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2025-09-30

[続ける力],千住真理子著を読み、打たれた今朝の五十鈴川だより。

 昨日、千住真理子さんの、続ける力、というストレートなタイトルの本を読んだ。お名前は知っていたし、ラジオでお声も聴いたことはある。だが、実際に演奏を聴いたことはない。だが先週土曜日図書館で、ご本のタイトルが目に入った瞬間すぐに手に取った。3ページめに、この本を手に取ったあなたへ、というちょっと大きめな言葉が記されていて、続く言葉が[人生はロングレースだよ]というお父さんの言葉が冒頭に続いている。

生で聴きたい。

あまんきみこさんの絵本を探しにいったのだが、よもやまさか、千住真理子さんの本にも恵まれるとは。なぜこの本のタイトル、継続する力に吸い込まれたのかは、私自身が、幼少の頃から、今で言う発達障害とでもいうしかないほどに、落ち着きがなく、多動性であったことに起因している。

何事にも飽きっぽく(それは決して消えてはいない)、集中力のない、自分という存在との、オーバーに言えば、それとの戦いみたいな人生を、18歳で世の中に出てから送ってきたからだ、と思う。

生活をするだけでエネルギーを消費し、夢も希望もない蓄積したの実感のない泥沼のような貧しい青年の暮らし。この先を想うと、暗澹とする不安しかない焦燥坩堝時代。

運が良かったと言うしかない。不確かで、日々変容する自分との戦いの果てに、なんとかこの年齢までたどり着いている、というのが正直な気持ちである。

おもえばあれから55年の年月が流れ、いろんな方との廻り合いに助けられた。そして今、ようやく多動性発達障害がようやく収まりつつある自分を感じている。ただた単に年を重ね老人になったからということでは決してない。

臆面もなく打つ。振り返ると、不甲斐ない自分を見つめなおす勇気と課題を、綱わたりのように、ささやかに持続したから、いまをがあると思える。自己嫌悪になるほどの不甲斐ない自分との戦い(いまも続いている)から逃げたとしたら、還暦を過ぎて、五十鈴川だよりを打つなんてことは決してありえなかったとおもう。

18歳で上京してからの4年間、22歳になる前(まだ21歳だったと思う)英国に脱出する勇気を思いつかなかったら、その後の私の人生はどのように変化したのか皆目想像だにできない。実現のため、当時付き合っていた女性にこれから資金を貯めると告げた。そこから希望の光が差し始めたのであるる。

二人で3年以上ひたすらあれやこれやのアルバイトをして、一年間イギリスに滞在する資金を貯め、結果実現して、最初の成功体験(目標に向かって継続すると願いが叶うという)となり以後の人生の支えになっている。

話を戻す。千住真理子さんの継続する力は、二歳半でヴァイオリンを手にして、以来一筋の50年である。まさにヴァイオリンの神様に選ばれしヒトなのである。好きであるということに導かれた、あまりにも過酷な運命の道。しかし運命から逃げない。受け入れる。その健気さ、凛々しさ、潔さは受両親から受け継いだ天性の賜物である。

理想の音を求めてアスリートのように体を鍛える。ヴァイオリニストは過酷極まる肉体労働であると、初めて知った。二十歳で一度演奏家をやめる。挫折しても好きだからまたもや起き上がる。試行錯誤、真理子さんの(と呼びたくなる)挫折克服の、自分で見つけた方法が簡潔で的確に真理子さん文体で書かれている。

ある日スイスから携帯の電話がなる。しまわれたままの、誰も弾いていない、300年に創られたストラディヴァリウス、ヴァランティ、とのまさに運命的な出会い。出会いの一文が簡潔ですばらしい。弾かれていないストラディヴァリウス、ヴァランティは簡単には音がでない。名器ヴァランティとの格闘が始まる。目頭があつくなった。(何ヵ所も)

ある種選ばれし天才は、誰も聴いたこともないヴァランティの音色を奏でたく、格闘を続ける。努力自分自身と戦っておられ、そのあまりの純粋さに言葉を失う。いや天才だからこそあれほどの努力が出来るのだとも思える。楽譜にびっちりと書かれている文字をみると畏敬の念しかない。すごいの一言しかない。

真理子さんのご本は、分かりやすく凡人の私にも充分に面白く、しかも誰でもやれると思えるほどに、分かりやすく説得力があり、読みやすい。素直によめる力さえあれば、こと音楽の世界だけではなく万人に届く、と私は思う。身近な世界のワンダーを感じる感性をお持ちのヒトであれば。

何事の困難も、継続することのなかでしか、未知の扉は開いてくれない。扉を開く勇気のある人間だけにしか、挑んだものだけにしか見えない、感知できない景色、聴こえない音があるのだ、と知る。この年でこのような本に巡り会え、五十鈴川だよりを打てる事に感謝する。今年見つけたもっとも素敵な本である。

PS 8月上京した際、猛暑の中、男の孫二人と父二人、私の5人で野外プールにゆきその時、数年ぶり、何百メートルを休み休み泳いだのだが、意外にまだ泳げる自分がいた。その時今年の冬はプールに行こうと五十鈴川だよりに書いた記憶がある。

千住真理子さんはヴァイオリンを弾くための体力維持のために、行ける時間がある時には、どんなに疲れているときでも、這うようにして、自分を騙して出掛けるのだという。ジムまで行ってみる。着いたらとにかく着かえる。着かえたら水にはいると、チビリチビリ自分を騙してゆく。

昨日午後3時半から休み休み一時間、泳いだ。真理子さんのご本に刺激をうけ、予定の冬よりも早くゆくことになってしまった。さあ、継続出来るか。意欲がなえそうになったら、真理子さんのご本が背中をおしてくれる。まだ泳げるのだから。(取り敢えず週に一二度、泳ぐことにした)

2025-09-29

昨日9月最後のミーティングと作業が猪風来美術館で行われた。記録として打つ五十鈴川だより。

 夜明け前、一時雨音が凄かった。目が覚めたが今月の労働は先週で終わったので、今日明日は労働はなし、だから雨音に聞き入りゆっくりとおきた。今朝は朝食後、3通のお便りを書いて先ほど自転車で投函してきた。

中央のシートの下の廃材を片付けた

さて、記憶が新鮮なうちに、昨日の猪風来美術館野焼き祭りイベントのミーティング、及び作業のあらましを綴っておく。

起きてすぐ近所のスーパーにミーティング参加者のためのお弁当を買い、朝食を済ませ、7時26分の電車で岡山へ、瀬政さんの車で猪風来美術館へ向かった。途中コンビニで小休止、10時前に着いた。

すでにNさんや地域の方たちが、駐車場や美術館周辺の斜面の草刈りをしていた。盟友大場さんもやって来て、猪風来さんの指示で、私、瀬政さん、大場さん、Nさんの四人で当日の客席作りのシミュレーションをする。8畳の筵を広げ、その回りに、パイプ椅子を実際にある程度並べ、おおよその人数の把握をする。それだけでも、シミュレーションができて、実行委員会の一人として安堵した。

その後、お昼まで時間があったので、縦穴式住居の近くにあった、舞台背景にはちょっと邪魔な廃材の片付けと、当日燃やす(縄文鼓を暖める)薪を綺麗に積む作業を、我々4人と野焼き祭り、法曽焼き同好会のKさん、猪風来さんの計六人で、一丸となって約一時間やった。すっきり、場がいい感じになった。

Nさん以外は、古稀を過ぎた高齢者ばかりではあったが、皆普段から体を動かしている面々であったので、思った以上に早く作業の目処がついた。大場さんとは長い交友だがともに体を動かすのは初めて、大場さん最初は戸惑って、軽口をたたいていたが、始めると体が動く。

瀬政さんもお世辞ではなく、やはり山で鍛えているから、よく動く。古稀を過ぎたら動く体こそが宝であると、心底私は思う。心情は体の動きに表れる。この偶さかの、冗談が(特に私と大場さんの間で)飛び交う作業が愉しかったことを、五十鈴川だよりに打っておく。

共に体を動かして、事務所で和気あいあいお弁当昼食。ちょっと話が逸れるが、仕事ではなく、心情あふるる利害のない、ボランティア参加者との作業やミーティングは本当に楽しい。

猪風来さんからの思わぬお声かけで改めて思うのだが、なによりも主体的に、自分の頭で考えて、縄文野焼き祭りに参加してくださるボランティアたちの存在は少数だが実に心強い。(心から喜びを分かち合える、今回の実行委員会ボランティアはサイコーである。)

9月最後のミーティングは、細部の詰めの確認事項に重きをおいて進行し、最後に、猪風来さんから縄文への回帰、近況の動き、(2027年横浜で開かれる、花の博覧会への猪風来さんの作品展示、ほか)について実行委員会に報告があり、ミーティングを終えた。

改めて最後、打たれたのは、野焼き祭りへの尋常ではない、100点もの作品を一日で焼きあげる責任感の深さである。法曽での41回目の野焼き、お天気に恵まれ、無事に野焼きが終わることを、スタッフの一人として祈るしかない。ミーティングを終え外に出るとかなりの雨、猪風来さんの案内で、4ヶ所の駐車場を全員で確認して、猪風来美術館を後にした。

瀬政さんに岡山駅まで送って頂き、17時半家についた。(なりゆき、行き帰りの車中、瀬政さんと話すことで、若き日のこと、忘れていたことが次々と思い出された。若き日の辛い出来事も、今となっては切なくも甘美な記憶して、脳の海馬の奥深くにしまわれていたのだ。話を聴いてくださった瀬政さんに感謝する)


2025-09-27

午前中、菜園場の(さつまいも畑の)草取りをし、そして想う。

 ちょっと体がだるい。だけれども五十鈴川だよりを打つ元気はある。明日は猪風来美術館で作業とミーティングがあるので、五十鈴川だよりを打ってたまった夏の疲れが出ているのだろうから、午後はゆっくりと休むことにする。

自然は手強い、修行は一生なり

朝食後、約2時間以上菜園場の草取りをして、戻ってきて寸暇五十鈴川だよりタイム。バイト先のさつまいも畑が、約一月ほっといたら、あまりに雑草に覆われていたので、鍬で少しうがして、手で抜いたのである。

だるいのでちょっと億劫ではあったのが、今日を逃すとまた伸びる。自分の菜園場、自分がやらないと誰もやってはくれない。単調に体を動かす。

根にまとわりついている土をふるい、草をバケツに入れ、一杯になったら、農業用の小さな車に積む。最初は大変ではあったが、だるいのも忘れて、はかどり始め、気分よく菜園場を後にした。

もうこの年齢になると、秋の空のもと、土に触れて香りを嗅ぎ、草と戯れていられる休日の時間が甚だ嬉しい。小さな菜園場がバイト先にあるなんて、なんとありがたいことかと、今朝も私は思った。私以外誰もいない。ただただ草を抜く。老いた我が体が喜んでいるのが分かる。

ささやかしごく、このような体の喜びを見つけられたことを、能天気に臆面もなく打てることが嬉しい。子供が夢中で虫とりをするように、私は草を抜く。正味2時間位が今の私にはちょうどいい。

養老孟司先生を、私は勝手に尊敬している。都市化(先生の言葉では脳化)された中での生活で、体が置き去りにされていることの危惧を、数十年もまえからお書きになっている。脳で考え、体を使って考えないことのバランスの悪さを、再三鋭く指摘しておられる。自然界は人間の思い道理には絶対にゆかない。どこかで自然と折り合いをつけないとまずい。畏敬の念を忘れたらとんでもないことになる。

老いて草を抜きながら、養老先生の言葉を反芻し、噛み締める。ときにこのような言葉を。人間の財産とは、結局自分の体に身に付けたものだけが全てであると。全財産、我が体は自然に還る。それまで体を動かし、菜園場でギリギリまで遊びたい。。

生老病死は摂理、自然である。私はやがて土に還る。宇宙の塵となる。都市化した生活をしてきた私は現代人である。だから死をどこかで怖れる。だが土に触れていると、気持ちが穏やかになる。土の力は偉大なものがある。土は生と死そのものである、そのような想いもしなかったことを感じる。土に触れなかったら決して生まれない感情である。

最近、私は現世的な執着や欲望がとんと(消えてはいないが)弱くなっている自覚がある。限りなく、一日の過ごし方が単調、シンプルになってきている。朝日とともに起き、体を動かし、暗くなったら、体を休める。もうほとんど満たされている。

お金や物に、執着しない。存在していることを、日々寿、ことほぐ。養老先生は覚悟を忘れて、永遠に満たされない欲望消費現代人に警鐘を、虫の視点で説く。然り、府に落ちる。自然を受け入れ、目を閉じる覚悟を日々養いたい。

2025-09-21

昨日、猪風来美術館の敷地の草刈りをしました。そして想う。

 昨日猪風来美術館に行った。着いたのが午前9時前、持参した草刈り機で敷地を約2時間草刈りした。春から秋まで毎日のようにバイト先で草を刈っているので、手慣れているので、私にとってはなんてことはない。

猪風来美術館の敷地の草刈りを初めてやった日として。記録として打っておきたい。そして思う。私が元気でいる間は、年に数回は、敷地の草刈りボランティアをやりたい。ご夫婦のお役にたてれば、ただ嬉しい。それだけである。

猪風来さんからお借りした本


おつむが弱い私としては、ただ体を動かし好きなことでしかお役にたてない。私自身高齢者ではあるものの、未だ十分に草は刈れる。ほんの少しでも役にたてる、その喜びが私を猪風来美術館に向かわせる。

初めての敷地での草刈り、おおよその時間の目安がわかった。すべては現場で自分の体をうごかさないと、何事もつかめない。砂利が多くてスムーズにはゆかないのだが、何事も一事が万事、やれば、動けばはかどる。私は単純である。

終えて、私のみ早めの昼食、お相手はもちろん、猪風来さんとよし子さんである。ゆく度に猪風来大兄から、私にとっては未知の領域の、蒙をひらかれるお話をうかがう。おそらくその事が、私を猪風来美術館に足を運ばせる、のだ。

昨日は、関西から土ひねり体験の予約が入っていて、猪風来さんはその準備や、こられてからの対応のさなか、私はさきに昼食を終え、よし子さんと私が、二人で話をしているとお昼に戻って来られた。私が縄文世界について参考になる本がありますかと、たずねると、とある考古学者が書いた縄文世界について書かれた本についての、前提からしての間違いについて、ひとしきり、お話しされた。私は又もや、府に落ちる説得力に脱帽した。(詳しく書けなくて申し訳ない)

猪風来さんが昼食を終え、遠方からの生徒さんの対応に戻ると、私は再びよし子さんとのおしゃべりに戻る。よし子さんのご年齢は知らない。おそらく私よりもちょっと上かもしれない。もう最近では、気安く姉感覚でおしゃべりができる。それが楽しい。このこともまた、今を生きる私の喜びの一つなのである。

この方のそそとした、凛とした聡明さ、思慮深さ、芯の強さは、猪風来さんとはまたことなり、女性ならではの柔らかさが、私にある種の新鮮な驚きをもたらす。そしてエネルギーをいただく。

先週、よし子さんから、5年前32歳で他界された、ご子息原野さんが10最のときに書いた、岩手県への旅行記ノートを見せてもらった。かけがえのない、大切なよし子さんの宝を、見せてもらえた事に驚き、そのことがジーンと私には嬉しかった。

(10歳、好奇心満載、子供とは思えない細かい観察記録、文字にも力があり、遠方への初めての旅、世界を見つけた喜びがあふれている。暫し預かり繰り返し丁寧に読み、老人の私も未知の旅を追体験、いつの日にか訪ねたい)

西大寺から新見法曽まで、往復約5時間の一人ドライブ、ボーッと過ごせる有り難さ、ゆく川の流れは絶えずして、高梁川を眺め、たわわに実った稲穂、日本の里山の秋の景観にみいる。運転できるこれからの時間、猪風来美術館で繰り返しあのお二人の縄文のオーラを浴びたいと私は切に念(ねが)う。

2025-09-19

ようやっと待ち焦がれた秋がきた。ただただ嬉しい五十鈴川だより。

 暑さ寒さも彼岸までという言葉が虚しくおもえるほどの気候ではあるものの、萩の花がさき、コオロギが草を刈っているとそこかしこから姿を現す。天が高く高く感じられ、青い空のもと、いくばくか涼しく感じられるなかでの、早朝の草刈りは、なんとも言えず気持ちがいい。

あざやかな、実りただき、秋がきた。

だあれもいない広い場所で、ただ一人エンジンの音を響かせ草を刈る。40分やったら、少し息を整え、その繰り返し、おおよそ4ラウンドやれば、かなりのフィールドの草が刈れる。早春から晩秋まで草は休みなく伸びつづける。

ときに、うんざりするほどの草の生命力に圧倒される。正直今年の暑さには、もういい加減にうんざりしている。だが、なんとか乗りこえることができた悦びは、たとえようもない。

有難い事実として、記録として打っておくが、この酷暑の夏、我が体は、どこかで1日1日を生き延びることこそが、楽しみで働いていたのである。

もっと敷衍するなら、この年齢での限界に敢えて、挑むかのような塩梅で日々、暮らしていた、と綴るのは、ちょっカッコつけすぎか。

年齢を暫し忘れ、ただ草刈りに暫し没頭する。没頭することの、没頭できることの老いのからだの摩訶不思議を、この夏ほど痛み入りますと言ったあ塩梅で感じたことの、有り難さを五十鈴川だよりに打っておく。

もうこの年齢になると、ただ老いゆく存在を、一日でも慈しみたいのである。結果、他者との時間も慈しみたくなる。従って今日共に働いたkさんとの束の間のふれあいなども、いかんともしがたく、なにやらそこはなくうれしいのである。

Kさんとは週に二回しか、ともに働かない。kさんは口数が少ない。もう丸3年ともに働いている。誠実でまことにもって信頼できる。今どき稀なご仁であり、歩んできた道のりは全くといっていいほどに異なるのに、何故かの私の企画もカンパも含め、支援してくださる人である。

今日も、お家で収穫したたくさんのピーマンや大きなシシトウをお裾分けに持ってきてくださった。つくづく思う。ての届く範囲での人間としての日々の生活、をこそ大事に生きていきたい、いきてゆかねばとの思いにわたしはかられる。

いきなり話は変わる。明日は、猪風来さんのところに、ゆく予定である。行って何をするかというと、少し草を刈るつもりである。kさんに頂いたピーマンもよし子さんにお裾分けしたい。

2025-09-15

敬老の日、最後のフライヤー配布に出掛ける前の朝の五十鈴川だより。

 今日は最後のフライヤー配布に出掛ける。その前に頭が新鮮なうちに、ちょっと五十鈴川だよりを打つ。

今日は敬老の日だそうだが、私にはいまだピンとこない言葉である。確かに年齢的にも、外見的にも十分に老人ではある。しかし、普通に生活して歳を重ねてきただけで、うやまれるようなことは何ひとつしてきたことがないので、面映ゆい。ただお休みがもらえるのは正直嬉しい。嬉しいのは、フルタイムは無理だが、いまだ現役で働いているからだろう。これが毎日が日曜日なら、嬉しいという気持ちも半減するに違いない。

遺言の書である

話は変わるが、今年1月、67歳で亡くなられた森永卓郎さんの本(官僚生態図鑑)という本を読んだ。随所に怒りがわいてきた。詳細は割愛する。

テレビでお顔は拝見していたが、本を読んだことはなかった。昨年秋に上梓され、すい臓がん末期の治療中に書かれている。森永さんが40年にわたって官僚と共に働く中で見つめ続けてきた、官僚の生態があけすけに綴られている。

(事実であればこのような、エリート偏差値を世間知らずバカが、国を司るポストでのうのうと、血税を貪っているかと思うと、暗然暗澹、この国が没落するはずである)

読んでみて、余りにも庶民とのずれ、感覚のずれに言葉をうしなった。とくに天下り他の、既得権益に巧妙、狡猾にしがみつき、甘い汁を吸い続ける財務省官僚の生態はおぞましいのイチゴ一語に尽きる。一般国民との感覚のズレに呆れかえって、いかんともしがたい感情を抑えられず読み終えた。(大多数の他のこの国のエリート官僚はしっかりと仕事をしていると信じたい)

森永さんの官僚への遺言のような本である。この国の行く末を想うとき、森永さんはいてもたってもいられないような、お気持ちで病と格闘しながら、書かずにはいられなかったのだろう。その真摯さがつたわってきた。だから五十鈴川だよりを打っている。

この国の行く末、少子化をはじめとする、余りの多岐にわたる問題山積、閉塞感、どん詰まり感、を何とかするべく、官僚への愛と憎しみ、叱咤激励の書である。以前の私だったら、手にしなかったような本を、意識的に読むようになってきた。昨日も打ったが、老成ということについて、敬老の日の今日、じっくりと物思いに耽るのも一興である。

森永さんは私よりも五歳年下である。命は何時なんどき奪われるか、死が訪れるのか未知である。何かで読んで記憶に残っているのだが、中島敦という若くして亡くなった作家の言葉、やることがいっぱいある人の人生は短く、やることがない時間を生きる人の人生は長いと。

18歳で世の中にでて、あっという間にこの年齢を迎えている。そのような感慨が私にはある。一方、あっという間ではあったが、ずいぶんいろんな事を、じたばたやってきたのだと、そしてよくぞやれたものだとの感慨にもおそわれる。

誰かがいっていた、いつ何時召されようが、それがその人の運命、寿命であると。ただ長生きすればいいとの側には、私はたちたくはない。これは幻想的願望に近いが、可能ならギリギリまで動く心身を、と敬老の日の朝に想うのである。



2025-09-14

昨日、お昼を猪風来さんよし子さんとご一緒し、その後真庭のkさんを訪ねた日の、翌日の五十鈴川だより。

 昨日9日ぶりに猪風来さん、よし子さんを訪ねた。火急の用事があったわけではないのだが、野焼き祭りまであと一月をきったし、これから本番まで週末の土曜日はとりたてての用事はなくとも行くことにしたのである。

着いたのが11時半、早めの昼食を3人でゆっくりとする。対面すればお自ずと会話が自然に流れる。私の文章力ではお伝えできない悲しさなのだが、縄文末期から渡来人がやってきてからの、日本列島のそこかしこに棲んでいた、つまりは縄文人のあの長きにわたる、土偶や生活土器に象徴される穏やかで豊かな文化が、滅ぼされた。縄文人には所有するという概念がなかった、と。事実に基づいての貴重なお話に私は聞き入った。

(人類が破滅、死滅しかねないせとぎわを、戦後80年、世界は何とか生き延びてはいる。だが明日は、未知である。核弾頭を誇示し会う為政者がひきもきらない。老人の私にはまるで理解が及ばぬことがあまりにも多すぎる。もう十分過ぎるほどに、この惑星は悲鳴を上げているように私にはおもえる。気候変動で命の源、食物が脅かされることがないことを祈る。飢えが一番恐ろしい。

人類の歴史は殺戮の歴史でもある。私がもの心つく頃からも、戦争したがる為政者は一向に減らない。領土を広げ、資源を漁り、口実をつくり、宗教の相違、イデオロギーの相違、大義を掲げ、戦争をいまも繰り広げ、罪のない人まで殺戮し巻き込む。あらゆる命を育む、唯一無二の母なる大地、水の惑星を汚し続ける。命を生む水が汚染される。命はつながっているのに、現代物質文明は暴走を止めない。何故か。

プラスチックの目に見えない分子はめぐりめぐって食物連鎖、全人類の人体にはいりこむ。魚や肉をいただくどのような人間にも入り込む。一人の今を生きる愚かな人間の一人として、愚かな一歩間違ったら取り返しのつかない、この世にだけはしたくない、と、わたしは勝手に考える側にいる。

私は今まで十分に生きることができたが、これからをこそ、しっかりと生きなければならない、すべての人にとっての大切な未来、一番必要な物は食い物と水である。人類が生き延びるための母なるヒントが、あの長い縄文時代を生きた人々の叡知にはあるように想える)

ゆく度に、繰り返し聴いたお話しばかりではなく、新しいお話を聞くことにもなる。それが楽しい。無知な私にはすべてが新鮮なのである。ふだん余計なことには一切口を挟まないよし子さんが、時おり会話に入ってくる。それもまた新鮮である。表裏一体、一心同体の二卵性双生児のようなご夫婦である。

気になっていた観客席作りのことなどもクリアされていた。追加のフライヤーも届いていた。よし子さんが500グラム量れる量計で、てきぱき用意してくれた300枚のフライヤーを預かった。

別れ際、原野さんが10歳の時に書いた貴重な岩手県への旅行記をお借りし、午後一時に猪風来美術館を後にし、その足で真庭の落合に向った。8月のフライヤー配布でパンクした際に大変ご迷惑をかけ、お世話になったkさんを訪ね、一言御礼を伝えたかったからである。

それにしても、あのような奇特なご仁に、災い転じて遇えるとは。世知辛い人の世で浴びた一陣の爽やかな風に私は心から癒された。お家がまた素晴らしい。離れに囲炉裏の空間があり、お茶でのおもてなし。まさにわびさび、賢者とはかくのごとしを実践されている稀人にわたしは助けられたのである。おん年80歳、あのように歳を重ねたいと私は意をつよくした。

バイト先で見つけた10センチ位の幼虫

時間がなく、ゆっくりとお話はかなわなかったが、私が運転出来る間は、年に一一度でもいいからお訪ねし、お顔にあやかりたいと思っている。別れ際、kさんは何と秋の猪風来さんのイベントをご夫婦で申し込んだと私に告げた。

嬉しい。単なる音楽会ではない、猪風来さんご夫婦の心血が込められた祈りの、集大成企画である。kさんご夫婦が来てくださる。動いたからのご褒美である。時間があったので、その足で真庭の農産物直売所と、 もう一ヶ所フライヤーを配布し、五時前に家に戻った。

ps 老成という有難い言葉がある。体が思うように動けなくなってきて、嫌でも死の気配のおとずれを意識するようになってきた。老いないと見えてこない、湧いてこない感覚、感情だとおもう。老醜ではなく老成感を少しでもあやかれるには、といったことを想う。ようやく森羅万象の小さな生物や植物の生態にも見いるようになってきた。

2025-09-13

4ヵ月近く続いた酷暑の夏、肉体労働を持続しながら、乗り切った我が体に感謝する五十鈴川だより。

 5日も五十鈴川だよりを打たないとずいぶん打っていない気がする。すべてなるようにしかならない。五十鈴川は流れるようにしか流れない。泰然自若には程遠いが、わたしもまた自然に流れてゆきたい。(ある日突然五十鈴川だよりが打てなくなるまで)

学ばないと、当たり前、まずい。

今日から3連休である。嬉しい。ようやく朝夕涼しくなり油断はできないがほっとしている。この4ヵ月近く続いた 猛烈な暑さのこの夏を、この年齢で、我が体があの肉体労働をよくぞ乗り切ったくれたものである。古稀を過ぎてからは、毎年一年一年をしっかり生きる、との思いしか私にはない。

さて、今の労働、老いらくのアルバイトを66歳の夏から始めて、この夏の終わりで、まる7年が経った。

昨夜外で夕飯を妻としたのだが、よくこの夏を乗り切ったね、と労いの言葉をもらった。私は春夏秋冬、自分のやり方で任せられているこの労働バイトがことのほか気に入っている。

それは年間通してやることがあり、工夫しながらあれやこれややることが尽きないからである。つまりは面白いのである。だからきっと続いているのだ。

激しいあめのときはやらないが、少々の雨なら、炎天下よりもずっとはかどる。着かえる肌着をたくさん持参して着かえる。着かえた後の気持ち良さはやったものだけが味わえる。つまり、苦あれば楽ありである。何度か打っているが、このよう肉体労働の喜びのような感覚を体得したのはやはり富良野塾である。自分の人生で限界に近いところまで体と心を、青春のおわりに追い込まれ鍛えられた経験が今の私を支えている。

健康に体が動いてくれるからこそなのは言うまでもない。体に感謝。能天気にこのようなことを打てる在りがたさなのだが、夏の労働を乗りこえた(また一つ知恵がついた)ので、これから涼しくなる秋の労働は、きっと楽しい。企画をすることも草刈り他の労働も、限りなく私のなかでは連動している。

草取りを持続するには、スクワット、立ったり座ったり足腰が、老人の我が体の筋力が鍛えられる。いつまでこのバイトが続けられるのかはわからないが、ハッキリとわかっているのは、出来なくなるその日まではやる、ということだけである。

10日も労働をやらないでいると、筋力はよわまる。体は正直である。相撲で言うところの三年先を見据えて、1日1日を怠らない暮らしを、(老いの稽古を持続)臆面もなく打つが古稀を過ぎてからは、なんとか実践している。AIに聞けば、いろんなことを教えてくれるだろうが、教えてもらったことを、実践するのはあくまでも自分の体である。


2025-09-07

キーボード無しで打つ、近づいてきた、10月12日の縄文野焼き祭りに想う、今朝の五十鈴川だより。

 キィーボードをコーヒーで濡らして使えなくしてしまったので、金曜日から3日連続画面に直接打っている。まだ慣れず時間はかかるが、慣れればキーボードは不要になるので、このまま画面に直接打つ訓練を続けることにした。

ところで、同年齢の他の方はいざ知らず、当たり前だが老眼が進み、運転には眼鏡は必要ないのだが、本を読むのには必須である。老眼鏡さえあれば、今のところまったく生活には支障がない。が、確実に眼は衰える。眼だけではなく肉体のあらゆる機能が上向くことはない。冷厳な摂理である。だが、その事への心の配慮はできるだけ先伸ばしにしたい、というのがいまの私の心境である。(現状維持、今日やれたことを明日もやる)


今日、今やれることにのみ集中して(よく休みながら)1日を過ごす、その事にのみ重きを置いて生活することにしか、志行、思考しないように心かけている。

ある日突然のアクシデントが起こるのが、人生の摂理と受けとめ、その時に対処(出来るだけ受け入れる)するためにも、今日を悔いなく生きることが肝要なのだと、我が身にいいきかせる。

話は変わる。この2日10時間近く良く睡眠をとったおかげで、夏の疲労が取れたのか、今朝はすこぶる体が軽く感じられる。日中は今だ暑いが、朝夕はいいくぶんしのぎやすくなってきた。

さて、いよいよ猪風来さんの10月12日の縄文野焼き祭りまで、一月とちょっとに、迫ってきた。

野焼き祭り実行委員会の一人として、無い袖は触れないし、やれることしかやれないのだが、出来るだけやれることをやって当日を迎えたいのだ。来週から、土曜か日曜の1日、毎週末猪風来美術館に行こうと思う。

そのために考えたのだが、五十鈴川だよりを読んでくださっておられる方で、ボランティアしてくださるかたが、(もし一緒に行ってくださる方が)いればありがたい、のである。募りたい。ただそれを思い付いたので打つ。(直接ご連絡いただけると嬉しい)

私ひとりでも行けば、なにがしかの事は出来る。片付け、草刈り、などなど、動けば老人であれ、祭りの一員になれる。私は縄文野焼き祭りに参加し、その一員になりたいのである。うまくは言えないのだが、猪風来さんからのお声かけをいただいてから、いわく言いがたい老いの情動の発露が、猪風来縄文の風が、微風が私の体を吹き抜けるのである。

この爽やかな縄文の風は、これから先の老いゆく我が道程を、照らし導いてくれる確信がある。その事が私を美術館に向かわせる。

ps 縄文野焼き祭りをお祝いすべく、250人の参加を実行委員会の一人として、達成したい。

2025-09-06

4人の孫たちに、私が伝えたいこと、今朝はこのような五十鈴川だよりになってしまいました。

 休日は五十鈴川だよりを打つことから始める、ということがルーティンになってきている。66歳の夏からいまの高齢者バイトを始めてまる7年になる。一言7年、そして昨日も元気に午前中だけとは言え労働ができて、ぐっすり寝て起きて、静かに五十鈴川だよりを打てる、ただそのことに言い様のない喜びを覚える。

そしてこの7年のあいだに、今年の8月5日、私は4人目の孫に恵まれた。もし、私が年金生活のみであったなら、きっとこのような穏やかな高齢者生活は送れていない。そのことに思いをいたすとき、この労働アルバイトに巡り会えた事の幸運に、ただただ感謝するほかはない。

この間の、コロナ禍で世間が騒然としている四年前、次女は最初の子供をまさに命がけで生み、私は初めて大きな手術を短期間に3度も経験した。あの体験がやはり大きい。術後すでに4年がたちすっかり健康である。次女は今年二人め女の子が授かった。長女も2年前二人め女の子を授かった。いろいろな思いが去来する。

術後4年が経つ、70歳で企画を再開、私はもう年齢のことは忘れることにした。命が、体が動き、労働意欲がある間は、企画も続けることに決めたのである。すでに打ったことがあるのだが、年金生活だけでは企画はなせないし、よしんば幾ばくかのお金に恵まれていたとしても、体と心が連動しなければ、企画は生まれない。他の方はいざ知らず、私はそうである。

忌憚なく打つが、あくまでもギリギリのところで、基本、汗をながし稼いだお金で生作費を考える。これが楽しい。したがって高額なギャラが必要なアーティストは企画しない。アーティスト自身も土取さんのように、コマーシャルベースに重きを置かない活動を基本にされている、芸能者や音楽家を自ら探す。

企画者とアーティストは対等関係である。お金を有効に、大切に使うからこそ、必死になれるのである。もっと打てば、必死にならない、なれない企画は私にはできない、面白くない。きわめていい加減、わがままな企画者なのである。

知の巨人から繰り返し学ぶ

40歳で企画をすることになったときに、実現できる目算があったわけでは毛頭なったのだが、実現したらお面白いだろう、というワクワク感だけが私を支えていた。あれから33年の歳月が経ってはいても、いまだかろうじてワクワク感がある。だから企画が成せる。

話は変わるが、私が孫たちに伝えたいことは、ただひとつである。生まれて来たのだから、健康に、一回個っきりの人生、自分がワクワクする時間を見つけて欲しい、ただそれだけである。あくまで自分のリズムで、体が気持ちのいい、没頭できる時間を過ごして欲しい、のだ。

そのためには、お爺である私が、労働であれ、音読であれ、企画であれ、何であれ、できるだけ愉しそうに存在している、お爺でありたいと念願(おも)うのである。

2025-09-05

昨日9月4日、新見市役所で行われた、10月12日の記者会見と実行委員会ミーティングを記録として五十鈴川だよりに打っておく。

本を読むのも体力がいる。

 雨台風が過ぎ去った日の夕刻、寸暇うっている。7月31日、10月12日のフライヤーが出来てから、今日9月5日まで、老人の私にはなにかと多忙な日々が続いている。だがその多忙な日々は、何ものにも代えられないほどの充実感を今を生きるにもたらしている。

さて、昨日は新見市役所で、あさ10時から猪風来美術館20周年記念記念特別企画、秋の縄文野焼き祭りの記者会見がおこなわれた。事実だけを簡略に打っておく。台風の影響もあり、こられているメディアは備北新報と吉備ケーブルテレビの2社、参加したのは猪風来さん、20年野焼きを裏方として支えてきた小林さん、土取さん側から大鹿さん、野焼き祭り実行委員会から大場さんと私が参加した。

猪風来さんが、新見の法曽に来られての20年の歩みの、お礼と感謝の言葉に始まり、20代のおわりから、縄文にとりつかれ、北海道での自給自足での、家族で建てた縦穴式住居での縄文人の心と技を修得する前人未到の、20年の生活含め、おおよそ半世紀、結果、今ようやく自分の縄文造形アート世界への評価が高まり、とくに今年は、開館20周年の節目に、猪風来さんドキュメンタリー映像作品が撮られることも同時進行で進んでいることにも言及、また、先日お亡くなりになった縄文考古学の大家小林達雄先生との交友についてもかたられた。

わずか、一部分をスケッチ擦るにとどめる。そばで、実行委員会の一人として、せつせつ訥々と語る姿を、その壮絶一途な歩みをそばでききいって、感動を新たにした。猪風来さんのお話しの後、おのおのこの稀な企画に参加することになった契機を一言ずつ述べ、記者会見はスムースに予定よりも早くおわった。

その後は、猪風来美術館ではなく、市役所の綺麗な会議室で、各々仕事を抱えながらこの企画に実行委員会として参加しているメンバー、小林さん、大場さん、大鹿さん、Nさん、猪風来さん、私、新見市役所からkさん、Hさん8名で、お昼を挟んで、午後2時時まで有意義なミーティングが行われたことを、記録として五十鈴川だよりに打っておく。

ミーティングを終え、私はよし子さんへの報告をかねて、美術館に立ち寄り、猪風来さんと3人で珈琲たいむ、高齢者ミーティング、いつもよし子さんが珈琲淹れてくださる。この珈琲のおかげで、眠くもならず安全に帰路についている。朝6時過ぎに家を出て、夕刻6時半に家についた。

ps 昨日に続いて佐藤優さんの10年前の本、忘れていることが多いので、新鮮に読める、チビリチビリ、シャクトリムシのように、気分転換の読書が私には必須dある。

2025-09-03

三鷹の下連雀、次女のマンションから西大寺に戻り、夕刻打つ五十鈴川だより。

9月1日夜10時過ぎ東京から我が家に戻り、昨日今日午前中、暑さのなか何とか働き、妻が仕事でなのでお昼を自分で作り(納豆野菜うどん)食べ、お昼寝をして、夕刻、珍しく寸暇五十鈴川だよりを打つ。

次女のところで、岡山での生活とはまったくことなった時間を過ごし、なんというのか時差ボケのような、まだ体のどこかに、あの孫と過ごした時間が濃厚に残っている。が、翌日から2日働いたので、ようよう普段にもどりつつある。

それにしてもいつまでも暑い、8泊9日三鷹の下連雀で過ごしたのだが、東京も暑いとはいえ、次女のマンションが快適だったし、用のないときはほとんどマンションの図書館で過ごし、夜は充分に寝ることが出来たので、事のほか体調がよい。体調が悪かったら、まず五十鈴川だよりを打とうという気にはならない。

東京では持参した3冊の本を、読むことが出来た。いちいち読んだ本のことを書いていない。(写真にアップしているのもあるが)この年齢になっても、本を読まねば、ますます知的好奇心は劣化してゆくとの、思いに駆られる。6月から既に3ヶ月以上の暑さが続いているが、チビリチビリ、本を読むことだけは持続している。

前回、今後は孫たちに読み聞かせるための絵本を探すという、新たな読書意欲が灯ったのも幸運である。五十鈴川だよりを打つことも、草刈りをすることも、音読をすることも、あらゆることに通低(私の場合)するのは、あまり気が進まなくても、とにかく始めるということである。

それくらい、私の体はいい加減である。そのことを私は知っている。何事もやっているうちに、自然に捗ってゆくということを老いつつも我が体は知っている。これは決して自慢話を打っているのではない(そう思われても、もう古稀をすぎているのだからまったくとんちゃくしない)。

18歳から世の中に出て、お金に不自由する暮らし、お金にはまったくといっていいほど、今もだが縁のないない生活をしている私である。だが、なんとか生きている。その秘密はたぶん、おかねが無くても、お金には依存しない、 身の丈に合う、ヤドカリのような、その日が何とはなしに、生活できれば良しとしようってな、くよくよしない能天気さが、私を救ってくれているように思う。

老いるにしたがって、目も耳もよわくなり、そうなると根気も、持続力も今後はすべては下り坂、初めて経験する未知のゾーンを日々生きるしかない。自然の摂理を生きるにしても、私なりの方法の様なものを見つけたいという、いわば一日でも長く前向きの姿勢で在りたいと願うのである。


さて、いきなり話は変わるが、明日は猪風来美術館 20周年記念特別企画、縄文野焼き祭りの記者会見が新見市役所で行われる。私も参加することになっている。この年で初めて経験する未知の記者会見、ちょっと緊張するが、仕方がない。

それもこれもヶセラセラ、猪風来さんと出遭ってしまったからである。猪風来さんは私の老いゆく体に、縄文の新鮮な風を吹き込む稀人である。昨年秋よもやまさかのお電話を頂いてこのようなことに成ろうとは、正直思いもしなかったが、事実は小説よりも奇なりである。


ps 今日の写真は2008年に求めた、この20年近く私が最も読んでいる佐藤優さんの本、新しい本ばかりではなく、繰り返し読んで学ばせて頂いている。無学、無知蒙昧、井の中の蛙を、今も思い知らされる。


2025-09-01

次女のところ、下連雀で打つ8回目の五十鈴川だより。(最後の夜、葉に読んだケチャップマンの絵本で私は気づいた)

 昨日はあれからマンションのすぐそばの稲城の里山を男5人、暑い最中、朝9時15分に家を出て里山散策に出掛けた。汗だくになりながら、小さな藪虫に見舞われながら、葉とノアは時に気弱な声をあげながらも、約一時間の里山歩きを完遂した。周さんがカメラをもって、終始子供たちに声をかけ励まし、レイさんも冷静に子供たちが雀蜂ほかの危険を避けるための声かけも怠ることはなかった。

あの暑さの中の、午前中男だけでの3世代散策、いい思い出となった。里山からは大都市東京が一望に望める。終えて男5人ヤオコーというスーパーにたちより、昼食の買い物をして10階のお部屋にもどる。すでに長女と娘の未彩が帰ってきていた。ミアはパパっ子で一晩離れていただけなのにレイさんにあえて大喜びしていた。私とはずいぶん直接会ってはいなかったものの、リモートではよく顔をあわせていたので、ちょっとはにかんではいたものの、グータッチすると、さりげなく応じてくれた。

周さんが早速ソーメンをゆで、レイさんがテーブルを広げ、長女が加わり3人が、お昼の準備をてきぱきとやり、買ってきたお寿司やお惣菜、冷蔵庫の中の残りの食材で見事な食卓となり、7人での賑やかで楽しい昼食となった。私とレイさんだけが、糖質0のビールをいただいた。娘とミアと共に食事をするのは今回初めてだった。お昼からビールを頂き、私はまたもや、我が家族との、なかんずく孫たちとの食事時間、高齢者おじじは暫し感無量であったことを、臆面もなく打つことを、ご寛恕願いたい。

昼食後、ミア、葉とかくれんぼをして遊ぶ。このようなことを何度繰り返してもミアと葉は飽きずもう一回を繰り返す。マジに遊ぶことはお爺にはしんどいのだが、めったなことではないので、リクエストに応えた。娘やレイさんが声をかけてくれ、ようようお開きとなったが、またもやよき思い出となった。

ノアの2段ベッドで20分ほどお昼寝をし、午後2時過ぎ、周さんと葉と私は長女家族とお別れ(ミアはお昼寝していた)下連雀へ。京王線で千歳烏山へ。そこからバスで下連雀へ帰った。(周さんがお昼寝タイムで、葉が少しグズった。稲城のマンションから、あの暑さのなか、荷物と葉を背負って駅まで歩いた。電車のなかで葉はぐっすりとすぐに寝た)

絵本大好きお爺になりたい(葉ありがとう)

戻って一休みした後、私は娘に頼まれイナゲヤ(稲城やではない)といういつもゆくスーパーに買い物へ。戻ってお風呂をいただき、午後6時すぎいつものように夕食。

夕食は周さんがお好み焼きとスープを作ってくれた。お代わり(結局、1枚と4分の1食べた)をするほど美味しかった。レイさんも周さんも調理をこなす。洗濯掃除ほか育児分担は私などの世代とは、おもいもよらない。確実に女性の負担が減っている。

親として、どことはなしに娘たちが、平凡な幸せを共有しているのを、まの当たりにするのは嬉しい。慎ましさのなかに、お互いが労りああって生活しているのを、わずか一週間ではあれど共有体験出来たことは幸せである。

j上京する度に打っているのだが、老いたら、老いゆくなかで、娘たち家族のお役にたてるということが、一番肝要なのだと思う。あくまでもその上で、老いのなかでの企画というものがなせるのであれば、それに越したことはない、といったスタンスである。

さて、最後の夕食を終え、葉とトランプで7並べなどして遊んで、いよいよお寝むの時間がきた。そこへ娘がお爺が明日岡山に帰るので最後に本を読んでもらったらということになり、本を数冊もって(先日三鷹の図書館で私が選んできた本)いざ読み始めたら、なかなかに葉は集中して聞いてはくれない。

ところがその中のケチャップマンのお話し、鈴木のりたけさんの絵本にだけは持続的に大笑いをやめず、結果は同じ本を繰り返し数回、ときおり即興でのお話しも交え、読み聞かせたところ、結果満足して眠りに落ちてくれたのだが、わたしは何か大切なことを葉から示唆された気分になってしまった。

そのことを、いま縷々説明は不可能に近いが、簡単に言えば、私自身がとても絵本の魅力にはまってしまったということなのである。オーバーに言えば、生まれたばかりの風香、ミア、葉が小学校に上がるまでの時間の読み聞かせに、読み聞かせたいと思える本を、私自身がこれから見つけたいというテーマがみつかったのである。

私が一番好きで、得意な日本語音読、読み聞かせを先ずは自分の孫たちにやりたい、との想いが俄然わいてきたのである。その気付きを与えてくれたのだが、ケチャップマンの絵本であったことを五十鈴川だよりに打っておく。