還暦を過ぎて、シンプルに静かに生活を送る中、61歳でシェイクスピアの好きな作品を音読朗誦 する塾を始め、老いてゆきつつ、かなりの情熱を割いていたのだが、ある日突然のコロナウイルス出現で、休塾を余儀なくされ一年以上が過ぎ、65歳の誕生日から始めた 弓の稽古もこの度の予期せぬある日突然の手術入院で、断念している。
老いゆく中情熱を注いできたことが、ある日突然できなくなるということは、私の身の上だけではなく、極めて普通に誰にでも起こりうる、そのような当たり前のことを、古希を目前にしてのコロナ渦中生活で、今更ながらにも実感している。
論旨に脈絡がないが、情熱を注いできたことがあろうがあるまいが、ごく普通の生活が、やがてできなくなるということが、老いてゆく摂理、真実、非情さなのである。(だが、その老いゆく時間をいかに生きるのか、まだ私はあきらめてはいない)
傲慢にもその厳粛な事実を、人生で初めてのコロナ渦中生活の中での思わぬ手術入院で、頭では理解していたかのような私ではあったが、いやでも死を想う状況かに置かれてみると、やはり本を読んで感じることとは、比較すること事態がナンセンス、まったく意味をなさないと、いまおもえる。
ヒトは(私は) 強烈な体験や状況下に置かれると、変身することで本能的に身を守ろうとし、思いもかけぬ謙虚さ、敬虔な感情が生まれてくるのを、私は確かに3回の手術による入院中、とくに夜の闇の中で、未知のおのれと問答したのだと、(問答ができたのだと)。
そのような、切迫した思いから解放され、退院してひと月以上たち、かなり体力が回復しつつあるからこそ思えることなのだが、稀な良き体験ができたのだと、何かに感謝している。
あれほど情熱を傾けたシェイクスピアの音読が、今はできなくても、弓が引けなくても、いや今後、以前できたことが叶わぬとしても、私は後悔はしないだろう。過去よりも未知のこれからこそがより大事なのだということを日々生活の中で噛みしめたい。
大切でかけがえがないものが何であるのかを、いくばくか以前にもまして思い知ったことの重みは、今後の私の生活を明るくする。孫の望晃、ノア君の動画は月の光のように私を照らし動かす。
何気ない日常生活をこそが私にはいよいよ大事である。思いもよらぬ人との再会、出会い。森羅万象、自然への畏敬の気づきは、深まる。散歩、労働、自炊、読書、買い物、掃除、つづり方思索、、、。ばねは弱くなっても、感動する老いる葦(足)でありたい。
いきなり話は変わるが、幼少期(10歳くらいまで)限りなく人工的なものがない、原っぱの中の生家で過ごした。雨の夜ともなると漆黒の闇が恐ろしかった子供時代、電信柱に裸電球が灯っていた。先の入院はしばし私の中の記憶の原感覚、淵源を呼び覚ました。ヒトは大いなる、どこかからやってきて 、大いなるどこかへ帰依してゆく。
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