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2013-05-31

椎名誠さんと出会えて本当に良かったと思います


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起きて朝一番新聞を開くと、たくさんの種類の本を出されている椎名誠さんの新刊の広告がすぐ目に飛び込んできた。椎名誠69歳。

 
私が40歳で初めて企画したのは、椎名さんが監督した映画・うみそらさんごのいいつたえ・を野外でやったのが、一番最初の企画である。今考えると、この一番最初の企画に私の企画者としての資質というのか、もし私らしいというものがあるとしたら、ほとんどのおもいが、このタイトルに籠められているという気がする。

 
今回の新刊は椎名さんが初めて死について書いたということらしいのだが、エッセイを中心に、かなり椎名さんの本を読んできた私は、そこはかとなく感じることがあるのだが、遺言を書かれているということなので、この本は是非今日にでも求めようという気にいまなっている。

 
ついさっきまで、ブログを書く気はなかったのだが、こうやって書かずにはいられなくなる、いま現在を生きる61歳の私がいる。椎名さんは私より8歳年上、初めて会った年はだから48歳だったのだ。

 

3年前、夢が原の園長になった年に、久しぶりに原点回帰ではないけれど、野外で椎名さんの焚き火トークで、家族のことについて話してもらったことがある。もうすでにおじいちゃんになられていた。家族にたいする想いが闇の中で静かに伝わり、とつとつと語る姿が忘れられない。

 

椎名さんとの出会いは、全てはフィルム・うみそらさんごのいいつたえ・を見たことによる。この海と空の美しいフィルムを、夢が原の野外で夜、上映したいとおもったことがすべてである。振り返ると、40歳にして惑わず、東京から岡山に越したばかりで、たまりにたまったエネルギーが自分の中で爆発するかのように、私は椎名さんに手紙を書いて、お会いいすることができた。野外で上映するんですね、意気投合した。

 
誠心誠意想いを伝えれば企画は実現するという感触を、私は最初の企画で得た。それから、椎名さんの創ったフィルムは、すべて夢が原の野外で上映した。まさに夢のような40代の企画の記憶。

 
歳月は流れ、時代はデジタル。椎名さんは映画を撮らなくなった。私も野外映画を企画することは亡くなった。

 そして今、死について想いを巡らせる本を、椎名さんが書かれたということに関して、歳月を感じる。おもうに私が好きなタイプというのは、理屈より先に体が反応する、いま現在の生きている時間をこよなく愛し、それに没入して生きている人に、限りなく惹かれ憧れる。椎名さんは映画は撮られなくなったが、本業の小説やルポ、エッセイ、写真など、その活躍はすごいの一言。
 
 
とくに、お孫さんとの交流は胸を打つ。私にはまだ孫はいないが、生きているうちにもし孫に巡り合えたら、もう思い残すことはないなんて書く自分も、冷静にいい年なのである。

 
椎名さんは、私が出会った人の中では、もっとも風のような印象を持つ、理屈の無い、頼れる兄きという形容が最も似合う人である。

 

おそらく絶えず、死を身近に感じる感性を保ち続けているからこそ、その情動の振幅が激しいからこそ、椎名さんは、今しかない本能に支えられ、このかけがえのない水の惑星地球の上を駆け巡り、人間生物の命の連鎖の循環の摩訶不思議に作家として驚愕し、書き・喰い・撮るということを、いまも続けているのだろう。

 

椎名さんと出会えて本当によかったと、還暦を過ぎしみじみ思う。椎名さんが撮った辺境世界の写真集を、今日久しぶりに開いてみようとおもう。

 

 

 

 

 

 

 

2013-05-30

隠居生活を生きる



離職後に書いたブログのささやかな我が文章を読み返すと、やはり働いていた時と異なり時間的余裕の中で書いている事を感じる。相変わらず変換ミスが多いが、何かに急き立てられることがなく、何とはなしに書きたくなることが頭に浮かんでくることを書いている。

 

ITライフ、とにかく便利な機械,機器に数十年とり囲まれて生活していると、個人的にはもう何が何だか分からない、まさに混とんというしかないさみしい寂寞たる時代状況を実感する。何故こうも浮かぬ顔をした日々を送らねば生きられないのかしらと、考える。

 

血の通う人間らしい(なにが人間らしいのかということはしばし置いといて)暮らしは可能なのか、と、初老期に入った私は、老婆心てきな心境にどうしてもとらわれるのだが、それは何故なのだろうか。いま、昨日写真をアップした酒井順子さんが書かれた、徒然草を書いた吉田兼好の本を読んでいる。兼好は30歳で出家しているのだが、鎌倉時代の兼好が生きていた時代も、今も、さもありなんというくらいに人心というのは、さほど変わらないということがよくわかる。

 

すでにあの時代、兼好は過去の素晴らしい和歌や文学のあれやこれやに思いをはせ、生きる糧にしているのだが、真に持って今を生きる私にとってもかなりの面で、うなずけるほどに参考になる。面をかくし、尺八という楽器を生み出した虚無僧の文化にも通じるのだが、考えてみると世の中に出て以来、私の中にはずっと虚無的なある種の心情が、どこか心の中に巣くっていたのは否めない。人間の中に在る、悪魔的な部分と天使的な部分の分裂的同居。

 

私が乏しい才能で、美的芸能、芸術文化を企画したりするのは、立川談志家元の表現に倣えば、人間の業の肯定と言えるかもしれない。言葉にならない、エモーショナルな個人的モティベーションが未だ止まないからだろうと、考える。そういうことでもしないと、なんか落ち着かないという、心情あふるる軽薄さ(清水邦夫の戯曲のタイトル)。

 

考えてみると、私はずっと中世夢が原で隠遁生活をしながら、時代にそぐわぬ企画をずっとやってきたように思える。離職、居を西大寺に移しても、どうも私の時代にたいするスタンスは変わりそうもない。気分としては隠居生活の中で、自然にという心境。

 

誤解を恐れずにいえば、後は面白半分に生きることが、これからの晩年の、かろうじて支えになりそうな予感。読んではいないが、老人力というものを隠居(なんともいい言葉)生活の中で、身につけたいとおもう今朝の私です。

 

 

 

 

 

 

2013-05-29

梅雨空の中つれづれなるままに声を出して遊ぶ


梅雨に入って数日経つ、私は梅雨が嫌いではない。外でのささやかな個人的な身体動かしに少々影響が出るが、よほど激しい雨でない限り、濡れても私は出かけることにしている。紫外線に当たるより、雨を感じる方がよほど気持ちがいい。今朝も運動公園まで出かけてきた。傘をさして犬を散歩させている人くらいしかいない。静かな一日の穏やかな始まり。

 

30分くらい、普段やっている身体動かしをやって家に帰り、お風呂の残り水を頭からかぶりさっぱりして、朝食を済ませ、雨なので室内に洗濯物を干し、リビング、階段、廊下などつまり板の間を雑巾がけし、部屋をさっぱりしてから自分の時間に突入、本を少し読み、なんてことをしていると時間は瞬く間に過ぎてゆきます。

 

エリックマリアを終えてからは、週に一度の遊声塾を中心に生活を組み立てていますが、わずかの家事や、自分が決めたあれやこれやを、何とはなしにこなしていると、まったくお金とは無縁な時間ではありますが、さらさらと流れゆくという按配なのです。自分の性格としては意外なことに、こんなにも一人で過ごせる自分を、離職後楽しんでいます。

 

手紙を書くなんてことも、以前に比べたら比較にならないくらい、落ち着いて書けるし、このブログだって、ゆったりと書けるという事は、はなはだ個人的なことであれ私にいとっては、時間を気にしなくていいということがどれほどあり難いか、本人にしか感知しえないことです。

 

本を読んでいて、いいなあとおもえる文句なんかがあると、中断してノートに写筆するなんてことも最近はする自分がいます。限りなく時代とは逆行してゆく自分を自覚しつつ、先人たちのおおらかで、豊かな精神的営みを、これから本格的に歳を重ねてゆく自分の中に、注入してゆきたいという思いは、ますます深まってゆくようです。

 

無理をするのではなく、その年齢の中での動ける中での身体動かし、出せるうちに声を出すという意識的行為が、遊声塾を始めた私には絶対に必要な日課になりました。あらゆるプロのスポーツや、演奏家が、繰り返し練習を怠らないように、プロならば続けるしかありません。

 

この数年、歳相応に肩や背中に金属疲労のようなこりを抱え持っていますが、意識してそこの部分を自分自身で按摩をするように、揉みほぐすのですが、やるとやらないのとでは大違い、人間の体は、この年になっても意識を集中し使えば、それなりに反応が返ってきます。

 

だから続けられるのかもしれません。30年ぶりくらいに本格的に声を出し始めておもうことは、意識するということの大切さ、です。意識しての他者との中での音読は、限りなく脳を含めた身体全体を活性化させます。何やら群読の楽しみの発見が、塾生たちのおかげで見つけられそうな予感がしています。今日もしばし気兼ねなく誰もいない家で、一人で声を出して遊びます。


2013-05-28

体一つで生きられる・楽しめる日々を取り返したい


広島平和公園にて

私ごときのブログでは、できる限り暗い話題は避けようと何とはなしにおもう自分がいるが、でもどうしても書かずにはいられないということがやはりある。

 

私は50代に入ってから、二ユースやテレビを正面からは見なくなった。(どうしても見たいとおもわせるもの以外は)斜めに見るという感じなのだ。たまたま、夕刻、28歳のお母さんが3歳の子供と、餓死したという二ユースを耳にした。電気も水道も切られていたという。

 

貧しい国の出来事ではなく、先進国経済大国日本での出来事である。都会の片隅で打ちすてられるかのような、母と子のなんとも痛ましいやりきれぬほどの、現代の光の届かぬ影の部分をかろうじてメディアが伝えている。脳は開くものに関してのみ反応する。

 

こうも毎日のように、さまざまな二ユース、情報がわんさか届けられると、おのずと人間の感覚はマヒし、五感は衰退する、挙句の果てには無思考、無感覚になる。恐ろしいと私はおもう。企画するものとして、こういうことになにも心が動かなくなったら、速やかに廃業する。

 

餓死すると一言で言うが、お腹がすくということがどのようことであるのかという、基本的な感覚がもう多くの豊かな時代しか経験したことがない世代には、悲しいかな想像力が及ばないのだろう。かろうじて私はかすかに、お腹が空いた記憶を持つ。辛い。

 

戦争の悲惨さや、無残さ、残酷な情況におかれた時、ヒトは生き延びるために、どうしても鬼面人に変身(カフカの変身は哲学的命題を書いている傑作だ)せざるをえない。これでも人間かという表現があるが、これも人間の一面だと表現せざるを得ない気が私はする。だから、だからこそ食べ物の在り難さや、平和の在り難さを、きちんと伝えないといけないとは思うのだが、きちんと伝えるには果たしてどうしたらいいのかということに関して、親としてはなはだ難しく悩むのである。

 

歴史は繰り返すとか、訳知り顔の評論家のようなことは、一切私は言いたくない。ただ私がおもうのは、対岸の出来事ではなく、明日はわが身になるかも知れない、と考える想像力を持たなければ、そして何か自分に為すべきことが在るのではないかと考える自分がかろうじているのだ。

 

従軍慰安婦の問題も空虚な言葉が飛び交い、痛みを伴う肉体言語を喪失した世代が政治をおこなうようになると、なんとも表現しがたい寂寞とした思いにとらわれる。

 

明治大正期の、添田唖蝉坊・知道のような時代の暗部を軽やかに照らす(深刻なことを軽やかに)、特に大衆に届くような表現者は本当に少なくなったのだということを、痛切に感じるのは私だけだろうか。立川談志家元の絶望が何とはなしに身近に感じる。

 

こうもあらゆることが、管理分断されて、そのことに関してもほとんど血の通った議論や、論評の(ないとは言わないが)限りない少なさに関しては、さみしい時代というほかはない。土取利行さんのやっている仕事に関しても、きちんと論評できる、人間がいなさすぎる。

 

私はこうやって、パソコンでブログを書きながらも、これで何かが伝わるかということに関しては、矛盾を承知でいえば、伝わる人にしか伝わらないだろうという気がするのだ。ブログだからそれはそれでいいのだと、私はおもっている。

 

ともあれ、朝から何やら真面目なタッチだが、私個人はこれも何度も書いているが絶望はしていない。生きているということは、ささやかであれ自己満足であれ、自分の中に何か、灯す行為なのではないかという認識があるからだ。たんなる自己満足から、可能なら社会に開いた自己満足。企画するということはそういうことではないかと認識している。

 

私は、ITは信じることは出来ないが、自分の身体は信じたいという、一縷の望みを持ってかろうじて日々を営んでいる。少々の食べ物と、考える力を運ぶ精神と肉体これさえあれば、日々を生きられる。この感覚に今しばらくしがみつきたいという、老春の私だ。

 

だから体一つで楽しめる遊声塾を始めたのだ、という結びでお開き。

 

 

 

2013-05-26

次女の二十歳の生誕の朝に思う


娘の生誕を祝うつるバラ

はなはだ自由勝手気ままな我がブログで在ります。今日は次女の二十歳の誕生日です。親ばかの私としては、やはりそこはかとなく、嬉しいのです。男親の私には妻と違い、子育てしたという気が申し訳ないくらいしません。これは巣立って東京で暮らしている長女に関しても同様です。

 

共に暮らして20年という感じなのです。今を生きる娘たちの時代と私の暮らした記憶の中の二十歳までとはあまりの時代環境の激変で、私としては父親として何が彼女らにしてやれたのかということを省みると、はなはだ大したこともしてやれなかったおのれの姿が、浮かび上がってきます。

 

時すでに遅し、それでも娘は育ち無事に二十歳を迎えてくれました。親は無くとも子は育つなんて言いますが、まがりなりにも親にしてもらって24年、なんとか頑張れたのは最低の、私の両親がしてくれたことを自分の娘たちにもしなければというおもいだけでした。

 

私ごときのブログで大層なことを書く気は毛頭しませんが、現代を生きる家族は新聞メディア等での見聞だけでも、大変な情況を生きざるを得ないという気がします。そんな中でなんとか我が娘は成長してくれたことに関して、見守ることくらいしかできなかった私としては、冒頭書きましたが、やはり親としてのささやかな感慨を覚えるのです。

 

これも以前書いたようにも思いますが、自分が親になるなんて思いもしないような生き方を選んできた我が人生において、まさか自分が二人の娘に父親になり、このように娘が成人してくれると、どうしてもいささかの感慨にふけってしまうのです。

 

太宰治は、家庭は諸悪の根源なる言葉を残しているそうですが、そのことの深い彼なりの哲学的な理由は、今はさておき、多くの国の人たちが家族を持って暮らしていることの何がしかの根拠はやはりどこかに、意味のようなことがあるのでしょう。

 

今持って私を含めた多くの人たちは、子育ての大変さも顧みず家族を持ちますが、今後の時代の推移の中で、家族はどのように変容してゆくのかということは、私には知る由もないという気がしますが、なにはともあれ絶対矛盾を生きる私としては、幻想の中の我が娘が、なにはともあれ二十歳になったことは、めでたいのです。

 

家族の行く末についての、重いテーマの論議はさておき、単純に娘の成人を今日は家族でお祝いしたく思います。

 

 

2013-05-24

背伸びして無知なるがゆえにできた、青春の光と影のロンドン自費留学


先日親友と初めて5月の原爆ドーム付近を二人で散策した、ブログの内容とは関係ありません

私は年齢の割に常識的な、知的教養に限りなくかけているということを今も認識している。1970年、18歳から世の中に出て、演劇を志したのはいいのだが、特に最初の3年間昼はアルバイト、夜は演劇学校という暮らしの中で、初めての大都会暮らしで心身ともに疲れ果てた記憶を持つ。今振り返ると、よくつぶされなかった、我が身の幸運をおもう。

 

それは、大都会の片隅で見た、未知の私が生まれる前の名画、奇跡の人(名匠アーサーペン)や、アンネの日記を始めとする、数々の記憶に残る舞台に触れることの中で、かろうじて精神の居場所を確保し、若さの特権というのか、感動するという体験を何度もすることができたことがやはり大きいという気がする。

 

あのとき、あの舞台を見なければとか、あのときあの映画を観なかったらとか、あのときあの本を読んだからとか、あのときあの人に逢わなかったらとか、という経験をすることによってかろうじて、自分自身を信じ、もうっちょっと背伸びして頑張って奮い立させて、乏しい才能をなんとかしたいとあがいてきたように思う。

 

ブログを書くことは恥を書くことだ(生きてゆくことはと、言い変えても私の場合はいい)と書き始めたときから書いているが、無理して自分に暗示をかけるように、背伸びは今しかできない、もう2度とこの青春は帰ってこないという一縷のか細い感覚にすがりついて、1年間英国に留学する一大決心をしたのは22歳のころだったとおもう。

 

決心したのはいいが、おけらの私。いろんなバイト(書店員、出版社の宿直など)をしながら、留学費用をため、それから3年間、無駄なお金は全く使わなかった。初めての海外英国自費留学に出発したのは25歳になっていた。

 

私にとっては一か八かのような、大冒険ロンドン自費留学だったが、この年になり振り返ると、やはりやっておいてよかったという思いがこみ上げる。あんなことは若い時だからこそ無謀にも思い切ってやれたのだというしかない。あの時代、田舎から都会に出てきた私にはあらゆることが、無知なるが故の驚きと発見に満ちた、無残と歓喜が矛盾して同居するあの青春時代無くしては、現在の自分はないだろうという気がする。

 

ロイアルシェイクスピア劇団を観劇し感激したあと、深夜の暗いロンドンの街の黒光りする石畳の街を下宿に向かって自転車で走り、遅まきの自由な青春を満喫しながらも、さあこれからいかに生きるか、孤独な内なる自分と向かい合う日々、まさに歌のタイトルのように青春の光と影の日々だった。

 

若い時というのは、夢はあるが自信がない。1977年8月パキスタン航空(イスラムの雰囲気を機内で初めて体感した)で英国へ出発、197812月、ロンドンからシベリア鉄道と船で横浜に帰ってきた。初めて自分に自信をつけた翌年、私は文学座を受け合格した。27歳になっていた。

 

何故朝一番、起きて間もないのに、このようなブログを書いたのかは自分でもわからない。

 

 

 

2013-05-22

シェイクスピア遊声塾5回目の朝に思う


かなり開いてきたつるバラ・差し上げますのでいらしてください

あっという間に日々が過ぎてゆくというのは、わたしの場合は実に幸せなことのように最近は感じている。今日で早くも、シェイクスピアの遊声塾は5回目を迎える。私は私なりに仕事を辞め、新しく何か自分らしい事をやって、もし生きてゆけるのなら、最低生活を覚悟してでもやりたいことの中に、声を出すということを、思考錯誤の果てに始めたのだが、素敵な生徒さんに恵まれた有難さを噛みしめている。

 

これもまた縁というしかない。教えるというのではなくコーチングしてゆくという感じの私のレッスンは、わたしと生徒さんとの間での声の出し合いで生ずる、一期一会のその日のレッスンである。それにしても声を無心に出すことは楽しい。生きていればこそである。

 

若いころ、20代の後半の4年間、私は空けても暮れてもシェイクスピアシアターという劇団で、翻訳されたばかりの小田島雄志訳のシェイクスピアを、口から身体にしみこませてゆく訓練をやった経験を持つ。その結果、当時渋谷にあったジャンジャンという100人も入れば満席という小さな小劇場で、シェイクスピア全作品37本のなかの、8本の舞台に立つという今考えれば、夢のような幸運を得た。(またそのことはおいおい書いてゆきたい)

 

振り返ると、私がこのようなちょっと人とは異なる人生を選び歩んだ要因の大きな事件の出発は、これもすでに過去にブログですでに触れたが、宮崎の田舎町でフランコ・ゼフィレリのロミオとジュリエットを高校生の時にみて大感動したことに起因している、とやはり思う。それほどに今も細部に至るまであれやこれや、衣装音楽も含めておもいだせるフィルムに出逢えたことの幸運を(今考えての)量ではなく、生徒さんとレッスンを共にしながら噛みしめている。

 

晩年のこれから、再びシェイクスピアをあらためて声を出し読み込みながら過ごせる時間が、我が人生に訪れるなんてことは、まるでおもいもしなかった。昨年2月、東北を初めて訪ね、岩手の大槌町というところで瓦礫の撤去のボランティアなるものを初めてして、還暦を迎えた日のことで、何かが私の中で大きく変わった。原点回帰。

 

偉大な芸術や文学には、汲めども尽きせぬ人生の全てが、書きこまれている。私の場合はシェイクスピアに出会ってしまったのだとおもう。このように面白くもまた悲しい、生きるということに関しての人生の真実を多面的重層的に刻(か)いた作家を、私は他に知らない。だから私はヒダカトモフミのシェイクスピア遊声塾を始めたのではないかと、おもう。

 

 

2013-05-21

可能な限り、働いていたときにやれなかったことをやる暮らしを心懸ける


親友と宮島で夕方何十年ぶりに潮干狩り

歳を重ねないと見えてこないものがあるということを、もう繰り返し書いているように思えるけれども、おそらくそのことがある意味でこれからブログを書きつづけてゆくエネルギーになってゆくのではないかという予感がして、余人には、特に若い人には理解しがたいかもしれないが、オーバーではなく私が求めていたある種の達成感は、こういうことなのだという、実感がこのところの私をおそっている。

 

以前から、やろうとおもっていて先延ばしになっていたことのあれやこれやを、ひとつずつやろうとは思うものの、人間というのはそうはなかなかに事はゆかないということも抱えながら、でもやっている。そのひとつ、随分前にペルシャ音楽を企画した時に、お土産にいただいた堅い岩塩を砕いて粒上にしようと思いながら、あれやこれやを口実に、うっちゃって置いたのだが、それを母の知恵を借りて一時間くらいかけて念願を成就した。プラスティックのいい按配の容器を母が用意してくれ、それにいっぱいになった。おそらく数年は充分に使える量だ。なんとも言えず美しく愛着が湧いてくる地球の歴史を感じる岩塩、いまだ知らぬ邦ペルシャの塩。こうなると私の中では全く単なる塩ではなくなる。

 

こんなことをしている時が、仕事を辞してから妙に楽しいのだ。洗濯物を干したり雑巾がけをしたりするのも、平日は私の担当という感じなのだが、そのことが全然苦にならないのである。妻がお休みの土日以外の昼食は今のところ、全部自分で作っていて外食はしたことがないし、簡単なあり合わせの一人ランチを作るのは全く苦にならない。何よりも時間に余裕ができた今だからこそ、やれるという喜びが私を満たすのである。

 

まさか母にいただいた、ぬか床(ペルシャの塩を使ってます)を自分が毎日いそいそとかき混ぜたりするようになるなんてことは思いもしなかった。いまや、温かいご飯においしいぬか漬けの、キューリや茄子、大根、ニンジンは欠かせない。これにささやかに何か庭でとれる、サヤインゲンやサラダ菜、干物でもあれば、わたしには充分である。海苔、ニラ玉、納豆、豆腐、油揚げ、きんぴら、しらす干し、などなど、後はその日の体調が欲するものを、置いておけば、だれにも気兼ねせず、おっとりと頂ける。

 

何事も楽しむ、遊ぶ。このことがこれからの、わたしの晩年ライフの基本認識である。可能な限りお金(素材代にとどめる)に頼らず、工夫し、知恵を絞り、貧すれば鈍す、ではなく、貧すれど純に、逆境を生きる術をとことん追求する。

 

この一年くらいかなりのことを、意識実行してみて覚ったことは、生活をシンプルにすれば、意識は研ぎ澄まされてくる。身体を動かす、本を(シェイクスピアは声を出して)読む、文字を書く、自分のやれる範囲の家事労働を心かける。妻と料理を楽しむ。大切な友と遊ぶ。身体が健康なればこそである。

 

 

 

 

 

 

2013-05-18

斎藤明美・編 高峰秀子 夫婦の流儀 を読む



一昨日くらいから我が家の駐車スペースの塀にはわせている蔓バラが開き始めました。これは母が差し木から育てたもので、もう10年近くになるのではないかと思います。とくにこの数年見事に、眼を楽しませてくれていています。(余裕のある方は連絡の上見にいらしてください、歓迎します)

 

これから何回か、咲き始めから満開までをブログにアップしようかとおもっていまます。とくにこの数年、少し時間に余裕のできた妻がガーデニングにいそしんでおり、母のDNAを受け継いでいる妻の植物(犬や猫にたいしても)にたいする愛情表現のこまやかさは、私にも影響を及ぼし始めています。

 

これからは当たり前のことですが、夫婦の時間が増えてきます。まだ退職してからそんなに間がなく、何かと忙しくはしているものの、この束縛されない時間のなんとも言えない自由感は、私のなかにこれまでとは異なる内的な静かな世界を育んでくれそうな予感がしています。

 

先年お亡くなりになった高峰秀子さんの私はファンです。若いころ彼女の自伝、わたしの渡世日記を読み、そのあまりの独特独学文章の、彼女にしか書けない、きらきらひかる個性にうなり、一発でファンになりました。

 

私の母も彼女のファンでした。この数年、縁あって養女になられた斎藤明美さんが書かれた、高峰さんとの出会いから養女になるまでの間の本を、ひそかに求め読んでいます。ブログを書き始めたころ、宮崎に帰る鈍行列車の中で、一気に読みふけったことを書いた記憶があります。(何度も目頭が熱くなりました)

 

そして今、昨年の11月に出された、夫婦の流儀、いう本を今読んでいるのですが読み終えるのが惜しいくらいに、ゆっくりとページをめくっています。(又しても何度も目頭が熱くなりました)斎藤明美さんは、このご夫婦に出会っての驚いた一部始終を、愛というしかないほどの情熱で持って、本にされています。

 

このような御夫婦が現代の東京の片隅でひっそりと生活されていた、ということのなんというのか、まさに奇跡的な御夫婦と言うしかないほどの、表現しがたい中睦まじさに、わたしは茫然自失する。

 

そして万分の一でもいいから、これからの晩年を共に歩む夫婦という関係を新たに見つめてゆくよすがとしたい本に巡り合えたことの喜びを、我がブログに記しておきたい。

 

 

 

 

2013-05-17

幾山川・越え去りゆかば・さびしさの・果てなむくにぞ・今日も旅ゆく


エリックのライブに神奈川から駆け付けてくれた親友のK氏と宮島に行きました

5日もブログを書かなかったのは、おそらく書かなくてもこころが穏やかだったからだろうとおもう。

 

昨年4月から、五十鈴川だよりを書く始めてからあっという間に一年以上が過ぎたわけだけれども、ブログなるものを書き始めてからなんともはや3年半が過ぎようとしている。

 

日々の自分の生活の折々の、気分や移ろい、よしなしごとを綴ることによって、そこはかとなく整理確認してゆきたいという、ささやかな願いのようなものが、この年になってもいまだ止まずという、曰く言い難い感情が私の中にはある。

 

完全退職してから、あっという間に2カ月近くが過ぎた。エリックマリアのチェロライブを終えて、まる5日が過ぎようとしている。今、私は本当に心から穏やかな時間を過ごせている自分を感じている。

 

それは言葉にすればはなはだ陳腐な表現になるので、控えたい。ただ何とはなしに言えることは、自分の中の限りない煩悩のようなものは、生きている間は消えようもないとは思うものの、ようやくこの年になってひと山越えたかのような境地に立てた自分を感じている。

 

土取利行・邦楽番外地や、エリックマリア・チェロライブは、やはり20年以上の時を重ねたからこそ企画することが実現したのだという、はなはだ個人史的な感慨に包まれる。

 

故郷を後にして43年、よもやまさか自分がこの年齢まで生きて、このような思いに包まれた時を迎えようなどとは思いもしなかった。運命という字は、命を運ぶという文字ですが、

私は物事を勝手にいい方に解釈する癖のような、自分の性格が在ったからこそなんとか生きて、今を迎えることができたのではないかという思いにとらわれる。

 

日はまた昇り、映画のタイトルのように、そして人生は又続いてゆく。自分という限りない煩悩の器を抱えながら、この先も何とはなしに、今しばらくは恥ずかしきじたばた人生を送るしかないという心境です。

 

我が人生で出会えた出逢えた、妻をはじめとする限りなく大切な人びととの、与えられた人生の時間を深めながら、限られた能力で謙虚に努力し、遊びながら声を出し、次なる企画の夢を育みたいと願わずにはいられません。