書家として知られる、石川九楊先生の本を読んだのは、もう16年も前のことである。私が53歳の時である。
まだ働いていて、インターネットでブロブでどうしても囲炉裏通信を書きたく、そのためにパソコンにキィを 打ち込むために、やむに已まれぬ絶対矛盾的な思いを(キィで文字を書くことに抵抗を覚えつつ)抱えながら生活していたころのことである。
あれから、16年といえばもうふた昔以上、現在世界は石川九楊先生が御著書で憂いていた、警鐘を鳴らしていたことが、まったくもって現実となっているように思われる。
私の周りでは家族を含め(姉と兄はいまだ縦書きでほっとする)もうほとんどが横書きである。私は大事な家族や大事な人には、自筆縦書きとメールを併用しているが、ここ一番は肉筆である。大事なことは目を見て直に話し、直に書く。でないと取り返しのつかないことが起こる。(すでに起こっている)
もし、石川九楊先生の御本を手にしなかったら、安きに流されやすい私としては、とうの昔にデジタルの渦に巻き込まれ、オーバーではなく機械で打つ文章と、肉筆での文章とのあまりの違いを、体感、自覚することは叶わなかったかもしれない。
詳しくは是非、石川九楊先生の御本を読んでいただきたいのだが。日本語が何故に縦に書かれなければならないのかが、縦に書くことでしか成り立ちえない得ない日本語の歴史的な特質が実にわかりやすく、説かれていて目からうろこが落ちる。
書家として(先生は体全部で凄い作品をまさにひっかいている)実践書いておられるるので説得力は半端ではない。こういう方は殆どテレビにはお出にならない。品がいいのである。こういう日本人が存在していることは、先にお亡くなりになった中村哲先生同様日本人として誇りである。
ところで、いまやすっかり五十鈴川だよりも、書いているのではなく、打つだよりと化してしまったが、内心どうにもならない絶対矛盾を抱えながら、デジタルにあえて肉筆的なたより、のようなおもいを籠められないものかとの淡い幻想に(記録的に)しがみつくのは、まだ私が生きて、もがいているからだと思える。(思うことにしている)
心のうちでは、まったく石川九楊先生のおっしゃる通りだと思える。(関心のある方は先生の本をぜひ手にして読んでほしい)私自身つたなくも日本語にどこかでしがみつきながら日々の揺れる感情を思索しながら言葉を探すのである。
話を変えるが、昨日本当に久方ぶりに硯をすり、とある方にお便りを毛筆で書いた。機械を通して打つたよりと、手書き毛筆での書き直しがきかない、一期一会のたよりとでは、まったく異なるとの思いをあらためて、深く深く納得したのである。
これからの人生時間、私は大切な家族や友人知人とのやり取りのここ一番は、直にわが肉体を通して書くことに決めた。書を楽しみたいのである。日本語に体を浸したい。日本語で身体を清めたいのである。毛筆肉筆で書くことは、畑での労働と同じように(石川先生は、書くことは、自分の体を書くこと、耕すことだと同じだとおっしゃっている)全身を使う。墨をすり、筆圧を感じながら拙文を綴るいっときは、まったくキィを打つのとは異なる。
肉体から肉体にテレパシーを送るのには、血の通いを伝えるには、どうすれば。この歳になって今更ながらのように、昔の方々が書いた、一期一会の書に触れて現在の老いつつある体に、血を通わせたいと想うのである。