家で昼食を済ませ、一時すぎから3時半まで、竹韻庵で過ごした。母と妻は玉ねぎに寒肥をやる作業や、小さな笹の根を 拾い集めてくれた。私はもっぱら太い孟宗竹の根をうがす作業。
寒空の下であれ、やっていると体が温まり、上着を一枚脱がずにはいられないほどになる。30分後には、母も妻も防寒衣装を脱いでひたすら体を動かしていた。
寒いとついつい体を動かさなくなるがほんの少しでも体を動かした方が私はいいと思う。肥料を土に練りこみながらの母の手つきは、82歳なのに無駄がなく手早い。
この季節、長時間はさせられないが、一時間くらいならまだまだ十分に大丈夫。 母が竹韻庵に来るのはもうすでに4回目くらいだが、私が本気で大地と格闘しているのを目の当たりにして手伝うといってくれているのだ。
その気持ちが本当にうれしく有難い。あれやこれやの心配りはまさに実践者だからこそが身に着けた賜物で、本を読んだりして身につけたものではない。
ドレスデン大学の友人たちに祝福されている怜君と娘 |
やがては鍬も振るえなくなる時がやってくるとは思うが、その時のことよりも3人で過ごせる 今を脳裡に刻み付けたいと私は思う。
妻が東京の娘に動画を送るといいねの返事。
娘たちもやがては体を動かすことの喜びを身に着けてほしいとは思うが、親がやっていればいずれきっとやってくれると私は信ずる。
午後3時過ぎ急に空気がつめたくなったので、早々に竹韻庵を後にしたが、童女のように愉しそうに杖を突いて山道を歩く姿を見ていると、誘ってよかったと安堵した。妻が母を支えて親子で歩く山道。
結局、母はそのまま我が家で 夕飯をし泊まって休んでいる。母がいると家族の中に芯の棒が宿っている安心感につつまれる。
このような個人的な事柄を臆面もなくつづりたくなるのは、家族とは何かという日本社会をおおう大きな根源的な問題が山積蔓延しているからである。私にとっても避けては通れない大きな問題である。
だから、きわめて個人的に私にとっての気持ちのいい家族とは何かを、実践を通じる中で考え続ける営為を怠りたくはないというというくらいに、いまは留め置くことにしたい。
今日は妻の誕生日、命の連鎖を寿ぐ日である。
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