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2023-04-01

妻と近所にお花見に出掛けた、4月1日の夕刻に想う。

 4月1日である。汗ばむほどの陽気のなか、曹源寺に垂れ桜を見に行き、妻の友人がやっているお弁当屋さんで、二種類のお弁当を買い場所を移動、家の近くの誰もいない神社の境内で何本かの桜の花が散り舞うなか、たった二人でお花見しながら昼食を済ませた。犬のメルも一緒に。土日妻は仕事が多いのだが、今日はお休みだったので、忙中閑ありよき時間を過ごすことができた。

つまが育てたクリスマスローズ

今月は多嘉良カナさんの公演が控えている。3月はまさにあっという間に過ぎていった。なにしろ午前中、平日はほとんど働いているし、午後はポスター配布を連日こなしていたし、どうしても行きたい展覧会があって上京したり、もどっても午後は友人知人にお便りを書いたりと、時間のかかることばかりやっていたので、妻とのゆったりとした時間が持てずにいたので、わたしにとってはまさに慈雨のような一日となった。

生活第一主義の私としては、そのなかで発酵するかのように自然に生まれてくる企画をあくまでやりたい。直接の関与がなくても家族が応援してくれないような企画は絶対にやりたくはないし、わたしの場合やれないのである。あくまで家族第一、バランスをはかりながらことを進めている。だから、以前も書いたことだが、家族になにか事変が生じたら即中断か止める。

今日は本当にほぼ一日妻と過ごすことができ、家の玄関の繁った、しまとねりこの枝を切ったりなど、家の事ごとができて、これでまた4月23日に向かうことができる。五月には長女に二人目の子供が授かり生まれてくる予定だ。家族は刻一刻変容。だから素晴らしい、日々未知とのであい、日々が新しい、今日も明日は過去であるとは誰かの言葉。今を生きるしかないのは摂理である。

妻と一日を共にしながら、いろんな話ができたことのありがたさを記せれば、もうほとんど打つこともないのだが、これからの人生、普段の日々の妻との時間をこそ、もっとも大切に生きねばならない、という殊勝な気持ちは古稀を過ぎますます強まってきている。

その事をつまびらかに記すのは野暮なのではあるが、臆面もなく打つ。私が企画が打てるのは、妻の存在があるからこそ成立するのである。40才から企画者を定年まで続けられ、今もまた10年ぶりに昨年から再開できているのは、妻のバックアップ、応援のお陰なのである。

その事を繰り返すもきちんと打っておきたい。かけがえがないという言葉があるが、わたしにとっての妻はそういう人なのである。走るわたしの手綱をさばくのが彼女の存在である。だからわたしは企画はするが、方法他かなりの点で彼女に相談する。かなり的確に指摘してくれるので、進めるのである。

相棒という言葉があるが、わが連れ合いは老いるにしたがって、ますます相棒の度を深めている。特に昨年の企画は彼女の応援存在がなければ実現しなかったろう。それと娘たち家族の。

とりとめなき一文になるが、親として娘たちが成長し、娘の子供、わたしにとっての孫の存在の大きさは現在のわたしにとって計り知れない。孫たちの存在、家族の存在がわたしに企画を打たせている(のだ)。

平和の在りがたさ、今在ることのへの限りなき感謝、平凡の極み、今年も妻と桜を愛でられた事への嬉しさを打って、今日の五十鈴川だよりを終える。


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