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2019-01-24

妻の生誕日に想う、夕方の五十鈴川だより。

言葉にならない知的刺激を受けて岡山に戻り、昨夜充実した遊声塾のレッスンを終え、早木曜日である。

この時間帯に五十鈴川だよりを書くことは珍しいのだが、今日は妻の誕生日である。妻のことを五十鈴川だよりに書くことは、多分私が年齢を重ね、面の皮が厚くなるにつれて、きっと増えてくるのではないかという気がする。

何回か書いているが 、妻に関することを書くことを妻は嫌がるので、努めて書かないようにしているのであるが、生誕日はやはりおめでたい。妻なくして私の人生はないが(これはのろけでは全然なく、事実である)特別なことはしない。(妻が仕事を辞めたら何かしたい)

いまは二人でささやかにお祝い食事をするだけである。東京の娘たちや、レイさんからも朝一番お祝いの言葉が届いていた。妻は そこはかと嬉しそうだった。妻は母性の鏡のようなタイプの人である。

妻は花が大好きである
見知らぬ男女が出逢い家庭を持ち、何とかやりくりしながら30数年現在に至っている。双方の両親の子育てのおかげなのだと感謝し、極めて足るを知るを心かけ、つつがなく家族全員が生活できている今を感謝するだけである。

世代も環境もあらゆることが異なる我々だが、何故だかはわからないが、共にくらしていられるのは楽だからというしかない。

あえて共通するものを強いてあげるなら、二人ともつましいひと時暮らしが好きだということくらいである。

お互い華美な暮らしを経験したことがないために、そういったことができないし興味もなく、何が普通科は置くとして、普通に今日一日がつつがなく健康に過ごせればそれに勝る悦びなし、といった点では完全に一致している。

歳と共に、つれあいの良さがしみてくる、先のことは神様の領域だが、連れ合いとの晩年時間をこそ楽しめるようになりたいと私は願っている。

いよいよこれから健康を基本に、夫婦の良き関係性の持続、お互いの時間を大事にしたいと思うのである。



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