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2013-05-26

次女の二十歳の生誕の朝に思う


娘の生誕を祝うつるバラ

はなはだ自由勝手気ままな我がブログで在ります。今日は次女の二十歳の誕生日です。親ばかの私としては、やはりそこはかとなく、嬉しいのです。男親の私には妻と違い、子育てしたという気が申し訳ないくらいしません。これは巣立って東京で暮らしている長女に関しても同様です。

 

共に暮らして20年という感じなのです。今を生きる娘たちの時代と私の暮らした記憶の中の二十歳までとはあまりの時代環境の激変で、私としては父親として何が彼女らにしてやれたのかということを省みると、はなはだ大したこともしてやれなかったおのれの姿が、浮かび上がってきます。

 

時すでに遅し、それでも娘は育ち無事に二十歳を迎えてくれました。親は無くとも子は育つなんて言いますが、まがりなりにも親にしてもらって24年、なんとか頑張れたのは最低の、私の両親がしてくれたことを自分の娘たちにもしなければというおもいだけでした。

 

私ごときのブログで大層なことを書く気は毛頭しませんが、現代を生きる家族は新聞メディア等での見聞だけでも、大変な情況を生きざるを得ないという気がします。そんな中でなんとか我が娘は成長してくれたことに関して、見守ることくらいしかできなかった私としては、冒頭書きましたが、やはり親としてのささやかな感慨を覚えるのです。

 

これも以前書いたようにも思いますが、自分が親になるなんて思いもしないような生き方を選んできた我が人生において、まさか自分が二人の娘に父親になり、このように娘が成人してくれると、どうしてもいささかの感慨にふけってしまうのです。

 

太宰治は、家庭は諸悪の根源なる言葉を残しているそうですが、そのことの深い彼なりの哲学的な理由は、今はさておき、多くの国の人たちが家族を持って暮らしていることの何がしかの根拠はやはりどこかに、意味のようなことがあるのでしょう。

 

今持って私を含めた多くの人たちは、子育ての大変さも顧みず家族を持ちますが、今後の時代の推移の中で、家族はどのように変容してゆくのかということは、私には知る由もないという気がしますが、なにはともあれ絶対矛盾を生きる私としては、幻想の中の我が娘が、なにはともあれ二十歳になったことは、めでたいのです。

 

家族の行く末についての、重いテーマの論議はさておき、単純に娘の成人を今日は家族でお祝いしたく思います。

 

 

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