小さいころからあまりに学校の成績が良くなかったがために、自分は学ぶことに適した存在ではないというというような、トラウマを抱えていたのだが、世の中に出て演劇を学び始めたころから、いくらか薄らトンカチの私でも、遅まきながら脳にいくばくかの光が入ってきたのか、本を読んだりして学ぶことの悦楽がわかってきた。(そう世界は言葉でできていることが、が最近はそれだけではもちろんないということも)
竹韻庵に初めて植えたそら豆の花 |
ということがかなわぬというか、そういうジレンマを抱えながらもかろうじて読み続けながら定年退職を迎え、この数年は世の中に出て初めてといっていいくらい本が読めることの有難さを感じている。
いまや本のない暮らしなどというものは考えられない。図書館で数十分本の背表紙を眺めていると読んでみたいと思えるような本に必ず出合う。そういう本に巡り合えた日は何とはなしにうれしい。
何度も書いているが私は本を読むのが極めて遅く、世の中には蔵書家をはじめ本にうずもれて暮らしているような好事家的知識人には程遠い。
私はそういうレベルとは比較にならないくらいのただの庶民活字好きに過ぎない。
ところで林真理子さんという作家がいるが、私はこの方の作品を読んだことがなかった。たまたまM新聞に連載されている小説を読んで驚かされいるのだが面白い。
ようやくこの年にして、面白いものは面白くつまらないものはつまらないというようなことが、自分の中ではっきりしてきたかのような、逆に言えば自分の中に枠をはめず、これまであまり読まなかったような分野の作品なども読みたくなってきている自分がいる。(ミステリーなんかも読みたい)
自分と同年代の作家の作品が読みたくなっている。見城徹さんと、林真理子さんの【過剰な二人】(私には異なる世界だが)リレーエッセイなどは、昔だったら読まなかったかもしれないが、林さんの青年期の苦楽が、私の苦楽と重なるところがあって、束の間一気に読んだ。
同世代の気力的仕事には刺激を受ける。 何かをなしている人たちの仕事は、だてや酔狂ではなくある種異常性を伴うほどに過剰な努力の賜物と知る。
好きなことを仕事にしている矜持がすがすがしく、世界が異なっていても気持ちがいい。私にとって好きな、声を出してシェイクスピアの作品を読むこと。はたまた企画時間、はたまた畑時間、こころから自分が好きなこと(には苦楽がともなう)をしながら、身過ぎ世過ぎができたら幸せというしかない。
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