昨日午後4時近く、多嘉良さんが無事に岡山後楽ホテルについた。わが兄もお昼過ぎついたので迎えに行き、共に昼食し我が家に一旦帰って、再び岡山へ。多嘉良さんと半年ぶりに再会した。
ステージで多嘉良さんをサポートするHさん、(とは初めてお会いし)そして多嘉良カナさんの世界をもっともよく理解し、共に異次元の世界を創造するアートdirector、(とでも呼ぶしか、いまは伝えられない)Tさんとも半年ぶりに再会した。
このかたの真の意味でのパトロン的な視野の広さを、昨夜の語らいで私は再認識した。その事の悦びもまたきちんと打っておきたい。私などにはない芸術家的な感性が多嘉良カナさんのそばにいる、その事の有り難さを昨夜はっきりと私は認識した、のだ。
今朝の我が家の撫子 |
その事を打てば今朝の五十鈴川だよりはもう他に打つことはないのだが、訳のわからぬ嬉しさが五十鈴川だよりを打たせる。今日多嘉良カナさんのステージを目の当たりにできる悦びが。
昨夜、ホテルの近くで再会夕食をしたのだが、何せ那覇でわずかな時間しかお会いしたことがないにもかかわらず、話が途切れることがなく、2時間が瞬く間にすぎた。今回、カナさん、Tさんの岡山公演のために創作された作品に籠められた、情熱のほとばしりがびんびん伝わってきて、それゆえに今日のステージが楽しみでならない、のだ。
昨日も書いたが、臆面もなく打とう。世阿弥言うところの老いの花、というのはいかなることを言っているのか、ぼんくらの私には判然とはわからない。
それでもそれが如何様な未知の世界であるのを知る、わかるためには、花を咲かせようとする愚直なまでの、歩みは鈍くよたよたではあっても、地道に歩くより他には、老いの花は見つからない、というのが今のところの私の想いである。結果、見つからなくなくても、咲かせようとするなにかがなにかを生むのかもと、想うのである。
そういう意味で、昨夜飲み食べ語り合うなかで、私の胸を去来したのは、無謀とも思える企画を思い付いて本当によかったとの念である。
今日は午前9時杉から天神9でリハーサルがあり、11時にはボランティアスタッフも集合する。会場作りや受け付け作業を済ませ、お客様を迎える。午後3時半には公演が終わる。
本番当日のあさ、五十鈴川だよりを打っている場合ではないのだが、なんともよい天気に恵まれて、多嘉良カナさんの公演が実現することへの悦びをきちんとうっておきたい。
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