだが、厚かましくも私の足は日高ご夫妻宅に向かうのである。
左がゆず唐辛子右がゆずのしぼり汁

2019年もあとひと月をきったが、個人的に弓の先生との出会い、日高ご夫妻との出会いは言葉にならないほどに私にとっては大きい。宇納間に新しき親戚ができたのである。何はともあれそのことをきちんと五十鈴川だよりに書いて、この場を借りて日高ご夫妻にお礼を伝えたい。

いよいよこれからの晩年時間をいかに生きるか、日高ご夫妻と弓の先生が良きお手本になって導いてくださる ように思える。そして五十鈴川だよりをよたよたと書き続けてきたことがすべて、わが心の五十鈴川に感謝するほかはない。




2019-12-01

ふるさとの幸節館道場で、4日間I先生の稽古指導を受けました、そして想う。

3泊4日のふるさと帰省旅を終えて、先ほど家に帰ってきて荷ほどきをし、何故かパソコンに向かっている。6時間汽車に揺られていたので、まだどこか身体が西大寺の家になじんでいない。

夕飯時なのに着かえてパソコンに向かっているのは、兄の家で、義理の姉が作ってくれる朝ご飯を きちんといただき、12時過ぎの汽車に乗ったのだが、兄嫁手製のお結びが3個と卵焼きやソ-セージほかのおかずの入ったおいしいお弁当をいただいたので、まだおなかがすいていないせいもあるが、今回の帰省旅では、弓の稽古を木金土日と4日間できたことについてまず書いておきたい。

私は今年の2月帰省した時に、兄の家から歩いて5分くらいのところにある、表通りからは見えないところにひっそりとある、美しい幸節館という名前の個人道場を姉のおかげで偶然に知り、その道場をおつくりになったI先生と面識を得た。

そのことはすでに五十鈴川だよりに書いているし、写真もアップしているので重複は避けるが、以後故郷に帰るたびに欠かさず、この道場で先生の薫陶を受ける恩恵に浴している。

38年前に創られた道場にたたずむ先生の後ろ姿
木曜日着いた日の夕方、金土日の午前中 、連続4日教えていただいたのだが、私のつたない一文ではこの先生の素晴らしさをお伝えすることは到底にかなわない。教士7段の資格を持つ御年83歳、今も弓をひかれている。昇段試験すべて一発で合格しているつわものというしかない方である。

私が教えを受けた岡山の流派とは、異なる流派なのだが、一対一で寸部の違いもなく厳しく的確に暖かく指導してくださる。弓への情熱が(他にやりたいことを優先しようと)消えかけていたのだが、この先生との出会いで再び情熱が灯り始めたのである。

先生は弟子も取らないし、道場の使用量料もとらない。なのに私が訪ねると教えてくださるのである。その理由はわからない。今回が今年4回目の稽古、私の引き方を傍で指導面授してくださる。

凄く緊張するのだが、ただただ集中を心かけて言われたことを噛みしめ反芻しながら身体を動かす。弓に対しての取り組み方、姿勢、礼儀作法など言葉は穏やかだが、暖かくも厳しい。くたくたになる。今朝も9時から2時間以上指導を受けて帰ってきたばかりなので、私は疲れているが、気持ちがいい疲れなのである。

このような方が、わが故郷におられるということ、そのような方にたまたまの出会いで、薫陶を受けられているその幸運をきちんと五十鈴川だよりに書いておきたいのである。

何よりも4回目にして初めて、このままその気持ちを忘れずに稽古しなさいとの言葉をかけていただいたこと、その嬉しさも書かずにはいられない。遠く離れていても、お言葉を噛みしめささやかに持続、稽古したい。