私の中でも 普段通りの生活に戻る。2019年ははたまたどのような年になるのか皆目わからないが、確実なのはまた一つ歳を重ね、緩やかに死の世界の方にシフトしてゆき、自分の現在地を確認しながらの、日々を送ることになるだろう。
昨年、ネガティブケイパビリティ(うまく翻訳できないのでそのまま)という言葉を本を読んでいて知ったが、身体が老いてゆく中での成熟ということ について、可能なら考え続けながら、日々を送りたいと思案する。
私の書くことは、ややもするとオーバーになりがちであるが、どこか妄想性というか、ここではない、どこかあらぬ世界のことなどを想像する癖のような体質がないと、臆面もなく五十鈴川だよりのような、あるがまま、わがまま拙文はつづれるものではない。
この数年、書き始めるまでほとんど何も考えず、書き始めると何やらの一文を綴るような按配。自分の中の何か(おそらく存在の不確かさ)を鎮めるための、いまわの際的、おまじない五十鈴川だよりになりつつある。(ような気がしている)
凄いスピードで娘の離乳食をほうばる望晃くん、生命力そのもの。 |
とはいっても、私は単なる爺バカになるつもりは毛頭ない。只今感じているのはただただ一人のおじじという人間として、恥ずかしくはないおじじになりたいという、極めて普通の感覚がより深くなってきつつある。(とおもう)
最後の日の夜、家族のこれまでのささやかな歴史である写真のアルバムを、レイさんや娘妻、母と共に夕食後見入った。
現在の望晃くんと同じくらいのころ、私が娘をお風呂に入れている写真 に見入った。あれから30年近い歳月の末の現在である。
様々な感懐に私がふけるのも致し方あるまい。事実は小説より奇なりである。つづっていると妄念が、妄念を呼ぶ五十鈴川だよりであるが、今年も静かに、時に流れに逆らって老い力を蓄えるための方法を思案したい。
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