心身をニュートラルにして、なるべく新鮮に間違いの喜劇を声に出して読むということは、言うは易くだが、なかなかに難しいのである。
他者の前に自分をさらして何かを表現するということは、生半可な情熱ではかなわぬ夢ということになる。今更ながら一人で全幕を遊読するということの、肉体的な、特に喉の問題がやや心配な私である。
だが単細胞の私は、一切の弁解はしたくはない。当日どのようになるのかは、神のみぞ知るというしかない。走ってみなければ、当日のコンディショニング次第なのであるから。
ただ今ならギリギリ走れそうだから、何かにけりをつけられそうだからうと走ってみたいという、いわばわがままである。息も絶え絶えであれ、つっかえても完読したい。
今朝の我が家の庭で見つけた小さき花 |
いずれ書ける日が来たら、なぜ私が演劇を断念したのかを書くかもしれないが、その一つは体が弱かったということがあると思う。特に喉が弱かったということがある。
舞台の声というものは(歌、あらゆる声を出す舞台芸術に言えると思う)そういう職業の方は強い喉を生来持っていないと、何十年も一線で活躍することは無理なのである。
それが岡山に移住してから、主に肉体労働を24年間、今に至るも続けているおかげで、体の中の芯が気が付くと強くなっていて、深い呼吸がかなりできるようになっていたのである。
遊声塾を立ち上げる際思ったことなのだが、まず何はともあれ自分が最低限の声であれ、遊ぶように表現できなければ、塾生はきっと一人も集まらないだろうと。
呼吸はさておき、今に至るも私の喉はそんなには強くはないのは、自分が一番よく感じている。だからできるだけ、喉を冷やさないように心かけてはいるのだ。
大きな声を出さずとも(時には出しながら)声帯に大きな負担をかけないで、遊読し続ける方法を自分の現在の体と相談しながら探し、声を出し続けているのだ。
はなはだスリリングである。声が出なくなったら、きっと私はじたばた別な世界に向かうだろう。だが在り難いことに今は20代のころよりいろんな意味でゆったりと、シェイクスピアの言葉世界を遊読できる体が備わっているのを感じている。
20代では全幕を読むなんてことは思いもつかなかったが、この年になってやろうと思うのは、きっと何かが私の中ではひとつの糸がつながっているからなのだろうと思う。
いわば、談志師匠ではないが業の肯定である。人間の機知を縦横無尽に語り遊ぶ劇詩人、シェイクスピアの言葉世界の豊饒さをほんのわずかでも、声帯が動くうちに表現したい初老の男は業を生きている。
0 件のコメント:
コメントを投稿