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2024-12-30

12月29から30日、長女家族と次女が里帰り、寸暇打つ五十鈴川打より。

 昨日午後長女家族と次女が里帰りして、一挙に5人増え、にわかに我が家はお正月モードに突入し、老婦婦生活から一転孫中心の生活へとシフトチェンジした。次女の旦那さんと子供の葉君は明日、我が家へとやって来て共に年を越すことになるが、それまでは兵庫の実家にステイしている。

前の旅でふるさと宇納間神社の階段を登る私
これからお正月まで共に過ごすことになる。すでに昨日の夕食、今朝と2度の食事を済ませたのだが私たちにとっては十分な広さの家が、狭く感じるほどに荷物が何やかにやと増え、6才の望晃と1才の未彩の存在がで家がまるで生き返ったかのような賑やかさである。これで明日周さんと葉君が加わったら、と思うと、きっとてんやわんやの、だがこれこそが我が家のお正月になる。そのことを私は、宿命の福としてありがたく受け止めている。

と、ここまで少しでも記録として、わずかでも打っておきたいのだが、望晃が庭の八朔の収穫をしたいので、お爺も手伝えとというので、暫し中断する。

約20分ほど中断し、八朔を20個暗い収穫した。望晃に剪定ばさみの持ち方を教え枝の切り方を伝えた。もうこれで年齢を重ねるにしたがって、ハサミの使い方がうまくなり、八朔の収穫もますます上手になるだろう。私の願いはたくましい男として成長してほしいということだけである。したがって、東京での都市型ライフと、田舎でしか体験できないことの両方ライフを自在に行き来できる、楽しめる人間になってほしいのだ。だから今朝の八朔の収穫を嬉々として楽しんで収穫していた望晃の姿に、お爺は安堵し嬉しかった。

お墓の掃除をする望晃君

脚立の上でバランスをとるのも、体感訓練んになる。寒い中での八朔の収穫は手がかじかんだりもするし、いずれにせよ寒中での師走の思いでがつかの間できたこと、とてもよかった。お父さんのレイさんも、高いところに実をつけた柚子の収穫を上手にしてくれ、お爺の苦手なことを、しっかりとやってくれ、寒中での男3世代揃い踏みで、柑橘類の収穫の思い出ができたこと、五十鈴川だよりに打っておく。

(さて今日はこれから全員でお墓のお掃除にゆくので、続きは時間を見つけてまた、寸暇打ちたい)

ここからは、30日の朝食後リビングで打っている。そばでは家族の声が飛び交っている。レイさんと孫たちは、寒い中お散歩に出掛けている。娘たちは洗濯物を干したり、畳んだりしている。打っていると皆が帰ってきてとてもではないが、ブログを打つ気分にはならないのだが打つのである。

さて、昨日はあれから、全員でお墓のお掃除に行き、その後は娘たちはお買い物、私はちょっと友人のところに、ちょっと粗品を届けに行ったりして過ごした。お昼は全員🍝スパゲッティ。午後みんなノンビリ過ごし、私は二階の片隅でおひるね.

夕刻、近所をレイさんノア、ミアの4人でお散歩。小さな公園でノアとかくれんぼをしたのだが、柚木のしたに隠れたノアの手に、柚子のとげが刺さり暫し中断、いたかったのだろう涙を流しはしたが、声には出さずに耐えていた。痛みが引いたらあっという間に普段のノアに戻り、再びメルの散歩に私と長女の3人で出掛ける。すれ違いでレイさんとミアもちょっと長めの寒中散歩から戻ってきた。

日がとっぷりと暮れ、私が一番最初にお風呂をいただき、続いてみんな順次お風呂に入りながらそれぞれの役割分担をこなしながら、一緒の空間で家族時間を過ごす。夕食はお鍋なので、妻と長女が忙しくしているので、私も野菜の皮を向いたりして手伝う。夕飯の鍋が完成、みんなで美味しくいただく。夕食後孫たちが次々お風呂に入り、午後7時半ミアはレイさんと就寝。午後八時半、レイさんとノアが長女と共に就寝。孫たちが寝入って、暫し大人の時間をすごし私も10時過ぎには横になった。

さて今日は、10時半には周さんと葉が帰ってくる。間もなく迎えに行くのだが、スケッチ、寸暇我が家の師走家族時間をうつ。

2024-12-24

年の瀬帰省旅、K京ちゃんとの一期一会二人旅、五十鈴川だより2。

 今日は午前中仕事をしてきたので、いくぶん普段の生活に戻ったのだが、帰省旅の続きを打っておきたい。

上野原遺跡の近くから眺めた日没

さて22日土曜日、我が友K京ちゃんは、ぴったりに午後3時に兄の家にやってきた。午前10時に鹿児島の隼人を出て、一般道や高速を走っておおよそ5時間かけてわざわざやって来てくれた。今年の初夏、兄と二人で京ちゃんを訪ねたことで、京ちゃんもわずか一回しかあったことがない兄の家に、一泊泊まりがけで来てくれたのである。その折のことは五十鈴川だよりに書いている。

その時の楽しい思い出がなかったら、このような年に二度もの会瀬は実現しなかったであろう。兄のある種自然体の雰囲気が、京ちゃんも自然体快男児なので、きっとうまがあったのかもしれない。ともあれ京ちゃんは遠路やってきた。冬の日は早く沈む。

挨拶もそこそこに、兄の運転で、門川および日向を駆け足でドライブ。細島の米山頂上から、日向市門川、遠く延岡まで見渡せるところまでゆく。少し雲があったがよき眺めを3人で見ることができた。なんと延岡には虹が雲間から覗いていて、辛うじて記念撮影に収まることができた。日が沈む前、五十鈴川のほとりも案内することができて、私は満足であった。

飫肥の服部屋敷での京ちゃん

戻って隣にすむ姉にも京ちゃんを紹介することができた。京ちゃんは、たくさんのお土産を持参してくれてきていて、姉にもおすそわけをしたら、姉がことのほか喜んでくれたのが私には嬉しかった。友遠方より来る。兄が懐かしい七輪で火を起こし外で手羽を焼く。

外は寒いので充分に火が起こったところで、七輪を家のなかの廊下にいれ、車座になってバーベキュー。

乾杯の後、ひとしきり焼いた手羽や野菜をいただき、バーベキューを終え、椅子とテーブル席で登紀子さんがお刺身その他の家庭料理で京ちゃんをもてなした。京ちゃんはなにもかも美味しい美味しいと頬張り、もてなした兄と登紀子さんも、普段の生活ではお目にかかれないキャラである京さんの来訪を楽しんでいた風であった。

ひとしきり夕食が終わってからも、京ちゃんと登紀子さんが台所で話し込んでいたのには、ちょっと驚いたが、これもまた京さんの人柄だろう。午後10時、私はすっかり眠くなって早々に寝んだが、京ちゃんと兄は遅くまで起きて話していた、(らしい)。事実をだけを順に書いておくだけでも、細部を書きたくなるほどである。

翌22日、最後の朝食は純和風、登紀子さんの納豆お味噌汁海苔他、美味しくいただき、朝9時兄夫婦が見送ってくれるなか、京ちゃんとの二人旅に出発。私の先祖の宇納間の神社を目指す。門川から35キロ五十鈴川を源流に向かって遡ったところである。

狭い蛇行した道をひたすら走った突き当たりに宇納間神社はあり、10時前人っ気は全くなく、私と京ちゃんは正面から300段はある階段を登って、お参りした。そこからの収穫を終えた冬の棚だのご先祖の風景を眺められただけで、もうこれで今回の帰省旅言うことはなし。お墓参りとご先祖の神社参り。言うことなし、新年が迎えられる。

宇納間から日向に出てそこから高速、途中都農辺りのサービスエリアでコーヒーブレイク。一路帰省してもあまりゆくことのない日南市の私の好きな飫肥という城下町を訪ねる。着いたのが午後一時近く、服部屋敷、豪商がすんでいたお屋敷を京ちゃんが見つけたところでランチ。これが大当たり、建物の雰囲気といい、部屋から眺めるお庭の景色が抜群で、まさに日本建築の粋が凝縮したような建物での初老男の再会ランチ。一時を回っていたのですぐに我々二人きりになり、ゆっくりといただいた。デザート、締めの抹茶が格別においしかった。

食後、飫肥城跡を少し散策して、一路志布志を抜け鹿児島へ。上野原の縄文遺跡を駆け足で、京さんの説明を聞き、そこから歩いて夕闇迫る、桜島を望む絶景ポイントへ。日が沈む直前間に合った。錦江湾に浮かぶ桜島はまさに雄大そのもの。火山の爆発の灰で上野原の縄文遺跡は埋まったのだ。人は移動する。旅をする。何故かわからないから旅をして、暫し自分自身と対話を大昔からしてきたのだろう。

旅の締め括り、上野原の縄文遺跡から眺めた桜島の雄大な風景、決して忘れることはないだろう、NavigatorK京ちゃんとの一期一会二人旅、宇納間、飫肥、そして上野原縄文遺跡。書いていると、何か大いなるものかが、ルートを決めてくれたのではないこと思えるほど鮮やかな一日の終わり。冷えたからだを暖める。

夏の旅でも行った岩戸温泉に直行。ここの湯は源泉かけ流しで、なんと400円、すっかり暖まり、京さんの家で荷をおろし、マンションから歩いて3分のところにある、前回もお世話になった京さん行きつけのお店で、最後の夕食。京さんはそのお店で知り合った3人の女性(自分の娘さんたちよりも、年上年下の)たちにも慕われていた。人徳である。なんと12時近くまで楽しい語らい時間をすごし、戻って忽ちのうちに横になった。

この日、昼夜、京さんはおおもてなししてくれた。私はお言葉に甘えた。お互い30代半ば、岐阜県郡上八幡に1984年、桃山晴衣さんと土取利行さんが創った(建てた)芸能堂、立光学舎のワークショップで出会って以来、関係性が続いている希な友人である。(ありがとう、多謝)

2024-12-23

2024年の瀬、帰省旅五十鈴川だより1。

 4泊5日のふるさと帰省旅を終え、帰ってきました。体は家に戻ってきたとはいえ、私は人間、心と体は今だふるさとおよび、友人京ちゃんと土曜朝から日曜日夕刻までの、旅の中の旅のなかで目にした様々な風景が体を包んでいます。が、できる限り、新鮮な打ちに少しでも五十鈴川だよりに記録としての旅の徒然を打っておかねばと思う私です。

お墓の前での兄78歳

19日九時に岡山を発ち、小倉で日豊線に乗り換え、午後2時半日向市駅に着いた。腎臓癌を宣告されたのが丸3年前、しかもステージ4、が兄は、その後もしぶとく生きていて私を迎えに来ていた。お昼がまだだったので、夕飯前ではあったが、懐かしの天領うどん(380円)を軽くいただき兄の家に。いつものように登紀子さんが暖かく迎えてくれた。荷物をおろし着かえ門川の温泉がお休みだったので、延岡まで兄と二人でお湯に浸かりにゆく。戻って義理の姉が用意してくれた手料理での夕食をいつものように美味しくいただく。毎回同じようなことを帰省する度に書いているように思うがご勘弁、いいのである。

次兄が大分の海まで行って釣ってきたというミズイカのお刺身、煮付けが絶品で、これぞふるさとの味、というほかはなく、いつも帰省の度にこのような心尽くしの手料理をいただける我が身の幸運を今回も噛み締める。

翌日、20日金曜日朝食後少しお休みして兄と二人でお墓参りとお墓の掃除にゆく。うちのお墓には屋根がついているので、お部屋のなかを丁寧に掃いてから雑巾で拭いた。お墓の回りのごみもきれいに掃いて一応きれいにはなったのだが、長年の間に少しずつよそから土が流れ込みコンクリートにこびりついていて掃いてもとれない。水道はそばにあるのだがホースが短いので、明日もう一度来てやることにした。戻って姉の家に実っているレモンを収穫、岡山のお土産にいただいたた。お天気が良かったので義理の兄も外に出てきて日を浴び、庭で楽しい雑談ができて私は嬉しかった。

義理の姉のおもてなし

お昼は門川で兄や姉がよく利用しているお寿司屋さんに姉夫婦、兄夫婦私高齢者5人で出掛けた。義理の兄は84才、姉はまもなく81才、もう年齢的に、この面々での外での昼食は貴重なので、私はきちっと写真を撮った。兄夫婦姉夫婦がご馳走してくれた。午後は兄の家でノンビリ持参した本を読む。

夕刻門川の心の杜温泉に兄と行く。温泉から子供の頃よく行った門川湾に浮かぶ乙島の夕日を眺める。寂れ寂れた我がふるさとではあるが、私の人生のすべて、人間がつくったもの以外、自然はかなり手つかずで残っている。だから私は還るのである。夕飯はいつものように登紀子さんのお世話になった。

21日、いいお天気が続いていて、この日も抜群のお天気で風もない。朝食後午前9時過ぎ、門川のK水産にお土産用の干物を買いに行き、そこから岡山の自宅に送った。戻って長靴に履き替え、昨日に続いてお墓に行き、長いホースで水を流しながらデッキブラシや草をこ削ぎ採る道具で土を削り、排水溝に流し込む。兄よりは6才若い私が主に動いたのだが、兄も要所要所をこまめに動いてくれた。

高齢者二人でのお墓掃除、普段から肉体労働に従事している強み、なんなくやれた。業者に頼まずにやれたこと、兄と二人でやれたことが、意味もなく楽しく嬉しかった。お墓を守るのは田舎では長男の仕事である。兄の手伝いをしたので、義理の姉がさりげなく喜んでくれたのも嬉しかった。美味しい手料理を毎回いただいているのだから、これくらいしないとバチが当たる。見違えるほどお墓はきれいになった。これで新しい年が迎えられる。気分さっぱりお墓をあとにした。

お昼前、姉がやって来て暫し兄の家の芝生の庭に椅子を持ち出して日光浴、暫し歓談し、お昼は兄と私の二人で門川の小さな店で、チャンポンを食べた。私はチャンポンが大好きである。午後少しお昼ね。午後3時、鹿児島に仕事で赴任している出会って37年の我が友人K、京ちゃんが、車でわざわざ兄の家まで私に会いに来てくれた。(この続きは次回の五十鈴川だよりで打ちます、本日はこれまで)


2024-12-19

我がふるさとへ還る(帰る)日の朝の、寸暇五十鈴川だより。

 今日から4泊5日、門川に帰る日の朝である。五十鈴川だよりを書きはじめて、折々の帰省旅を徒然打っているはずだから、もうずいぶん毎回打っているはずだとおもうけれど、読み返したことはない。ただ確実に、私も姉兄も確実に年を重ねてはいるから、この数年は縁起が悪くても、悔いのない時間を兄や姉と過ごしたい。

今原文を書写している

昔のように、ふるさとのあちらこちらを訪ねたりということは少なくなってきて、ただお茶をのみ、幼かりしの思い出を語り合ったりすることの方が多くなってきた。その為だけに、心から会いたいとおもう姉や兄の存在、またこのようなことを臆面もなく綴れる自分の能天気さにも、どこか照れてしまうが、もう古稀を十二分に過ぎたお爺さんなのであるから、と自らに言い聞かせる。

たった一度限りの人生なのである。悔いなく人生を、できることなら全うしたい。まっとうにいきるとはとは、どういうことなのか判然としないし、まああまり深くは理解してはいない私だが、物欲にとらわれず、この世で出会えたわずかな(家族を含め)ご縁のあったかたたちと、気持ちのいい時間を過ごす、といったことくらいである。

それとやはりこれは決定的に老いたからこそ深まる、目に見えないものにこそ耳を澄ませられるというような感覚である。養老孟司先生がおっしゃっていたと記憶するが、子供が何故自殺してはいけないのと訊ねたとき、それは君の体は君が創ったものではないからだよ、と答えられていた。

まさに自分がこの世に、何故か五十鈴川のほとりに生を受けたのは、きっとおおいなるもののが、風のように運んで来たからだと、理解しているからなのである。命が授かり、いま何はともあれ穏やかに生き動いて原点帰り、五十鈴川のそばの門川の姉や兄の家に(となり同士)、旅人感覚でお墓参りがてら、帰れる、ということの幸運さを噛み締める。

人は親を選べず、時代も選べない。この世という修羅場にある日突然生を授かる。運気を強くするためには、やはり努力しないと、運気は授からないという厳しさを覚悟した、頃から私の場合、人生が上向いてきたように思える。思えば富良野塾を卒塾した34才頃から、ようやく生きていることが面白くなってきたように思える。

田舎から東京に出て、ふわふわと自信のない人生をおくっていた私が、何とかこの年齢までいきることができたのは、あのふるさとの両親のお陰、姉や兄たちのお陰なのであると、ようやくにして思い知る。孝行したいときには親はなしという。ならば一番上の姉(9才年上)や長男(二人とも北朝鮮からの引き上げ者)が元気な打ちに少しでも孝行を少しでもしておきたいとおもう。

20代、腰の定まらない生き方をしていた私に、姉は当時よくお小遣いをくれたものである。姉のあのおおらかさは、もって生まれた気質。大陸生まれの感性だとおもう。いずれにせよ、年の瀬、姉や兄、義理の姉の顔を見に本能のままに帰る。老いた弟は一時少年に還る。

2024-12-15

体で書写をし、日本語を味合う。友に便りを書き、冬の生活の今を慈しむ五十鈴川だより。

 12月に入って先週から休日の朝、夜明け前の朝食前に、約一時間程度書写を始めている。夏場は早朝の裸足散歩であるが、冬場は今のところ書写である。書写というほどたいしたものではない、と本人は自覚している。まだコロナ以前シェイクスピア作品の音読にかなりのエネルギーを割いていたとき、リア王の長い台詞を書写したのが始まりだから、もう7年前くらいから折々、ぽっと時間が空いたときとか、空虚感が訪れたりしたときに、意味もなく紫式部が源氏物語のなかで詠んだ和歌とか、気に入った台詞とか、つまり日本語に愛着をもつ私は、意味もなくただ書写をして時間を過ごす。これが今現在の労働生活とはまた全く異なる、老い楽冬時間の休日の楽しみなのである。

世の中に出て一番読んでいる作家

70代に入り一年一年をできる限り大切に生きるように心かけてはいる。が、長年身に付いた癖や慣習、また私個人のもって生まれた飽きっぽい性格、面倒くさがり等は、治しようもないとは想うものの、ようやくにして死者の世界への旅立ちを、いやでも真剣に考えておかないと、まずいし、悔いが残るのだけは避けたいという、殊勝な煩悩が新しく湧いてきているからである。

一日は一定、ならばこれまでにすでに経験したり、堪能したことは控え、独り部屋で静かにできる未知のやったことがないことをやりたいのである。私の好きな日本語を手が動くうちにただ書きたいのである。文字は好きな安い万年筆で書いている。

行のように、一行一行の書写、その事がいまとても新鮮で面白いのである。にわか思い付き程度だが、私は真面目に今のところ取り組んでいる。まだ肉体労働生活に重きをおきながらではあるし、来年は土取さん、猪風来さんとの大事な仕事があるので、来年の門松があけるまでのこれから一月の時の間、いわば私にとっての冬眠時間を、有意義に過ごすために必須なのである。

若い頃から、落ち着いてしっかりと学んだりしてこなかったそのつけを、この年齢になって思いしる。少年老いやすく学なり難し、とはいいふるされて、今時そのようなことを、のたまっているご仁などとんとお目にもかからないが、かくゆう私の実感である。ただただ18才からの窮乏生活に追われて、ながらも何とか生きてきて、今ようやく老いて学びたしと念う私である。

だが、天の邪鬼の私は想う、学問、学ぶとはどういうことか、と。学校など出てはいなくても、立派に子供を育て、よいお顔をした私よりもずっとご年配の御老人夫婦などを私は知っている。方や大学をでて本などもたくさん読んでいるのに、人間としての魅力がとんと薄い人など、数多く私は見てきたし、知ってもいる。

私は自分に問う。自分なりに、老いをいかに過ごしたらいいのか、いけないのか。考えることに終わりなし、冬の部屋に差し込む陽射しを背に受けながら、青年は荒野を目指し、きっと老人もまた永遠の荒野を目指す。生まれてきたのだからとぼとぼと、しかし大地を踏みしめ、確実に歩を進められる間を、人それぞれに想い歩むしかない、、、今朝の五十鈴川だよりである。

2024-12-14

来週末からお墓参りがてら小さな旅、ふるさと、門川に帰省ことにしました。そして想う。

 師走も半ばすっかり日の出が遅くなっているが、目が覚めラジオを聴きながら、床から出る時間が5時、まだ暗い。昔若い頃は暗いのが苦手だった。だが今は違う、暗闇のなかでゆっくりと老人は目覚める。そしてゆっくりと一日をはじめる。もうそのような生活を確実に66才からは続けている。古稀を過ぎてからは、自分で言うのもなんだが、一日を慈しんでの生活を心かけている。

旅のお供はこの本である

体を使うパートタイム労働を72才の今も続けている。コロナで人との対話が制限されたときにも、人とは話をしない草を刈ったり、剪定したりり相手が自然であったので、ただただ体を動かしていれば時は過ぎ、人とは話せないが、空を眺め植物を眺め、日々移り変わる四季のなかでの、老い労働を私はひたすら面白がることだけ考えながら過ごしていた。体を動かせる仕事にどれ程身も心も救われたかわからない。

そうこうするうち、コロナは下火となり、今ではほとんどニュースにもならない。ことほどさように、日々生きるのに精一杯、私などもすぐに忘れがちの、まさに老人生活を生きている。あの夏の狂おしいほどの暑さなども、今は冬、実感にはほど遠い。

夜9時以降は、ニュースほかほとんど見ないので、ますます時代、世相、流行、つまりは世間とのずれはいかんともしがたい。がほとんど生きてゆく上でなんの問題もない。新しい情報よりも古い情報、大昔に書かれた本や、昔のことについて書かれた本等を読んでいる時間の方が、今の私にとっては有益かつ新しい。労働し生活し、ほかにもやりたいことがあるので、あっという間に週末がやってくる。主に土曜日曜日に、今週はこのように過ごしていたのだという、生活日録的な徒然を五十鈴川だよりに打つ、といった案配。

話を変える。来週金曜日からお墓参りに帰省することにした。偶さかの充電お墓参り帰省旅をしないと、やはりなにかが落ち着かない。五十鈴川のほとりの寂れた、幼少期の思いでの、自分のすべてとも言ってもいい感性を育んでくれた山里の場と空間に身を浸したい。人工的なものがなにもない自然だけの物言わぬ、五十鈴川のほとりを散策したいだけである。

幼少期をともに過ごした姉や兄との、折々の再会時間も、この数年毎回一期一会悔いなくとの想いでいる。しかし幸い兄も姉も、しぶとく生きていてその事が、私にはかけがえがなく嬉しく喜ばしいことなのである。理屈抜き門川弁で語り合える一時、私は素っ裸になる。

家族は諸悪の根元とか、兄弟は他人の始まりとか、世間には悲惨この上ない家族があまた存在する。が私にとっては幼少期をともに苦楽した、特に上の姉兄は、私が18才から世の中に出て全く別世界を旅した人生とは異なる、門川でほとんどの時間をすごし、いわゆるごく普通の庶民的な人生を全うして現在を穏やかに生活している。私とは対照的な人生ではあったのに、毎回暖かく迎えてくれる。年に数回、安心して帰ってゆく場所、帰れる場所があるということのありがたさは、例えようもない。



2024-12-08

昨日、またもや師走の山里木の葉舞う猪風来美術館を訪ね、再び猪風来さん、タピストリー、絵本作家である奥さまのよし子さんとお話ができました。そして想う。

 6日夜猪風来さんからお電話があり、昨日私の足は、猪風来美術館を目指した。先日かなりの時間話し合ったのに、何故再び猪風来美術館を訪ねたのかを綴るのはうまく言葉を紡げないので割愛する。意味もなく猪風来夫妻に会わねばと、ただ企画者の感が働いたのである。結果、やはり行ってよかったと、つくづく五十鈴川だよりを打ちながら思っている。

猪風来さんは新作に挑んでいる



一言打つなら、スパイラル・アームズのライブを体感したことが、やはり大きく作用したことは間違いない。猪風来さんご夫婦にとっては、様々な念い、(今もだが)人生50年を縄文土器探究とその製作、創作に心血を注いでこられ、新見に移住して20年間の節目の集大成のイベントに、関わるものとして、意味もなくただお会いする。企画を受けるというのは、甚だ非効率な世界に身を置く覚悟が絶対的に、私の場合不可欠である。必要とされるありがたさ、お役に立つ労を惜しむべきではないと考えたからである。

朝8時過ぎ家を出て、給油お昼の巻き寿司を買い、ゆっくりと岡山から賀陽を抜け高梁を抜け、新見にの猪風来美術館に10時過ぎについた。約束をしていなかったので、ご夫婦はいきなり現れた私に驚かれた様子であったが、幸い招かれざる客ではなかったので、暖かく迎えてくれ、それから午後2時半過ぎ、美術館を後にするまで、真剣でかつ楽しい語らいのひとときが持てたことを、五十鈴川だよりに打っておきたい。

今の時代、人間がさしで向かい合い、和気あいあい語り合うなんてことは、ほとんど消えつつあるこの世において、人里離れ自然にだけ抱かれて気持ちよく語り合える人(もう仲間である)がいる。詫びさびの美。すぎゆく世のうつろい、はかなさ、諸行無常を語り合え、しかし希望の土(織物)を失わず縄文土器創りに精魂を込めるご夫婦の姿に、俗界を浮遊する私は、お話を聞きつつ改めてうたれた。

ご子息を亡くされ5年以上の時が流れ、猪風来さんご夫妻はようやく再び新しい地平へと、出発されようとしている。北海道縄文原野に生まれた命の始まり、比類のない原野さんという才能(新しい縄文土器創作、小説、絵、これから大輪の花を咲かせる、根本に縄文精神世界の争わない豊かさを具現できる稀有な才能の持ち主であったのだと、遅まきながら知らされている)

ご子息の念いを形にするべく取り組んでいる新しい作品のレリーフを見せてもらった。姿は見えなくなったが、猪風来さんは原野さんの魂をレリーフに込めておられた。私は何度も氏の気を受けた。その気が私に五十鈴川だよりを打たせる。

世界現代IT人工知能時代、世界のパラダイムが行き詰まっている。あらゆる困難、戦争はじめ出口が見えない。プラスチック、金属、超微粒子水質汚染、生物を含めた全人類の前途はあまりにも険しい。オーバーではなく、ヒタヒタと多くの生物の命の危機が知らず知らずのうちに脅かされているのをどこかで気持ち悪く感じているのは私だけではあるまい。

多くのむこの民は、訳もわからず悲惨この上ない世界へと漂流押しやられる。いったい何故なのか。私は娘や孫をなくしていない。もしも自分が、との想像力を失いたくはない。狂おしいほどの世界の無数の民の慟哭、悲惨、うめき、痛みに無縁な生活を、今も送れている。だからこそ、見えない世界への想像力を磨かないと。明日はなんびとたりと我が身である、との不安が私を襲う。

私は土取さんを界して、本質的に猪風来さんに出会ってしまったようにおもう。お会いする度に何か縄文的な感覚が私を心地よくさせてくださる。それは常に自然、大いなるものにだけ感覚が開かれ、駆け引きの人間社会の闇から遠い地平で呼吸されているからなのだとおもう。私の霊的な感覚にはほど遠いとの自己認識が覆され、幼少の頃の原初記憶が呼び覚まされる。経済原理主義に汚染される前の世界。なにもないのではなく、すべてはあったのだと。

おそらくこの感覚が、土取さんと、猪風来さんと、僭越を承知で結びつけている、というような気が最近する。縄文の音世界、縄文の土器世界、未来への希望である。土取さんのスパイラル・アームズ、土取さんと猪風来さんのコラボレーション、この大きな企画に関われる幸運、なんとしても実現したい。

2024-12-07

6日前の12月1日夜、名古屋のライブハウス徳三でおこなわれた、【土取利行&スパイラル・アームズ】のライブに想う。

 12月1日午後6時から名古屋のライブハウス徳三でおこなわれた土取利行&スパイラル・アームズのライブを体感して帰ってきて、体が、感動が新鮮なうちにわずかでも、記録としてきちんと打っておきたい、と思いつつ6日もたってしまった。

土取さんとの出会いから、たぶんこれまでの交遊年月46年間を想えば、ピーター・ブルックの舞台での音楽や、ソロライブ、ミルフォード・グレイブズとのコラボ、エリック・マリアとのコラボ、古武道とのコラコラボ、等ずいぶん体感し聴いてきた。

夢が原で私が企画した韓国の舞踊家、金梅子(キムメジャ)さんとのコラボ、同じ韓国のヴァン・スンファンプンムルダン(サムルノリ)とのコラボ、また添田唖蟬坊・知道の明治大正演歌、もう書かないが、ほかにレクチャートークも企画してしてきた。 だが、私があの夜体感した、土取利行&スパイラル・アームズのライブは、なんといっていいのか、今も言葉にならない、が何か打っておかねば。

これまでの土取さんの歩み(おおよそ55年)が、主にアジア、韓国、南インドやア西フリカの打楽器で、(多岐にわたり挑戦し続けて体得した異文化のその国の歴史を背景に存在する、文化遺産ともいえる打楽器の数々)演奏された。 現在、日本の音への探究が言葉となって溢れ、何故今パーカッショントリオ、スパイラル・アームズを20年ぶりに結成したのかにも言及された。のだが、だが、あの夜のライブの衝撃体験を言葉で記すのは私には到底不可能である。(だがわずかでも、五十鈴川だよりに遺しておきたい)

旅立ちは、フリージャズ、20代はじめニューヨークにわたってからの50数年の歩みが、演奏とともに、言葉でもって語られる。常識をぶち破る空前絶後のライブを、私は目撃体感した。土取さんの時に命をも顧みず、あの時代に異文化、アフリカ、インド、中近東の国々に飛び込み体得した未知の国の太鼓との出会い。武者修行、熱い思い出が奔流となって語られる。(終演後、ニューヨークに渡ってわずか3ヶ月の間に、生涯続いたミルフォード・グレイブズやピーター・ブルックほか、との奇跡的出会いが語られた) 私は土取さんのお話を聴きながら、自分のなかに湧いてくる言い知れぬ思いを押さえることができなかった。普通の一生活者として、今も限りなく学び、痩せた企画者として、時に折々背負いきれない思いも抱えながら、企画が続けられたことの幸運、我が人生に想いを巡らせ、今更ながらこのようにすごい真の意味でのアーティストであったのだという、唯一無二、前人未到の荒野を(未だ)黙々と歩む存在の神々しさに感銘を受けたのである。 一期一会のライブを体感できたことの幸運を、(この年齢だからこそ感じた、老いたなんて言っていられない)ただ五十鈴川だよりに打ちたいのである。

震撼するという言葉がある。雷に打たれるという言葉もある。年齢を超越するという言葉もある。まさに12月1日のライブは、そのような言葉がピッタリとでも言うしかない空前絶後のライブだった。老いるということを根底から覆すライブ、全身全霊、土取さんは輝いていた。 土取さんのドラミング、最後の久方ぶりのドラムセットでの演奏姿には、目頭が熱くなった。(悩み多き青春時代を生きていたある日、初めて土取さんのソロのドラミングを聴いた日の感動、からだと心の奥深くが揺さぶられた体験が甦った。若い私には衝撃的としか言えない、ドラミングの常識を打ち破る、パーカッションだったからである。私に限りない勇気を与えてくれたドラミングだった。遅まきながら私も世界に飛び出した) 未だ燃え盛る、老いつつも老いない、老いられない、何かが土取さんを突き動かしている姿を、私は眼底にしっかりと焼き付けた。なにゆえこのようなアーティストが生まれたのか。

お話も含め休憩なし、午後6時過ぎに始まり2時間半のライブ、メンバーの紹介が終わって、土取さんは再び語りはじめた。終わらないライブ。結局、新幹線に間にあわなくなるので、最後まで土取さんお話を聞くことが叶わず9時15分ライブハウスを後にし岡山までは戻れたものの、赤穂線最終には間に合わず、タクシーで我が家についたのが午前0時。タクシーで我が家についた。

PS 11月13日高松、14日岡山での打ち合わせの際に、来年春の企画、スパイラル・アームズのライブが2月1日名古屋であるとのことで、私はとにかく行ってきた。行って本当によかった。その日から今日まで、ただ私は生活労働者になり働いていたのだが、頭のなかではスパイラル・アームズのあの夜のライブが、渦を巻いて繰り返されている。10代、20代の若いかたに一人でも多く足を運んでもらいたい。そして老いてなお生きのいい方たちにも足を運んでほしい。そのための何ができるのか、何をしたらいいのか、師走じっくりと考える時間を大切にしたい。

2024-12-01

昨日、吉永町の八塔寺ふるさと村まで妻とドライブ、そして想う、12月最初の五十鈴川だより。

 今日から師走、月が変わる昨日今日と連続して五十鈴川だよりを打つのは珍しい。どんな日も一日には変わりはなし、24時間の、悠久の永遠の一日を人間は生きる。そのような極めて当たり前のことを、極めて個人的な徒然なる想いを、ただ記録的に打っておきたい。

お蕎麦やさんの紅葉が見事だった

昨日、妻と二人で吉永町の八塔寺ふるさと村まで、忙中閑ありドライブした。ほとんどは日帰り近場でのドライブ小さな旅なのだが、今年は今までの人生でもっとも二人だけで出掛けている。土日に仕事が多い妻とは、なかなか一緒に過ごす時間がとれないのだ。お互いに適度な距離感をもって過ごし、我々はその事を大切にしている。

が、海を見に行ったり、お花を愛でたり、歩いて散策したり、庭仕事、ストーブの薪作り、DVDを観たり等々、ともに共通して好きなこともかなりある。妻はまだ高齢者ではないが、ようやっと、枯れつつの老い楽時間を共有、過ごしている。それもこれも、お互い健康であるがゆえの晩節夫婦時間である。

さて話を戻すが、お互い人混みのなかは苦手なので、何度か二人で訪れている、私の好きな八塔寺ふるさと村に行ってきた。家を出たのが10時半過ぎ、戻ってきたのが午後2時、ちょうどいい加減の、小さな夫婦旅ができたことを打てばもうよしなのである。

だけどもう少し打つ。家を出て吉井川を遡り、和気町へ。そこから佐伯町の山間を走り12時前についた。その間わずかな車に偶さかすれ違うくらい。紅葉もほとんど盛りを過ぎて、山間部は道路に散り行く多種類の木の葉が舞い、物悲しいがこの風情がたまらない。万物は流転する。一時宇宙の地球で授かった恵みを生きる。私好みの絶好のドライブを堪能ができた。

できたのはいいのだが、着いたらお昼、以前やっていた観光施設が閉じていて無人、お昼をここですまそうと思っていたので宛が外れ、空腹を我慢して備前の方に帰ろうかと思ったのだが、草を刈っていた村人に尋ねると一軒のお蕎麦やさんがありやっていると教えてくれた。

たどり着き、中にはいると薪ストーブが赤々と燃えていてた。妻も私も一気に来てよかったと安堵、人心地ついた。窓からはほぼ最後といっていい鮮やかな紅葉が望め言うことなし、その上鴨南蛮やおこわのご飯がとても美味しく、手頃な庶民的値段で大満足した。

ふるさと村は、我が家のような平地とはやはり比較にならないほど肌寒く、くつろげる薪ストーブの暖かい空間から、紅葉を愛でながらの昼食、慎ましくも静かで幸福感が全身に満ちた。よき休日となった。

家に戻って少し横になり暫し本を読んで過ごす。夕刻我が家の薪ストーブに灯をともす。夫婦二人での夕食も娘たちが巣立ち、10年近くなる。