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2016-01-16

新年一番最初のシェイクスピア作品、【ヴェローナの二紳士】を声に出して読む。

夢が原を退職してもう間もなく丸3年が経とうとしている。今はまだ生きることにいそがしいその渦中のただなかにいるから、(この3年間の時間の重みはきっと、もしもっと私が存在し続けることができた場合)ゆっくりとは検証できないが、きっとあの時の決断がと思うときがやってくる、予感がする。

私が尊敬する演劇人、ピーターブルックは【死守せよ、が軽やかに手放せ】といっているが、どういう意味なのかは、各人が各々解釈すればいいのだと、私は思う。

以前も書いた記憶があるが、苦しみと悩みは私の中では大いに異なる。来月私は64歳になるのだが、いまだ私は悩みが尽きない。

いや語弊を顧みずいえば、生きることは悩みの連続、きっと生きている限りそのくびきからの解放はないのだろうという覚悟と自覚を深めつつある。だからこそ面白いのだという側に私は立つ。

何かを手放さないと、新しい展開は起きない。 たとへそれが傍目に悲惨な結末に終わろうとも、本人はきっと何か心の中にいくばくかの納得が得られるのではないかという気が私はする。

若い時の無手勝無謀というのではない、もうそろそろいい年齢に到達した中で、もう少しじたばたでできる範囲での、これまでの経験値を生かしての、遊び楽しみを見つけたいと思うのである。

その決断が、シェイクスピア遊声塾を私に立ち上げさせたのだ。何せ30年ぶりにシェイクスピアを読むのだからまったく自信はなかったが、悔いが残るやれるだけのことを今やるのだという、内なるかすかな情熱に私はしがみついた。

以来もう間もなく丸3年、毎日ではないがかなり声を日々出し続けている。出し続けてみてはっきりと感じることがある。やがては私のイメージする声は肉体の推移と共に出せなくなるという冷厳な真実である。

 誤解しないでほしいが、そのことを私は悲観的に思ってはいない。いつまで出せるのかは本人にもわからない。ただ今は出せるという 事実を愉しんでいるだけである。

生来の気質かもしれないが、どちらかといえば私は楽天家の部類に入るのではないかという気がする。オーバーではなく、一大決断し塾を立ち上げてつくづくよかったとの思いがいま私を満たす。

 素晴らしい生徒たちと過ごす週一度のレッスンは、かけがえのない純粋無の時間である。シェイクスピアの言葉の過剰な豊饒世界は、私の肉体と意識を研いでくれるのである。

よもやまさか、このような晩年時間が私を待っていたとは思いもしなかった。20代で若さに任せ読んでいた時とは全く異なる感覚で、いままた まっさらな心持でシェイクスピアの言葉に立ち向かう自分がいる。うれしく在り難い・

37本の膨大な作品群がそびえ立っているが、この3年で10数本の作品を声に出して読み 、つくづく思うことは言葉が言葉を生み出すそのあまりのというしかない天才性である。

どんなに気分がふさいでいるときでも 、【お気に召すまま】のふさぎ屋のジェイクイズのセリフを読めば、あるいはリア王のセリフを読めば、人生のあまりの深い真実が寸言違えず語られていて、若い時には感じなかった奥行を現在の体で、実感する。

レッスンではまだ読んでいないが、個人レッスンで今年一番最初の作品、ヴェローナの二紳士を今読んでいる。

いま私はシェイクスピアを読んでいるときが一番幸せである。今年はあまり読んだことがない歴史劇や悲劇も読めるうちにとにかく声に出してみたいと思っている。

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