シェイクスピア遊声塾の発表会、翌日は私の個人的な無謀発表会まであとひと月をきりました。
肝心な塾生が二人インフルエンザでダウンする中、昨夜私も含め5人での稽古が昨夜7時から9時半過ぎまで、熱いレッスンができました。
やればやるほど、シェイクスピアの言葉は生半可な稽古ではよじ登れないことを痛感しますが、塾生は仕事を終えた疲れた体にむち打ち、必死で思い通りにならない自分の体から声を探して奮闘努力しています。
このような稀な塾生に出会えた幸運を毎週私はかみしめています。あきらめずしがみつき努力する姿こそが尊いのです。つらくとも。
私は思うのです。思い通りにならない自分自身と対峙する覚悟を、育む塾なのだということをあらためて 知らされます。
塾長である私自身が、64歳の体を引きずりながら、いわば先頭を切りながら声を発しているのですが、いかんせんわが体はイメージするような具合にはとんと参らず、時に呆然自失してしまうのです。
そこを体全部で思案しながら五里霧中のなかを手探りしてゆくことこそ、稽古本来の姿ではないかと私は思うがゆえに、何かにすがるような想いで集中し声を出すのです。無心に。
その根源のエネルギーは、単純ですが好きだからこそできるのだというしかありません。こんなにも見事な名台詞、生きているうちに どこかの誰か、虚空にむかって自分自身を、全自由感を持って解き放ちたいと(フィクションとして)、きっとシェイクスピアも思ったに違いありません。
自由とはなんともどかしく、自分とは【人間とは】なんと悩み尽きることなき存在であることかと、愛おしくも冷静に、人間の丸ごと全体の姿をシェイクスピアは劇言語にしています。
ともあれ、一月後発表会はやってきます。限られた時間の中で塾生共々私も今を生きる声を探して努力をしたく思います。
同じことの繰り返ししか、書けないかのような日々雑録的五十鈴川だよりですが、うららかな春の日差しを体に感じ深呼吸し、気分一新を繰り返しながらゆけるところまで、との思いです。
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