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2016-01-22

淡々とひとり竹韻庵で孟宗竹の竹の根をつるはしでうがし、思う。

昨年7月下旬から竹韻庵がよいが始まり見よう見まねで、自分で笹の根を開墾しながらミニの畑を作り、そこに初めて植えたチシャトウが、食べられるほどに成長して、わずかだが収穫し近しき人たちにおすそ分けした。天然チシャトウは格別の味である。

一番たくさん植えている玉ねぎは別にして、ブロッコリーやネギもそれなりに育っているのがうれしい。

最近竹韻庵では、そんなに長時間は働いていない。もっぱら山から畑地に侵入してくる孟宗竹の太い根をつるはしでうがして除去する根気のいる作業を継続してやっている。

今の私の年齢では一日に正味2時間もやれば十分だと、体と相談しながらのらりくらりやっている。息が上がれば腰を下ろして整え、またつるはしを振り下ろす。

初めての経験、根は土の下で数十年の間に縦横無尽、四方八方に根を伸ばしている。こればかりはやったものにしかわからない、くらいの根気がいる。昨日2メートル以上の根を一時間近くかけてそのままの形でうがした。

まさに体がいうことを聞かなければ、竹韻庵通いは叶わぬ夢である。夢が原で十分に体を動かしていたからこそ、有難いことに今も私の体は動いている。

まさにいかに日々の生活の蓄積が体に反映するのかを 如実に物語っている証左である。自分でも信じられないくらいである。

若い頃の私は理屈が勝っていて、身体はとんと動かない 青二才だったのだから。だが富良野の大地でいやというほど鍛えられてから、身体が変わり意識も変わった。

生まれて初めて、ひょろりとした肉体にいささかの芯の棒が通ったような自信が持てたのである。以来、オーバーではなく体さえ元気なら何とか生きてゆけるとの確信がもて、いまに至っているという気がしている。

体が萎えると、ヒトという生き物はあっという間に精神も萎える。この間も久方ぶりに歯が傷みほかのことに集中することがかなわなかったが、体が健康でなければとてもではないがブログなど書けるはずもない。

どんなに細々とではあれ、無理せず無理して,五十鈴川は流れる がままに今をたゆたうのである。昨日は大寒だったが、地面の下ではすでにタケノコの赤ちゃんが芽吹いている。

まさに人間世界とは異なるリズムで大地はものも言わず、春の訪れを水面下で育んでいる。初老の私にとっての竹韻庵竹の根ほり通いは、日々の暮らしに新たなリズムをもたらす。竹韻庵(里山)は夢を育み、身体を鍛えるにはジムであり聖地である。

1 件のコメント:

  1. 日高さん、ありがとうございます。お世話になります。
    私もいま、私利私欲でなく人が喜ぶために私がして来た仕事の
    総仕上げをしています。1年以上汗をかき、やっと今最終章です。
    また、お世話になることがありますが、よろしくお願いします。
    また、竹韻庵で熱いお茶を飲みましょう。

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