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2015-01-21

未知とは無知そのものとの出会いだ。

起きていつものようにまず藤原新也さんんのWM、キャットウォークを読む。やはり今回のイスラム国による、日本人人質に関するコメントが書かれていた。

私は20代のころから藤原さんの本にかなりの影響を受けてきたし、この年になっても頼りになる兄貴的な感じで、多面的にいろいろと学ばせてもらっている。

軽佻浮薄を自認している私である。物事のとらえ方が一面的な側からしか眺められないという 致命的な弱点をいつも感じている。

だから、私はあまり自分で自分を信じてはいない。とはいっても、なにがしかの立脚点のような考えを持っていないと、人は生きられない。だからオーバーではなく自分を疑いながらも信じてゆくしかないのでは、といった思いにいつもとらわれるのである。

いささか矛盾するが、軽やかに学んでゆく謙虚さを可能な限り、独習してゆきたいと未だ思うのだ。

私のように自分の内から湧き上がる、言葉にならない内面からの感覚を頼りに よたよたと歩んできたものにとっては、謙虚に自分と向かい合うしか、私にはほかに方法がないのである。

未知とは無知との出会いである。日本人である私は、イスラムの世界のことに関して、常識的にいかほどのことを知ってるだろうか。

私のブログごときでは何も申し上げることはないのだが、世界が一見複雑化すればするほど、何か浮き足立ってゆきそうな恐ろしき気配がかすかに忍び込む足音を感じる。

一面的な報道(情報操作された)のみをうのみにするのは、はなはだ危険だと私個人は感じる。全世界の多くの大多数の人々は、報道やニュースには程遠いところで、低賃金で日々をしのいで生きてゆくことにおそらく必死なはずである。

 ギリギリのところで、必死に生きている画面に映らない無辜の民の人々のことを、私は想像する。どんな大義名分があれ、狡猾を絵にかいたような両世界の、(不毛な両者の言い分)果てなき終わりなき、戦争には悪寒が走る。

戦後70年、私も平和ボケしている。畑で静かに、地球の上にポツンと存在していられる幸福をかみしめる。幸福を分かち合いたいものだが、果たして。

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