夜明け前の我が家の白いつるバラ |
時間に余裕のある生活が、以前よりできたので、休日は愛犬メルを連れて必ず、運動公園まで散歩に往くようになっているのだが、車を使わないのでほとんど車の通れない、細い家と家の隙間のような道を歩くのだが、このような画一的な家が立ち並ぶ時代の中に合っても、やはり人間は、その中で、極めてその人らしい暮らしを営んでいるのだということが、その家の庭を見ると、良く見えてくるような気がする。
同じ道を何度も何度も歩くのだが(なるべくいろんな細い道を探して歩いている)いろんな表通りからは見えない、いわゆる路地のような道が、まだ西大寺にはそこかしこに残っていて、私はそのような車が通れないような、路が大好きである。来年はもっともっと西大寺の観音院周辺まで散歩のコースを広げ、歩いた道を、このブログで写真にとって、書きたいと思う。何せ時間ができるのだから。ささやかな路上考現学、なんて大したものではなく、ただ単に、車が入れない細き道に私は惹かれるのです。市井の人が暮らしている道。
けっして表からはうかがい知ることはない、ささやかではあるけれども、なんとも庶民はたくましく、日々を生きているのです。そのことを私は思い知らされています。あ、ここにも何と、慎ましく豊かに生きている家人が住んでいるのだと思わせる家が、あるのです。庭や植木に住んでいる人の、愛情が丹精がこめられているのが、わかるというのか見えるのです。
昨日も、ささやかなお家に、見事な赤いバラが咲いていて、たまたまその家の方が、そのバラを摘んでいる時に通りかかったのですが、その女性はなんとも言えない良い顔で自分が育てているバラを眺めていました。何気ない日常のひとこまですが、バラの香りがこちらにまで、匂ってくるかのような心もちになりました。
美しい、その人らしい植物や植木を育てたりするのは、織物をおるように、手間暇が子育てのようにかかるのだと思います。だからこそ、花が咲いた時の喜びは、花を育てた人にしかわからない喜びがあるのだと思います。
手間暇かける喜び、横着をしない(無理をすることではありません)与えられている時間を大切に生きる。そこにこそやはり、ヒトが人らしく生きられる何か大切なこと、ヒントがあるのだと思います。我が家の庭は、妻に任せきりですが、今ようやく夜が明けてきて、窓から庭を眺めながら、幸福感に包まれています。
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