年ともに、原点回帰志向が深まりつつある私のこのところの心象風景は、奈辺にあるのかなんてことを時折考えたりもするのですが、よくはわからない、だが書きながら考え続けることは、持続したい。そのことがいまを生きるエネルギーになる、そんな気がする。
過去を懐かしがるのではなく、時折立ち止まって考える勇気、そのための時間を作らないと、ただ単にわーっと大きな流れに飲み込まれてしまうような本能的危機感のようなものを私個人は感じる。
土の上や、自然の中にいるとなぜ私の心はこうも安らかなのかは、はっきりしている。一九五二年生まれの私が、物心がつくまでは、周りにはほとんど自然音しかなかったからだ。それと恐ろしいほどまでの漆黒の闇。
徐々に成長とともに、あらゆる人工音が増え、人工照明都市化され、あれよあれよと,表面の世の中は変わり、にぎやかに明るくなり、その時代の渦に巻き込まれながらもなんとか泳いで、いまもその渦中を生きている、といった認識が私にはある。
私自身、時折浦島太郎的な感覚に陥るくらいの世の変わりようの中で、幼い頃にほぼ出来上がった自分の感覚と、今の時代感覚とのあまりのずれは、いかんともしがたく私のなかで大きくなっている。
私は自分の限界を承知の上で、時代の流れにいたずらに迎合するのではなく、少々時代とはずれてはいても、自分にとって気持ちのいい居場所にいたいという思いは、還暦を過ぎてのちますます深まりつつある。
そこで私がもっとも頼りにしてるのがわが体である。体が気持ちのいいことを可能な限り探して生きてゆかないと、はなはだ危ない時代をいきている、生きざるを得ないといった認識である。
癒すといった言葉が大流行、健康法もブーム、健康食品のCMもたれ流し、年を取らない、アンチエイジング、、、。といった塩梅だが、なんとも不健康な時代だと私は思っている。お金がなと生きられないと思い込まされている。果たしてそうか。
話は変わり、菅原文太さんと各界の達人17人との対談本、【ほとんど人】をゆっくり読み終えた。文太さんがこんなにも幅広い分野の方々にアンテナがあったことに驚かされた。
そのうえ、何やらおかしいということに気づかれたころから実によく勉強されていたことも、ご本を読むとよくわかる。老骨に鞭打つ姿は時に痛々しいほどだが、すがすがしく私に伝わる。
何よりも、生き方を変える勇気に、単純な男気を感じる。私などにはもっともかけているものだ。
それにしてもわれわれは、危うい綱渡りのような時代を呼吸しているのだと 気づかされる。頼りにすべきはわが体のみ、その直感と本能にかろうじてしがみついてきたからこそ、畑にたどり着いたのかもしれないと、最近感じている。
自分の体【意識】のサインにできるだけ正直に 、体が気の進まないことは努めてやらない選択を、矛盾を抱えながらも、楽しく日々を歩んでいる。
畑仕事、文太さんに倣って年のことなどしばし忘れ、明るい時間帯はひたすら土と向かい合いたいと思う。体が気持ちいいとは、生きていることが気持ちいいことだともう。畑で浴びる 朝陽は何物にも代えがたい。
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