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2012-05-27

自我を癒してくれるくれる花と植物

つるバラ別の角度で

自分でブログの写真をアップするようになって感じるのは、自分で育ててもいないのに、自分は花が好きなのだということである。つまり眺めるのが好きなのだということである。たまたま、この間買った記念切手は、牧野富太郎博士の記念切手で、もちろん知らない名前の小さき花や植物。以前書いたことがあるけれども、夢が原で過ごすうちに、なんともすごい雑草も、当たり前だがなんとも可憐な花を咲かせていて、歳と共に無名の花々に眼がゆくようになってきた。日々刈っている雑草でさえ、別な視点で眺めるようなってきている自分を感じている。



でも人間というものは(自分のことです)かくも主観的な生きものであるのかということに気づき、ときおり仕方ないとはいえ、愕然とすることがあります。朝から、何やら真面目に過ぎる、展開ですがご勘弁ください。自我という意識、自分を守るということによって、他者を認めないというか、自分が理解できない世界のことには、ふたをするというのか、時には他者を攻撃するとか。



これは自分のものであるとか、これが自分なのだという強迫的な思い。私の中にも様々な自我がうごめいており、それに縛られ、自己どうちゃくというのでしょうか、自分で自分がどうにもしようのない、思い、自己嫌悪になることが、ときおりいまだに、私にはあります。そんなとき昔はお酒を飲んだりしていたのですが、しなくなりました。ブログを書くことで、自分との対話がかすかに進んだせいのようにも思うのです。



いまだかすかに変化する自分がある限り、あきらめずにやれるところまで自分と付き合ってゆくという思いです。おそらく仕事を辞めることにきめ、自分で生きてゆく選択をした時から、何か意識に新しい光が這いいり始めたのかもしれません。安全なところにいたのでは、なかなかに脳は全開しないのではないかという気がします。守りに入ってはだめだということです。



無理をするということと、ギリギリのところでしっかり生きるということは全く違うということです。一円も使うことなく、充実した一日が過ごせるということを、50代に入って私は学びました。



昨日は、下の娘の19歳の誕生日で、植物図鑑という、有川浩の本を(頼まれまして)、プレゼントしました。知的な遊びができなくなったら、ヒトとしてちょっとさみしい気がいたします。遊悠塾は何よりも、生きていることを確認する塾です。

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