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2012-05-15

友人の手紙と家族について思う

亡き父が建てたお墓の納骨堂碑

5月15日の朝です。起きて15分しかたっていませんが、ブログタイムに頭が入りました。外はまだ薄暗いのですが、窓からの春の花々が美しく、雨は上がっています。少し肌寒い感じですが、この静けさを、ことのほか私は好みます。



ところで、昨日は嬉しいことがありました。神奈川に住む、我が良き友K氏からまたまた思いのこもった、手書きではないのですが(手書きの葉書も、たまにいただきます、文字が可愛く、すべてとっています)お手紙を頂きました。家族のこと、わけても愛妻家らしい妻のことが自然に触れられていて、素敵な家族であることが、文面に現れていました。



家族とは何か、夫婦とは何か、兄弟とは何か。なんてことをいい年ではありますが、いまだときおり考える私自身がおります。この半世紀の日本の歴史の中での自分がまがりなりにも生きて、成長する中での見つけることができた家族ということの、ありがたさや、難しさ。ヒトは生きている限り、そのようなことからは逃れられませんし、またそのことはオーバーではなく、ずっと考え続けなければならない、いわば生きている宿命のようなものなのだと、最近は考えています。



朝から、なにやら真面目な問題を書きはじめてしまいましたが、先日も故郷で本当に何十年ぶりかで、兄や姉と山登りや、小旅行をする機会にたまたま偶然恵まれたのですが、それは仕組んだものではなく、眼に見えない何かがおぜん立てしてくれたように、私には感じられたのです。



あまり難しく考える必要はないというのが、私の考えです。人間にとってこれが一番難しいことなのかもしれませんが、やはり相手の立場になって考える想像力を持てるか持てないか、ということに尽きるように、最近は思います。私自身もおそらくこれからも、ずっとなんとも慌ただしい時代の中で、あらゆる不自由を抱えながらも、生きる中での家族(皆、変化しながら日々の情況に適応しながら、生きているわけですから)のことに関して、日々の何げない暮らしを、改めて大切に生きてゆかないといけないという思いです。


浦島太郎のように、娘たちがこんなにも成長しているのだということに、ある日突然驚かされることが、最近ありました。親である私が何も知らぬまま、娘たちは自分で考える力を身につけ始めています。何よりも、家族というものが社会の最小単位ですから、親である私がしっかりしなければならないと思う今朝の私です。

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