週に少なくとも一度は五十鈴川だよりを打てることは、精神的ビタミンを自らの体に注入するかのようで嬉しい。
気まま、自由自在、でいられることのなんという在りがたさを、今朝も噛み締めている。起きて3時間が過ぎている。すでに朝一番にやりたいことを済ませ、五十鈴川だよりが打てる一時が慎ましくも幸せなわたしである。
この年齢になると、スッキリと朝目覚められるのがこんなにもありがたい、事なのだと知るのは、この年齢を迎える事ができたからこそわかる。ほぼ6時間一度も起きず熟睡した体は元気である。
再び自転車に乗り今を味わう春 |
昨日夕方、雨上がりの公園散歩に出掛けた。69才ではじめての大きな手術をし、退院したのち始めたことのひとつに、春と秋の裸足散歩があるのだが、昨日久しぶりに運動公園の水のたまった運動場を歩いた。ピチピチチャップチャップ、わずか20分くらいの時間ではあったが、足の裏がじんじん、大地マッサージをした。濡れて土で汚れた足をきれいに洗い拭いて靴下を履いた後の爽快感がたまらなくいい。毛細血管が刺激されじんじんして、生きている実感がする。
わたしはこの年まで、健康食品とかサプリメントとかを飲んだ事がない。この先はわからないが、ごく普段の普通の食事で退院後のこの2年間、ことさらな不都合もなく、元気に肉体労働バイトも今のところとりたてて問題なくこなせている。何よりも企画が打てている。ありがたいことだと、天を仰いで感謝するばかりである。
ところで61才でシェイクスピアの音読塾を立ち上げ、コロナの不可抗力でやむなく閉塾したが、71才を迎え、これから想うことのひとつは、あくまで自由自在にどこ吹く風のように、気ままに生きたいということに尽きるような気がする。
こだわりのような感覚を捨ててゆきたいという気持ちが強くなってきた。誤解されても構わないがシェイクスピア作品の数々を根底に、他の作家の作品も時間の許す限りてにしたりしながら、この世に生を受けた喜びのあらんかぎりを慈しめるような生き方をこそ、人間を含めた森羅万象から学びながら、謙虚に存在できれば、もういうこともなしなのである。
ってなことでいきなり話が飛ぶが、今年37年ぶりに東京で買った自転車を修理し、ポスター配布でのったのだが、それで改めて自転車に乗れるわが体と自転車の魅力を再っ発見し、バイト先まで往復(片道ゆっくり走り40分)雨の日以外できるだけ乗ろうかと今思案中なのである。
すでに4回ほど往復したのだが、手応えをつかんでいる。真冬や真夏は控えても4月5月は風景の移り変わりが十分に楽しめそうで、何やら嬉しいのだ。それもこれもなにもかも、体の健やかさの賜物と考えれば、宝はわが体にこそ在る。わが体なくして世界はないのである。
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