今日の午後多嘉良カナさんが(スタッフ含め3名)岡山にやって来る。2月からほぼ今日まで、心の片隅に明日の多嘉良カナさんの公演のことがあった。
時代とのずれを自覚する企画者ではあるが、私なりにやれることはやったという、自己肯定感がある。
抽象的で唯我独尊的な企画が(企画が多岐にわたっていて節操がない)私には多い。世にあまねく知られていなくても、まばゆいほどの存在感で私を圧倒する多嘉良カナさん、がやって来る。この悦びを説明するのは、野暮である。実現すればいいのである。
チラシに書いた拙文は抽象的でわかりにくいかもしれないが、すーっと書いた一文に私なりのわがままな思いは込められている。
40才で企画者として出発した私である。自己弁護するわけではないのだが、誤解を恐れずに(されてもまったく構わない)言えば、チラシに書いたのではあるが、補足すると、私が企画を決断するときに、一番自分に問うのは実現すること、そして決断したら責任をとることである。明日の本番が無事に終わるまでは、企画者はほっとできない。
だが、一応ここまでこぎ着けたことに、正直ほっとはしている。仕事ではなく、今現在の私の心が揺さぶられたアーティストを企画しているだけなのである。そのようなことがわが人生で許され、明日実現するのだから、私の老いつつある血が未だ騒ぐのもむべなるかなである。これこそが生きている証しである。
カナさんのために妻がいけた花 |
私の場合、ワクワクしなかったら企画は成立しない。それは若い頃とはことなる地に足がついたワクワク感である。私は年寄りミーハーなのである。企画は理屈ではない。(これ以上は野暮だから打たない)
そういう意味で非常に贅沢な個人的な企画が、たまたま2年連続して能楽堂ホールで実現するなどとはまったく思いもしなかった。真実、人生先のことはわからない。そのことがしみてわかる、未来は自分の足で拓いてゆくことここそが面白いのである。
やがては歩けなくなる。だが今は歩ける。その事を刻む。それがわたしの企画である。
多嘉良カナさんを、天神9能楽堂ホールで企画できるだけで、眠っていた老いの花が咲くように思え、自己肯定的に嬉しいのである。
後は、今回の企画を(家族を含め)応援支援してくださるかたがた、そして当日足を運んでくださる方々がよろこんでよろこんでくだされば私としては企画者冥利という他はない。
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