ただ、昨夜最後まではみませんでしたが、大槌町の風のガーデンをNHKでやっているのをたまたまみまして、去年夏私が訪ねた風のガーデンでのわずかな時間の出来事が、瞬時に蘇ってきました。
仮設のホテルから、暑いさなか風のガーデンを訪ね、そこから歩いて滝を探し、ようやく見つけてひとり滝つぼで身を清めた日のことが。
そのあと、風のガーデンで共に瓦礫の撤去に従事した、今は山形の天童市に勤務するK氏と待ち合わせたあの日の出来事が。
おそらく、私が穏やかに動ける間は数年に一回であれ、きっとK氏とは再会を続けながら大槌町を訪ねるのではないかという気がします。
60歳の誕生日の翌日、もう4年前です。K氏やたまたま遠野のボランティアセンターでであった人たちと大槌まで瓦礫の撤去作業に行ったあの二日間の光景は瞼に焼き付いています。
人はあえてつらいことは思い出さず、努めて忘れたふりをしながらでも、今日を生き抜くために 必死なのかもしれません。(わたしのことです)
かくいうわたくしごときの人生であれ、些少の消えない心の痛みを人はおそらく、無意識であれ一生抱えて生きてゆくのではないかと(生きてゆかざるをえない)いう気がします。
この世、全世界には計り知れないほどの(私なんかには経験したこともない、想像力の及ばない)苦しみ、痛みや困難を抱えながら生きておられる方が、かくも存在するということ。
いつ何時、なにが起こるか、この世ではまったくわからないということが、あの日東北一帯では起こってしまったのだ。
懲りず原発も再稼働するこの国の権力者たち、およびその権力を支持する方たちは、自分にはあらゆる災厄は及ばないと高をくくっているとしたら、あまりにも浅はかな想像力の持ち主たちであるとしか私には思えない。
砂上の楼閣のような、お金万能幻想社会は、便利快適ハイテク原発電力IT一見華やか幻想社会と共に、やがては絶滅消滅してゆく運命なのか、いや違う方法を人類の英知は見つけるのか。
私の浅知恵、考えはここでは控える。小難しいことは置くとして、今をともあれ生きられる個体としては、日々のささやかライフの中に希望の根を育ててゆくしか、これといった妙薬は浮かばない。
日歩立つ暮らしの足元が揺らいでは、なんとも覚束ない。光と水と土と種、動く身体があれば作物は育つ。
4年前の私 |
食べ物さえあれば、お金がなくとも命は長らえることが可能だ。命を生む大地を放射能で汚染していいのか、ご先祖が耕してきたふるさとに帰れないのは放射能に大地が汚染されているからだ。
今も原子力発電所は世界各地でつくられている。老朽化した原子力発電所はいったいいくつあるのか。気が遠くなる。
この国の権力者たちや経済人は、いままた再稼働を進める。ご先祖が途方もなき艱難辛苦の果てに築き開墾した故郷を追われ、苦難者を置き去りにしての不条理には言葉がない。
経済万能主義の行き詰まりが、全世界を覆っているかのような時代の到来、なすすべは本当にないのか。理屈より安心な作物、お金より家族の笑顔。私にとって心から大切なものは何か。
おそらく全世界の人たちが、安心安全な食べ物を家族には食べさせたいと思うはずくらいの常識は持ち合わせていると思いたいのが、どうもことはそう簡単はゆかないくらい、私なんかの単細胞頭では立ちゆかないほどに世界は複雑怪奇な経済構造に、なっているようだ。
がしかし、そこであきらめてはちっとも面白くありません。隙間を見つけて自営してゆく方法を先ずは身近なところから、私は始めようと思う。
体を動かしながら五十鈴川は静かに考え流れたく思う朝です。
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