その余韻を胸に、昨日の朝妻と共にいつも初日の出を見に行く近所の山にいった。二日なのでもちろん誰もいない 。見事な初日の出を望むことがかなった。
朝一番、静寂の中神々しいというしかない光を浴びると、この年齢でも何やら神妙な面持ちになり、特定の宗教を持たない私だが、そっと何かにすがるかのように祈ったりするのだから不思議というほかはない。
先のことはわからないが、歳を重ね、死を間近に感じたり、何か大きな出来事があると人は宗教に帰依したりするが、ややもすると自分にもそのような感覚が育ってくるのかもしれない、などとも思ったりもする。
いずれにせよ、娘たちが伴侶に恵まれ子供が生まれ、家族の体をなすにしたがって、私と妻はいやでも老いの役割(夫婦としての身の振り方)のようなことを、おのずと考えるようになってくる。
そのことが、わが夫婦の老いてゆくこれからの時間を豊かにしてゆくために、どのように過ごしてゆけばいいのかを、考え続けねばならない、(のである)。
23年前買っていた本、アップするのは二度目、いま沁みるように読める |
話を変える、だがささやかに私自身が情熱を傾けている、シェイクスピアの音読や、弓の稽古、ほかも、身体の衰えを少しでもカバーしながら、継続持続を図るべく、より繊細に時間を大切に過ごしたいというふうに考えている。
ということで、昨年五十鈴川だよりには書いたのだが、義理的な年賀状はもう書かないということにしたのだが、いただいた方には、墨をすって 全て手書きで昨日投函した。
まるで時代遅れの手書き年賀を書いてみると、これがまた驚いたことに、実に新年書初めのような感じで愉しく書けたのが意外で、おそらくはこれから減ってゆくであろう年賀状は、年が明けてますますゆっくりと書くことが一番であると認識した。
また一つ老いてゆく中での楽しみを見つけたようにさえ思えたのである。孫の望晃くんにも、墨をすって文字を書くことをささやかに伝えられるおじじでありたいのである。
ナイフで削るとか、火の起こし方とか、極めて人としての原初的な基本的たしなみをわが孫に伝えたいのである。意外や意外、孫がおじじを活性化させお役に立てるのであればこれこそが老いてゆくものの、自然なサイクルの在り様ではないかとさえ、私は思うのである。
ともあれ、今年も五十鈴川だよりを書きながら、自問自答しながら右往左往の蛇行を繰り返しながら、老いつつなるべく日々を新たに過ごしてゆきたい 。
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