昨日雨のお昼ごろ、めったにならない私のケータイが鳴った。それは意外な(といっては大変失礼だが)正直思いがけないかたからのお電話だった。
五十鈴川だよりで私の手術入院を知り、西大寺で農家からイチゴを買ったので、届けたいという、ありがたくも、申し訳ないようなお電話だった。彼女は倉敷のほうに住んでいる。
N・Kさんとは、私がまだ40代でガンガンと元気に企画をしていたころ、椎名誠さんが創られる映画を野外で(野外しかない)上映していたころ出会った。彼女は当時熱心なシーナファン(おそらく今も)で私が企画した椎名誠誠監督の作品の野外上映には欠かさず来られていた。
当時彼女はまだ岡山大学の学生であったような気がする。私はシーナさんばかりを企画していたわけではなく、中世夢が原という磁場で、現代のホールでは 企画することが難しい、星空の下でこそ輝くような、いまだ私が行ったこともない、大地の国々の、未知のアーティストを探して、それこそ無知蒙昧非力を顧みず、情熱のすべてを(といっていいくらい)傾注していた。
その後、中世夢が原を辞するまで何とか企画を続けたのだが、N・Kさんは企業で働きながらも、時間が折り合えば(彼女はお仕事で海外出張が多かった)度々私の企画に足を運んでくださった。
私は企画するたびにアンケートをとっていたのだが、彼女の誠実な文字で書かれた、何故今夜の企画に来られたのですかという問いに、私の企画だからという文字があったのを、私は忘れない。
とまあ、歳月は流れ、夢が原を辞して、61歳でシェイクスピアを音読・朗誦する塾を立ち上げ、発表会をするたびにも来てくださり、都合が悪い時にはわざわざお手紙を下さったりした。
考えてみると、私が岡山に移住してやってきた多種類の企画を随分見てくださり、この間の時の流れの中での変遷、推移のあらましを、いい意味で傍観してくださっている稀な方なのである。
世代も性差も超えて、良き距離感で、つかず離れず、関係性、ご縁が継続していることは、急変する時代の世相の中で謎にしておくにしくはないが、ひとつ思うのは、彼女の中に名状しがたい今を生きる問題意識があり、私の中にもささやかに今を生きる問題意識が、ずれてはいてもすれすれで共有できる何か、妖しくも見えない糸が揺れているのかもしれない。
いつ切れてもおかしくはないがほどの危うさの中、糸は時に激しくゆれ反応する。もし彼女が五十鈴川だよりを読んでくださらなかったら、イチゴと共に寸暇、彼女は我が家の玄関先に姿を見せることは、叶わなかっただろう。意外性、というしかない稀なうれしい出来事。
雨の昼下がりのイチゴ一会の再会。夜、夕食後、いただいた大きめの箱に収まった、個性的で大きさがまちまちの、(白いイチゴもあった)輝くいちごに私はしばし見入った後、口に入れたのだが、その甘美なおいしさは、術後リハビリ中の体に沁みいってきた。
そぼ降る、春の雨の中、わざわざご足労、届けてくださったその姿に、私は歳月の重みの在り難さを痛感した。
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