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2021-05-31

石川九楊著 【縦に書け】16年ぶりに再読する。そして想う。

 書家として知られる、石川九楊先生の本を読んだのは、もう16年も前のことである。私が53歳の時である。

まだ働いていて、インターネットでブロブでどうしても囲炉裏通信を書きたく、そのためにパソコンにキィを 打ち込むために、やむに已まれぬ絶対矛盾的な思いを(キィで文字を書くことに抵抗を覚えつつ)抱えながら生活していたころのことである。

あれから、16年といえばもうふた昔以上、現在世界は石川九楊先生が御著書で憂いていた、警鐘を鳴らしていたことが、まったくもって現実となっているように思われる。

私の周りでは家族を含め(姉と兄はいまだ縦書きでほっとする)もうほとんどが横書きである。私は大事な家族や大事な人には、自筆縦書きとメールを併用しているが、ここ一番は肉筆である。大事なことは目を見て直に話し、直に書く。でないと取り返しのつかないことが起こる。(すでに起こっている)

もし、石川九楊先生の御本を手にしなかったら、安きに流されやすい私としては、とうの昔にデジタルの渦に巻き込まれ、オーバーではなく機械で打つ文章と、肉筆での文章とのあまりの違いを、体感、自覚することは叶わなかったかもしれない。

詳しくは是非、石川九楊先生の御本を読んでいただきたいのだが。日本語が何故に縦に書かれなければならないのかが、縦に書くことでしか成り立ちえない得ない日本語の歴史的な特質が実にわかりやすく、説かれていて目からうろこが落ちる。

書家として(先生は体全部で凄い作品をまさにひっかいている)実践書いておられるるので説得力は半端ではない。こういう方は殆どテレビにはお出にならない。品がいいのである。こういう日本人が存在していることは、先にお亡くなりになった中村哲先生同様日本人として誇りである。

ところで、いまやすっかり五十鈴川だよりも、書いているのではなく、打つだよりと化してしまったが、内心どうにもならない絶対矛盾を抱えながら、デジタルにあえて肉筆的なたより、のようなおもいを籠められないものかとの淡い幻想に(記録的に)しがみつくのは、まだ私が生きて、もがいているからだと思える。(思うことにしている)

心のうちでは、まったく石川九楊先生のおっしゃる通りだと思える。(関心のある方は先生の本をぜひ手にして読んでほしい)私自身つたなくも日本語にどこかでしがみつきながら日々の揺れる感情を思索しながら言葉を探すのである。

話を変えるが、昨日本当に久方ぶりに硯をすり、とある方にお便りを毛筆で書いた。機械を通して打つたよりと、手書き毛筆での書き直しがきかない、一期一会のたよりとでは、まったく異なるとの思いをあらためて、深く深く納得したのである。

これからの人生時間、私は大切な家族や友人知人とのやり取りのここ一番は、直にわが肉体を通して書くことに決めた。書を楽しみたいのである。日本語に体を浸したい。日本語で身体を清めたいのである。毛筆肉筆で書くことは、畑での労働と同じように(石川先生は、書くことは、自分の体を書くこと、耕すことだと同じだとおっしゃっている)全身を使う。墨をすり、筆圧を感じながら拙文を綴るいっときは、まったくキィを打つのとは異なる。

肉体から肉体にテレパシーを送るのには、血の通いを伝えるには、どうすれば。この歳になって今更ながらのように、昔の方々が書いた、一期一会の書に触れて現在の老いつつある体に、血を通わせたいと想うのである。

2021-05-29

【若松英輔著 霧の彼方 須賀敦子】ようやく読み終えた朝に想う。

 二階の私の部屋の机の前のガラス窓から、梅雨の晴れ間の青空が広がっている。先ほど起きてすぐ新聞を取りに行ったら、欠けつつも、まだまあるい残月が西の空に浮かんでいて、ひんやりとした朝の冷気で深呼吸し、しばし月を眺めた。

さて、今日明日は肉体労働はお休み、雨でも休むから、梅雨の時節はとくに午前中、集中していろんなことができる。集中して体を動かすことも好きだが、集中、じっとして 読んだり、書いたりすることもまた同じように好きである。

私の中では同じこと、つながっていて往復運動をしているような按配なのである。どちらも私にとっては必須アイテムである。

さて、【若松英輔英輔著 霧の彼方 須賀敦子】全470ページをおおよそひと月、ほかの本も併読しながら、読み終えた。

数年前、須賀敦子さん(と気軽に書かせていただく)の本をはじめて読んで(地図のない旅とトリエステの坂道)私はこの稀な生き方をされた作家の存在を、強烈に認識し、知った。

世代も、生れ落ちた(須賀さんは1929年芦屋のお生まれ、敗戦の時16歳である)環境も、性差も異なるのに、何故惹かれたのかは、今はまだよくはわからない。

数ページ読んで、独特の感性と知性の輝き、余人が感じえないかのような世界を鋭敏に察知して、それをわかりやすい、読みやすい言葉で推敲され、普通の人間の存在の奥深さを深く見つめる、珠玉の文体に魅了されたのである。

だから、【若松英輔氏の評伝 霧の彼方 須賀敦子 】を図書館で見つけた時はことのほかに嬉しく、借りるのを延長して、ゆっくりと全25章を読み終えた。

あきらかに、手術後であったがために、読書の質が私の中でいい方向に変容し、一日に一章ずつといった感じで、目で舐めるように毎朝ゆっくりとよみすすんだ。

丁寧に真摯にというほかはないほどに時間をかけて、まるで寄り添うように、呼応するかのように書かれた 評伝を、あだやおろそかに読めるはずもない。読み終えたばかりで、うかつな感想など書けるはずもない。

ただこの評伝を読んだおかげで、おそらくこれからの人生時間の中で、須賀敦子さんの書かれた、遺された著作を繰り返し読むことになるだろうということを五十鈴川だよりにしっかりと書いておきたい。

 

 


 


2021-05-28

朧月夜の明かりで目覚めた夜明け前の朝に想う。

 M新聞を購読するきっかけは、書評欄が充実していて私の好きな作家や、本を読んだことのある方の多くが書評されていたからである。

毎週毎週出版される、魅力的な本の書評を、すべてではないが感じ入った一文を切り抜いて、ノートに張り付け、熟読するのを趣味のようにしてきて20年近くなる。大きさの違うノートの数はすでに数十冊になる。

何度かもう切り抜くのはやめようと思っているのだが、いまだに続いている。ただいえることは、 切り抜いて貼るという行為はそろそろ終わりにしようとは思っている。

書評以外の、気になった記事などをも随分切り抜いては、ノートに貼りつけてきた。アフガニスタンでお亡くなりになった中村哲先生に関する記事などは、目にしたら必ず切り抜いてきた。

私は飽きっぽく移り気な自分の性格の弱点を自覚している。そのような自分を、どこか変えたいという思春期からのおもいは、この歳になっても、いい意味でのトラウマのように消えず、そのことがどこかで、書評他の気になった記事を切り抜くという営為を続けさせているのでは、と自分では思うのである。

でもまあ、ひとりで手軽にできお金も不要、その営為が面白く愉しいから持続できているだけで、ほかにことさらな理由はない。 

未知の言葉、未知識を知ることは、理屈抜きで楽しく面白いのである。脳が刺激され何かが分泌されるような快感が伴うのである。脳が喜ばないことはノーである。たぶんおのおの各自脳が喜ぶことを見つけて日々を生きておられるのだと思う。

私の場合も同じ。世の中に出て経済的につらい経験を数多くしてきた私は、書物によって随分と助けられてきたし、(幻想、希望が持てた)それは今もまったく変わらない。思春期まで書物の持つ豊饒な歴史の哲学をまったくといっていいほど知らずに、無知丸出しで生きてきた悔恨がいまだに消えないのである。

だが、ようやく最近その悔恨が消えないまでもうまく言えないが、うすまってつつあるのを感じるのである。以前は何か俗に知識人といわれる(有識者とか)インテリ、書物を著わしたりする学者や文学者、芸術家に対して、どこか羨望的な気持ちを抱いていたのが、なくなってきたのである。いい意味で老いてきたのだと思う。じたばたしつつ老いををうけいれたいのである。

うまく言えないので、これ以上文字化しないが、恐ろしいまでに変容してゆく、(宇宙までも視野に入れつつ、競争破壊を繰り返す人類)現代社会を生きている全地球上の弱者の存在 が、すべて輝かしく、生きて存在しているだけですごいと、だんだん思えるようになってきたのである。福沢諭吉ではないが、この世に、上下はない。(恐ろしいヒトがいるだけである)

ただ現実生活の中で、自分にとって素晴らしいと思える人に出会うことはよほどのことがない限り少ない。私の場合、書物と出合わなかったらアクションを起こして、会いたいとか、行きたいとか、見たいとか、聞きたいとか、食いたいとか、触れたいとか、着たいとか、あらゆるヒトだけが持てる自分の本能的な欲望には火が灯らなかっただろう。

だが、これからは肉体の灯を、いい方向に消してゆくための、新たな言霊探しの読書を始めたいと念う私である。

 





2021-05-27

無所属個人として、晴耕雨読、ふともの想う朝

 雨が落ちたら肉体労働はお休み。このシンプルさがたまらなくいい。加齢と共に五感を含めた身体機能は低下するのが当たり前である。だが私はまだ動けるし、綴ることで思考する。術後退院して2カ月が過ぎ以前とまでは言えないにしても、日常生活に関してはまったく支障がなくなってきた。

労働のおかげで下半身はかなり安定したのだが、右腕の下の手術傷を 無意識に庇い、上半身を無理に動かすのは極力控えていた、だが2週間前くらいから思い切って巻き藁稽古で両腕を引き分ける所作(けっこう勇気がいった)を少しずつ始めたところ、気持ち筋力がついてきた、のがわかる。

事程左様に、身体あっての精神、精神あっての躰なのだということを、今更ながらのありがたみを覚えながら、五十鈴川だよりを綴っている。

動く、動けるということの素晴らしさ、何も遠くまで出かけることが動くということではない。狭い行動範囲の中でも、充実して動くことの、意識が働くことの喜びのような感覚を、術後はっきりと私は自覚するようになってきたのである。

もう十分に若くはない私は、あちらこちら出かけなくても手の届く自粛生活の範囲で、(孫に会えないのは辛いが)体と精神の自由と少々のお金(書物と食い物)があれば、十分に今を生きられるのである。

晴耕雨読という言葉があるが、今日は本を読んで【いま私は若松英輔著 霧の彼方 須賀敦子 という本を読んでいる】過ごそうとおもう。

人間の集中力は2時間程度と、物の本で知ったのだが、疲れたら休んでほかのことをする。五月雨の中の散歩もまたいとおかしである。若いころには若いころにしかできないことがあり、今は今でしかできない、味わえないことがあるのだと知る。人生の季節ごとの喜びを、自然の神はきちんと用意してくださっておられるのだと、術後とみに感じるのである。要は見つける勇気を、持てるか持てないか。

話を変える。飢えたら人間は鬼畜化する。ヒトは置かれた状況で変化する。しないと生きてゆけない。誤解を恐れずに書けば、飢えてさえいなければ、いまの私にとっては 非常事態は限りなく遠い。

どこかのいまだたくさんある他国の、あまりの貧困や偏見、差別、不公平(わが国でもだが)理不尽、不条理、そのような世界を知りつつ数十年、初老男として忸怩たるものがある。沈黙は加害者の側との言説もある。

先日NHKスペシャルで、ビジョンハッカー、デジタルZ世代のユニークな希望の持てる取り組みを見た。旧来の発想とは異なり見返りを求めない、ヒトとしての良心をもったデジタルZ世代の登場は老いつつある私にも希望を抱かせる。私も、たった一人だと思わず発言しなくては、孫に申し訳ない。

物思う自由や、言いたいことが言える、五十鈴川だよりを書けることは、ささやかな精神の発露、自由、この国に生まれた有難さである。老いも若きも様々な置かれたところでの理不尽さには、声をあげられるときにあげておかねばと痛感する。ある日突然、戦前のようにその自由が奪われたら。

自由を謳歌することができる国に生まれて、何とかこの年齢まで生きてきて思うことは、平和憲法を護持し、未来が血なまぐさい世界へと向かわないように、すこしでも真っ当な当たり前の世界へと向かうように、無所属個人として、五十鈴川だよりを綴る勇気をもちたい。


 

2021-05-23

五月晴れ、梅雨の晴れ間に想う。

 貴重な梅雨の晴れ間、朝いちばん人気の少ないスーパーで買い物(コロナ対策)をして、簡単に朝食を済ませ、布団を干して自室の窓からの青空を眺めながら、気持ちよくパソコンを開いた。3日連続して五十鈴川だよりを綴ることは、久しく稀なことである。

さて、今日23日で退院して丸二カ月になる。やはりアウトドア、天の下での多様な体動きをする労働 (いやでもしなくてはならない)のおかげで、思ったよりも早く体の回復を感じている。三日連続して書けるほどに、気力体力が持続している。うれしい。

食にも気を配る様になり(野菜中心)判で押したように夜は早く床に就き、十分な睡眠をとり、目が覚めたら起きて、ゆるりと活動を開始、といった塩梅での決まりきった最低行動ライフが、今のところ功を奏しているのだと思える(かってにいい方向に考える)。

メディア報道はほとんど画面ではなく、文字報道を眺める程度である。ワクチン接種に関してもどこかゆっくり構えている。(何しろ妻以外とはほとんど言葉をかわしていない)外出時はマスク、家に戻ったら手洗いうがいは励行しているし、これでコロナに感染したら、運を天にゆだねるほかはない。

話を変える。昨日も天気が良かったので、午前中キンカンを妻と二人で収穫し、ついでに茂りすぎた枝の剪定をした。久しぶりに二人してのコンビアウトドア作業で、キンカンの樹がさっぱりして、枝と枝の間の風通しが良くなりすべての葉に陽があたる。人間も同じ風通しが良くないと病になる。

 作業を終えて飲むお茶のひと時タイムは、まさしく 格別。こういう感慨が持てるのも、繰り返すがすべては体の機能回復のおかげである。キンカンを口にほうばり、直接ビタミンを補給する。五十鈴川だよりには書いていないが、2週間くらい前、放っていた玉ねぎも、何もしていないのに、十分に食べられる程度には収穫できて、連日食している。

わずかな大地の片隅で、実をつけるキンカンや玉ねぎや、ホウレン草やインゲン等々の野菜、春夏秋冬、季節ごとに母や妻が育て(時折私も)日々いただける生活、老いた胃袋に十分この上ないシンプルさ。仕合わせは平凡さを非凡に感じられるか、感じられないかで大きく変容する。

ほぼ三カ月、アルコールを口にしていない。手術しなかったら、以前と同じように飲んでいたのだろうなあ、と思うとまさに塞翁が馬である。人生はまさに危険な綱渡り、何が幸いするかは神のみぞ知るである。

ところで、妻は 五十鈴川だよりに書かれるのをことのほかに嫌がるので、ほとんど触れていない。いつの日にかは、私のような未熟者との連れ合いを長きにわたって、継続してくれたことへの感謝の思いを、生きているうちに言葉に託して、五十鈴川だよりにきちんと書き残して おきたい、がいまはまだ無理である。

今我が家の家の周りは、通りに面している塀にからむ見事な蔓バラ他、8種類くらいのばらがもうそろそろ終わりである。(ごめんなさい写真にアップできず)特に今年は挿し木から育てたバラが見事に咲いて、この数週間(いまも)我が家のいたるところに置かれ、芳香を放ち目を楽しませてくれている。(どうか想像力を駆使してください)

妻と私は、世代も生れ落ちた環境も性格もまるで異なる。でも出会って35年、何とか一つ屋根の下で生活している。妻は育てたバラを私の子供といっている。

再び話を変える。50年近く親しんだアルコールをアクシデントで手放し、身体が回復するにつれ、予期せぬ時間が転がり込んできた。これから、寿命までのいただいた時間をいかに生きるか、生活の質を変えたい私である。




 

2021-05-22

一年以上の、ほとんど巣ごもりオタク生活を静かに過ごし、そして想う。

 目覚めたら、まずしばらく闇の中でもぞもぞと体を動かす、足先とか手先とか。5~6分してゆっくりと床を離れる。年寄りらしく緩やかに階下までは電気をつけずに降りてゆく。家人がまだ休んでいるからである。

小さな電気をつけ、コーヒーを淹れ、メルに朝食をやり、電気を消し、再び闇の中を自室まで手すりにつかまりながら階段を上がる。自室の電気スタンドをつけ、明かりを絞り、薄暗がりの中、ゆっくりとコーヒーを飲む。 

コーヒーを飲み終えると布団をたたみパソコンをオンにする。肉体労働がない日、五十鈴川だよりに向かうときはほとんどこのルーティンである。朝食は書いてから軽くとったり、とらずにそのままブランチということも多い。

朝の闇の中の移動は、明かりに頼らないで足先や指先に頼り、意識を集中し体の感覚を確認するために、ずいぶん前から始めたことである。ベッドもあるが、できるだけ布団を敷き畳むようにしている。たったこれだけのことで、身体がずいぶんとすっきりして一日が始まる。いわばささやかな儀式である。

塵も積もれば山、ということにどこかすがる自分がいる。ぞうきんを絞る。かがんで弓の巻き藁をする自室の床をふく。 野菜を洗う、むく、刻む。食器を洗い拭く。書き出せば生活の中で何といろんな体の動き、所作を日々繰り返し生活していることか。

手術でまったく身体が動かせなかったとき(池江選手の比ではないが)、のことを、あの時のことを、いまだ反芻うする。動けるということが、見えるということが、食べられる、飲み込めるということが、自分で排泄できることが、どれほどありがたいか、手術入院でいくばくか私は思い知ったのである。

だから、この先(もうほとんどそのような感じの五十鈴川だよりだが)老人が繰り返し同じことを話すように、繰り返し似たようなことを綴ってゆくのかもしれない。ご容赦を。

話を変える。コロナの出現以来盛り場を歩いたり、書店にふらり立ち寄ったり、カフェすることがまったくなくなってしまってから一年以上たつが、今のところさほど大きな支障がなく生活ができている。

若い時に背伸びして買って、いつの日にか読もうと思って積んでおかれた本を、千歳一隅のチャンスと、恐ろしいほどの(時間は有限なのに) 遅読で読んでいられるのも大きい。今読まずしていつ読めるのか。循環しながら、大まかな時間割を作ってルーティン化しての日常生活を、オーバーに言えば虚構化しながら普遍化して遊んでいる。

若いころから還暦まで、あんなに動き回って、ワンダフルワールドを、浮き浮きドキドキはらはらしていた自分とは思えないほどのオタク生活ぶりである。

ダーウィンの進化論もいまだ精読したことがない、無知な私をこの歳て痛感している。思わぬコロナ自粛で 否応なくの変化生活、【知識は力】であるとの信念は、出口治明先生のお言葉であるが、高校卒業と同時に世の中に出て、真剣に学ぶ時間を持てなかっただけに、どこか降ってわいた巣ごもりオタク生活の在り難さをを静かに享受している。

夜が明けた。さあ、今日はどのような時間割で過ごせるか、面白がろう。


2021-05-21

シェイクスピア遊声塾を休塾して、間もなく一年2か月、コロナ緊急事態宣言渦中に、今想うこと。

61歳で、何かに突き動かされるように、好きなシェイクスピア作品を を音読して遊ぶ私塾を立ち上げ、何とか丸7年続けていたのだが、昨年の4月新型コロナウイルスの猛威の前に休塾を余儀なくされ、間もなく一年2カ月が過ぎようとしている。

そして今、岡山でも新たなコロナウイルス変異株の 脅威は収まらず、先行き不透明。人知を超えたコロナウイルス出現の未知の現実世界を前にして、茫然としながらも、ウイルスに対して何とか身を守る方策を(免疫力を上げる)個人で行う以外ほかに対処の仕様が見当たらない。

さて、きわめて個人的な私塾を休塾して後、塾生とはラインつながりのみの関係性となってしまっている。私のつたない五十鈴川だよりを読んでくださっている方はご存じだと思うが、私は家族や大事な友人とのライン以外は、最低ラインのデジタル音痴ライフを、あえて苦楽し、すでにある意味では現世的な役割を終えつつある人間である。

すでに人生の社会的、親としての役割の大部を終え(まったくそのことに悔いはない)、これからはいまだ知らない、過去の先人たちの未知のお仕事、声に耳を傾ける時間をこそ、優先大切にしたいと思いつつコロナ渦中生活を静かに過ごしている。

年が明け 、このまま休塾を続けていても私自身の個人的な生活上の問題もあり、ここはいったん閉塾して、また先の未来コロナが終息してのち、個人的な諸状況が整い私自身の音読に対する情熱に変化がなければ、またその時点で考えようとまで考えていた矢先のことである。

3月初め、コロナとは全く関係ない個人的な手術体験、出来事に急襲され、何も考えられないような稀な体験下に置かれ、3月下旬、退院したばかりのある日、思いもかけぬ長いお手紙のような、私にとっては感動的なメールを一人の塾生からいただいたのである。

その内容、文面は、私を介して知った、思いもかけぬ中村哲先生のことにも触れられていて、私の琴線に十分に伝わってきて感動したのである。中村先生の活動を、あのように素直に受け止められる感性、そのような塾生が存在することは、喜び、希望である。希望は絶望の中にこそ見つけるほかはない。

そして先日、今度は五十鈴川だよりを読んで私の手術入院を知り封書でお手紙をくださった方の存在。身に余るとはこのことを言うのである。

私の体は明らかに以前の躰とは異なり、肺活力も筋力も衰えているが、再びゆっくりと年寄りらしく無理せず鍛えている。シェイクスピア作品の音読は、今現在の自の体から内なる声を発することで、各々の体が共振し、お互いの希望の声を聴くことである。

わたしの私塾に、このような思いを抱き続けている塾生の存在に対して、何が可能なのかをあらためて私は今術後の体に問い始めている。

 

 

 

 


2021-05-19

夜明け前、梅雨に入った朝のつれづれに想う五十鈴川だより。

 起きたばかりの胡乱な体。6時間熟睡して目が覚めた。コーヒーを淹れ、なんとも言えない静けさの中、本を読もうかとも思ったが(いま私は【哲学と宗教・全史】という、著者は出口治明先生の本を読んでいる、平明な語り口で高校生に還ったかのように学んでいる)何とはなしにパソコン画面を開いてしまった。

電気を消すと漆黒の闇である。でももうしばらくすると夜が明けてくる。この夜明け前の一時が、たまらなく好きである。いい歳なのに年齢を忘れる。こういう気分にいまだなれるということは、確実に手術後身体が回復しているからである。(と思うことにしている)

身体が元気でなければ、起きてさほど時間もたっていないのに、五十鈴川だよりはとてもではないが、書けない。10年近くよたよたと書き綴っていられることの、有難さは術後一段と増してきた感がある。

何をするにつけ、まず体と心が連動し、集中力が続かないと叶わない。どのような拙文であれ、意欲がわかなかったら無である。先の入院で、食欲他一切湧かない稀な体験を、わが人生ではじめて持てた際のことを、いまだ思い出す。

あの時の、えも言えぬ、かろうじて生と死のはざまを意識が揺蕩っているかのような、不思議な体感感覚の記憶は、もしこのまま健康が以前の様に回復するのであれば、やがては忘れてゆくのかもしれないが、あの4本の管につながれたわが体の無残なまでの姿と共に焼き付いている。

だから、あと4日もすれば退院してふた月になるが、体重も2・5キロ戻り(あと3キロ戻したい)労働のおかげで足と太ももの筋力が回復してきたし、これで弓が元の様に引ければ、上半身の筋力もゆっくりとついてくるのでは、と焦らず希望している。

だが言えることは 、身体が以前の様にもし回復したとしても、もう以前のような生活はできないし、あまりしたくない、というこれまでとは明らかに異なる自分時間を生きたい、といううまく言えないが、感覚の芽生えを感じるのである。

この一年間のコロナの渦中生活 のなかで、半世紀に及ぶわが人生の過ぎし来し方を、内省的に振り返る時間が増えていたのだが、この度の手術入院で一段と自分自身とという不確かな実在と向かい合う時間が増えそうな気配である。

簡単に言えば、お酒を飲んだりしていたころのような生活には戻りたくないというか、いい意味でストイックというか、せっかくこういう稀な体験したのだから、生活をゆるりと見直し変えたいのである。

どのように変えたいのかは、これからの自分との対話時間の中で実践するほかにはないし、自分でもよくわからないが、お酒を飲んでいた時間がほかの時間に充てられていることだけは確かである。

このような私と今後も付き合ってくれる方がいれば、以前も今後も新しい関係性が育めるのでは、と夢見るのである。夜が明けてきた。


 


2021-05-16

梅雨入りの雨音を聴きながら、五十鈴川だよりを綴る朝。

 例年より早く梅雨に入った。雨がやんでいたので先ほど運動公園にゆき、裸足朝散歩を少しの時間してきた。走っている人たちや歩いている人たちがわずかにいたが、運動場には誰もいなかった。車の中で裸足になり、場内の大地を5本の足の指で踏みしめるように歩く。

数年前、リア王を音読していたころから、冬をのぞいて春から秋にかけて、お休みの日気が向いた時に続けている。理由は特にないが、足の裏のツボを刺激できるし、指を開いて地面を踏みしめると丹田呼吸ができ、必然的に姿勢もよくなる。

15分も歩くと、足の裏の血行が良くなり、じんじんしてくる。足を洗い、丁寧に足の裏をもむように拭き、靴下をはき靴を履くとなんとも気持ちがいいのである。 

私にとっては気分が重い時の特効薬の効果がある。天を眺め、濡れた新緑を眺め、草花を眺め、ただただ地面を踏みしめる。面白きなきことを、面白がれる精神こそが、コロナ渦中生活で今の私に最も必要なことなのである。

若いころは映像(いまも古い映像他心が魅かれるものは見る)三昧にずいぶん時間を費やしたので、若いころとは異なる手ごたえのある老いゆくリアル時間を過ごしたいのである。

カッコつければ、個の(孤独)時間の充実をいかにして過ごし深められるのか、否かということの方に、重きを置きたいのである。

デジタル万能社会の恩恵も享受しながら、老いゆく我が身は、とりあえず今日動く身体に固執して、リアルワールドで、何よりも体が喜ぶことを見つけたいのである。

犬も歩けば棒に当たる、石の上にも三年、そのような来し方を自分はやってきたのだなあ、との感慨がある。艱難辛苦全部ひっくるめて、今となってはすべて面白かったと、とりあえず現時点で、五十鈴川だよりにしっかりと書いておきたい。

 

2021-05-15

非常事態生活の中、弓を再開しました。そして想う。

 わが故郷は梅雨入りをしたが、今朝の私の部屋から見える空模様は、明らかに梅雨入りまじかを思わせる。

コロナウイルス変異種が猛威を増し、岡山も緊急事態宣言が発令され、空模様同様先の見えない鬱陶しい日々を暗示している。

ほとんどは社会的な役割を終えつつある自分でさえ、生き物の本能として目に見えないウイルスへの脅威は、増すことはあっても減ることはない。

ただ乱世の今想うことは、あらゆる情報洪水の渦におぼれてはならないということ、浮き足立たないように、地に足をつけて基本的な生活を大事にすること。

手の届く範囲でできる今日一日の過ごし方をいかに工夫して、気分を上げる方策を考え、実践できるか、できないか、である。

不幸中の幸い、というと誤解を招きそうだが、あと一週間もすればコロナ渦中生活の中での手術入院から退院して2か月が経つが、この間、個人的にわが体の回復のことにのみ気がとらわれていて、コロナのことに気が及ばずにいたのである。

事程左様に、ヒトは置かれた状況において、日々の認識状況は異なる。この一年以上にも及ぶコロナ渦中生活の中での、予期せぬ先の手術入院のおかげで、以前にもまして、極めて当たり前の普通生活のありがたみが身に染みているせいで、非常事態宣言にもどこかしら、冷静に対処できている自分がいる。

が、そのような悠長なことなど言っていられない、まさに非常事態を生きておられる方々のことに思いをいたすと、暗然とする。だが、哀しいまでに事態は理不尽、不条理である。

何とか明日になれば、との一抹の希望をもって生きるしか私には方法がない。おそらくは大多数の方々がそのようなおもいだと思う。

だから、話を変える。手術して2カ月たち、思い切って弓を手にし自室で巻き藁をした。何とか数回引くことができたが、手術前の躰の感覚には遠く及ばなかった。だが引くことはできた。一人で引ける喜び。

手術前のコロナ渦中生活を支えていたと、いっても過言ではない弓の稽古時間。何はともあれもう一回、初心に帰って集中力の鍛錬のために、再開することにした。ただ、以前の様には無理をしないで、自分の体にあまり負荷をかけない稽古方法を考えたい。

傷口が完治して3ヶ月後くらいから稽古を始めようと思っていたが、予定を早めた。本数よりも継続。現在の生活の体に風を入れ、芯を通すためには、弓はまたとない思索時間を与えてくれる。

2021-05-09

ふるさとの姉のもてなしに、いいしれぬ感謝の念、元気にさいかいでき、そして想う。

この度の帰省旅。 地方にも急激なコロナ感染が広がる中、どこか 気持ちの切り替え、整理ができたふるさとj間を過ごすことができ、思い切ってよかったと思う。

私はもちろん、兄や姉も高齢化が進む中、何はともあれ元気にしばしの再会時間が持てたことは、慶賀の至りであったと、今つくずく思いながら、五十鈴川だよりを書いている。

姉は私より、9歳年上、齢80に手が届く高齢者だが 、買い物など近所ではいまだきちんと運転できるし、年上の旦那さんとの二人での晩年生活をつつましく営み、身の丈に合う足りる暮らしを楽しんでいる。

姉は幼い時から、できの悪かった愚弟の私の面倒をよく見てくれた(かけがえのない人である)。この度の手術入院でもたびたび妻に電話をくれて、私の按配をことのほか心配してくれていたので、元気に回復している姿を是非見せたかったのである。

姉は、元気に回復している私の姿を認めると、ことのほかの喜びようで私を迎えてくれ、私もいきなり以前の様には、馬鹿な冗談も言えず、殊勝にかしこまり、この度の入院に際してのお礼を伝えた。

いくつになっても姉は姉 、まるで母親代わりのように、もう十分に老いている私の胃袋に、故郷の手料理の数々でもてなし、最後の日の昼には、姉夫婦、長兄夫婦と共に、お天気の外での快気祝いをしてくれた。

臆面もなく五十鈴川だよりに書いておこう。理屈なく、年齢を忘れ馬鹿なことが言え、遠慮なく甘えられるのは 今となっては、この世で我妻と姉の二人だけである。

この度の入院で思い知ったのだが(忘れるといけないので、こころに刻み付けておきたい)大事なヒト、かけがえのない身近な大切な人の存在が胎に落ちたのである。

今現在の私の生活にとって、こころから大事にしなければならない存在への、気づきの深まりは、手術入院という予期せぬ不意の出来事がなかったら、叶わなかったかもしれない。なくしてみて初めて分かるということがある。

在り難い、ということの気づきの深まりこそが、老いてゆく途上での生の醍醐味なのかもしれないと、ぼんくらの私は手術した傷に触れながら、生の執着に想いをはせるのである。



 


2021-05-05

移動自粛が喧伝される中、生まれ故郷に帰省して記憶の中の思わぬ人たちに会えました。そして想う。

GW、1日から昨日まで故郷に帰省してきました。少し躊躇しないでもなかったが、一向に終息の先行き不透明の中、お墓参りに帰省してきました。

帰省を決めたのは、やはり手術入院をしたからで、これから先は、私も含め兄たち夫婦、姉たち夫婦も高齢化するし、これから先、そうは何度も気軽に帰れる人生時間は残されていないと考えたからである。

思いついたら吉日という言葉がある。元気な命は有限なのだということを、頭ではなく体の芯から思い知ったので、元気に動けるうちに、悔いなくやりたいことをやっておこうという気持ちを抑えることができなかったのである。

手術前に度々帰省していたころの自分とは、やはり心なしか、変身した自分が生まれたような感じで、詳細を綴るのは控えるが少しだけ。

私には幼少期から世の中に出る前までの写真がほとんど残されていないのですがこの度の帰省で、姉から私と弟が亡き父と共に映っている小学生時代の写真と、母の写真をいただいたのである。(きちんと額に入れ傍に置くことができる)

その姉から、私が小学幸に上がる前近所にすんでいて、ともによく遊んだ記憶の中のU・Tさんという女性がいるのだが、私のことをよく覚えていてくださって、私に会いたいと帰省の折度々聞かされていた。

これまでは会う機会を逸していたのだが、今回はこの機会を逃したら会えないかもしれないという思いが強く湧いてきて、昨日の朝、姉に連れて行ってもらい、わずかな時間ではあったが、60数年ぶりの再会がかなったのである。

かすかな面影の残るU・Tさんは、亡き父の晩年によく似た私の現在の姿を確認すると、目頭を押さえて、よく来てくれたとことのほかに喜んでくださったのである。次回はもっとゆっくりと会う約束をして、名刺を渡してお別れした。

それとこれも小学校に上がる前、近所で伴によく遊んだ男子のH・T君とも60数年ぶりの再会がかなったのである。

長くなるので割愛するが、悔いが残る前に記憶の中に残る家を訪ねたところ、お兄さんが末子のH・T君は何とうちのお墓が見えるところに家を建て、今は奥様と住んでいて、私のことをきちんと記憶していたのである。

お互いおじいさんになっての再会ではあったが、元気に再会できたことをお互い喜び、しばしの感慨、感昂に浸たり会えたのである。

何はともあれ、この度の帰省でオーバーではなく奇跡的な幼少期の面影の方たちとの再会がかなったこと、五十鈴川だよりにきちんと書いておきたい。間に合ってよかったとの、きわめて個人的な思いに私は今浸っている。

手術前の私とは明らかに何かが異なり、以前の帰省では気づかなかったふるさと人の在り様の奥深さを感じることができたのである。

目に入るわが町はすっかり寂れ廃れ果て、表層的には無残なまでに様変わりしている。そのわが町を、術後の病み上がりの躰で、幼少期の記憶の原風景をたどりながら一歩一歩散歩、思索しながら歩いた。(歩けた)

再会できた面影の人たち、手術しなかったら会えなかったかもしれない。