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2021-04-29

昨日4週間ぶり血液検査、結果が出てM先生の検診を受けました、昭和の日、雨の朝に想う。

 昨日午前中4週間ぶりに、手術してくださったM先生の定期健診にゆき、血液検査をした。結果は随分よくなってますよ、とのお言葉。血液検査でえられる、肝臓のあらゆる機能の数値が正常値なっていたのである。

この数十年の中でもっともよく改善していた。お酒を飲んでいたころには定期健診では一向に改善しなかった機能数値が、嘘のように改善していたのである、我ながら驚いた。

世の中に出てから覚えたお酒、50年近くの生活習慣依存、この細い体の肝臓がよくぞ持ちこたえてくれていたものである。若い時は酔うことに酔っていた。(若さを持て余し、これは致し方ない)

自分の愚かな馬鹿さ加減を、今更反省しても遅いのかもしれないが、半世紀ギリギリのところで、悪運強くM先生の手術のおかげで(現代医学の)生きながらえることができた現実を、自分のつたない語彙では表現しかねるほどに、厳粛に今私は受け止めている。

お酒を辞めたことで、今後どのように自分が変化してゆくのか、ゆかないのか、老いつつもハムレットの ように思案のしどころ、これもまた天啓と受けとめる勇気を持ちたいのである。このようなことがつづれるのも、身体が復調しつつあるからである。

このような数値結果をみて、M先生は次回の検診は3ヶ月後にしましょうということになった。次回は7月の半ば、暑い季節、コロナの世相の行く末もさることながら、まずは自分の老いゆく体はどのように変化しているだろうか。(どこか能天気に面白がりたい、天邪鬼は治らない)

話は変わるが、世の中に出て折々(ふつうは誰でも)各年代ごとに、がけっぷちに立たされた経験が私にはある。(もう二度とご免である)私が何とかこの年齢まで生き延びることができたのは、時代と友人と運に恵まれたことと、親からしつけられた自分を信じ、追いつめられると、乏しい生活の中環境を変え、必然的に自分を変えてきたからではないかと考えている。

この度の手術入院は客観的に考えると、平和裏に推移してゆく個人的な時の流れの中で、久しく訪れていなかったがけっぷちが、ある日突然、外的(敵)にではなく内的に顕れたのだと、今はすこぶる謙虚に受け止めている。

父は齢80過ぎまで生きて、(兄によれば最後まで弱みを見せなかったという)亡くなる半年前に書いた文章が残っている。私は寿命のことをこの度の手術入院で初めて真剣に向き合えた気がするが、退院後、かなり回復するにつれ、死のことを考えるのはやめようと、縁起でもないとの絶対矛盾を生きる、今朝の五十鈴川だよりである。


2021-04-28

一念発起、わずか一週間ですが半病人苦楽自炊生活を始めました、そして想う。

 このところといってもまだ一週間くらいだが、食事を自ら自炊するように心かけている。これまで朝昼はともかく、夜は妻の手にほとんどをゆだねていたのだが、手術入院で食生活の見直しを迫られ、自分の好きなものに偏ってしまう、いわゆる生活習慣を、この際まだ元気なうちに見直すことにしたのである。

昨日の朝、出汁をとってお味噌汁(豆腐と野菜の)を作り、余った枝豆がたっぷり入った卵焼きを作り、朝が早い私の、ひとり朝ご飯 としたのだが、久しく忘れていた感覚が老いの身にかすかによみがえってきた。

歳と共に、味覚や好みも変わるし、これまで食に関して、 妻にゆだねていた部分を、この際大いに見直すことに、決めたのである。3日坊主になるのが落ちだと、思ってはいるが何とか一週間は続いている。

妻の負担が減るし、老いと共に幼少期に食べたものに回帰してゆくし、早い話、これもまた一つのボケ防止に対策として遊ぶことにしたのである。退院後、お酒や以前はよく口にしていた甘いものを、一切口にしていない。我ながら変われば変わるものである。

老いの変身といえばカッコイイが、これまで好きで食べていたものが、お医者に禁じられたからといって、そうはたやすくはいかないのではと、自分でも多少の懸念がなかったといえばうそになる。

だが、今のところまったくその懸念は杞憂であった。意志薄弱の私はいずこへ。きっと変わりたい、この際自分を変えたいという、どこかにはあった自分の中の甘えを、見つめなおす勇気をこの手術入院は思い知らせてくれたのだと天に感謝、過去の食生活、生活態度を改善することにしたのである。

それには、妻の手を煩わせることはない。病院食に近く、味のうすい、野菜中心の健康に配慮した食事を、自ら作ることにしたのである。(こう宣言したのだから九州男子の端くれ、一日一日やってみよう)きっと面白いことが見つかる。いや、見つけるのだ。きっとこれまで使わなかった脳が動き出す期待は高まる。

妻は仕事があり、私とは起床時間ほか、生活の過ごし方時間が異なるので、ちょっと時間をずらして調理して食べる、方法を始めたのである。お互いを尊重、還暦を過ぎて自由に責任を持って、自由、自立遊び、老い楽ライフをこそが私の晩年ライフの願いである。

わずか一週間なので、この先未知ではあるものの、私としては買い物から後片付けまでトータルに、さあ、今夜は何を作るかなんてことを段取りしながら、老いの体に良い食材を選び、半病人らしく料理に励むのを、苦楽したいと夢見るのである。



2021-04-25

春の夜の月の満ち欠け、闇夜を照らす輝きを浴びて、想う。

 還暦を過ぎて、シンプルに静かに生活を送る中、61歳でシェイクスピアの好きな作品を音読朗誦 する塾を始め、老いてゆきつつ、かなりの情熱を割いていたのだが、ある日突然のコロナウイルス出現で、休塾を余儀なくされ一年以上が過ぎ、65歳の誕生日から始めた 弓の稽古もこの度の予期せぬある日突然の手術入院で、断念している。

老いゆく中情熱を注いできたことが、ある日突然できなくなるということは、私の身の上だけではなく、極めて普通に誰にでも起こりうる、そのような当たり前のことを、古希を目前にしてのコロナ渦中生活で、今更ながらにも実感している。

論旨に脈絡がないが、情熱を注いできたことがあろうがあるまいが、ごく普通の生活が、やがてできなくなるということが、老いてゆく摂理、真実、非情さなのである。(だが、その老いゆく時間をいかに生きるのか、まだ私はあきらめてはいない)

傲慢にもその厳粛な事実を、人生で初めてのコロナ渦中生活の中での思わぬ手術入院で、頭では理解していたかのような私ではあったが、いやでも死を想う状況かに置かれてみると、やはり本を読んで感じることとは、比較すること事態がナンセンス、まったく意味をなさないと、いまおもえる。

ヒトは(私は) 強烈な体験や状況下に置かれると、変身することで本能的に身を守ろうとし、思いもかけぬ謙虚さ、敬虔な感情が生まれてくるのを、私は確かに3回の手術による入院中、とくに夜の闇の中で、未知のおのれと問答したのだと、(問答ができたのだと)。

そのような、切迫した思いから解放され、退院してひと月以上たち、かなり体力が回復しつつあるからこそ思えることなのだが、稀な良き体験ができたのだと、何かに感謝している。

あれほど情熱を傾けたシェイクスピアの音読が、今はできなくても、弓が引けなくても、いや今後、以前できたことが叶わぬとしても、私は後悔はしないだろう。過去よりも未知のこれからこそがより大事なのだということを日々生活の中で噛みしめたい。

大切でかけがえがないものが何であるのかを、いくばくか以前にもまして思い知ったことの重みは、今後の私の生活を明るくする。孫の望晃、ノア君の動画は月の光のように私を照らし動かす。

何気ない日常生活をこそが私にはいよいよ大事である。思いもよらぬ人との再会、出会い。森羅万象、自然への畏敬の気づきは、深まる。散歩、労働、自炊、読書、買い物、掃除、つづり方思索、、、。ばねは弱くなっても、感動する老いる葦(足)でありたい。

いきなり話は変わるが、幼少期(10歳くらいまで)限りなく人工的なものがない、原っぱの中の生家で過ごした。雨の夜ともなると漆黒の闇が恐ろしかった子供時代、電信柱に裸電球が灯っていた。先の入院はしばし私の中の記憶の原感覚、淵源を呼び覚ました。ヒトは大いなる、どこかからやってきて 、大いなるどこかへ帰依してゆく。

 


 


 



2021-04-24

退院してひと月、春の陽光の中、つれづれ、感慨に耽り想う。

 今朝の新聞の一面、4都道府県に3度目の緊急事態宣言の大文字、明日から来月11日まで、とある。

この一年以上にも及び、次々にあたかも人類を煙に飽くかのように、変異を繰り返し生き延びる、コロナウイルスの前に、なすすべがないかのような印象を地方に住む老人の私は持っている。

二人の娘家族は、東京に 住んでいるので、いつ何時感染してもおかしくはない状況下にある、そのことを案じ心配するのは、大都会で生活して居る子や孫を持つ、全国の地方在住の親には共通のおもいであろう。

だから、いまだ得体の知れないコロナウイルスの脅威に関しては、私見を述べる術はないし、わからない。限りなく密に遠く、地方で静かな老人ライフの今を生きている私には、緊急事態宣言という言葉が、どこか遠くに感じられる。だから、とりとめのない五十鈴川だよりになるので、この話題は止す。

昨日、退院してからちょうど丸ひと月が経過した。自分の体なので自分が一番よく、この間の体の変化推移が覚る。

天の下での労働、規則的な一日のリズム、食生活、家族の支えで、自分でも驚くほどに体調が戻りつつある。体重も2キロ以上戻り、肺活量や筋力も普通に動ける程度に回復し、とりたててリハビリという意識を持たなくても、労働を中心とした生活の中で自然と回復へと向かえている。うれしく有難い。

わずかではあれ、人生で初めてといっていい痛い思いと、不自由さを体験したことの重みは、退院してかなり回復するにつれ、ましては来ないものの、減ることはない。

手術以前とは、あきらかに何かが変わってしまった。だからこの際、千歳一隅のチャンスととらえ、可能なら生活の部分を少しでも見直したい、できる時間のうちにとの念い。

言うは易し、この年齢まで培ってきた、おのれのお恥ずかしき実態の様々な諸相は、そうはやすやすと変えられるものではない。まして、どう考えてもいい歳である。分相応、そう肩ひじ張らず、老いつつやれることから始めよう。

お医者様に血糖が高いので、甘いものは控えるようにといわれたので、大好きなチョコレート、おはぎ、大福ほかの甘いものや、アルコールも一滴も口にしていない。とりあえずこの2点だけでも持続しているのは、些少の変化である。(食事も可能な限り自分で作り、妻の負担を減らし、掃除、買い物他、身の回りの生活の自活、細部を大事にしたい)

家の近くの海、山里のエリアで、穏やかに春の陽光を浴びつつ、世界の動向とは、非常なほどまで無縁に、死はいつも突然背後からやってくるとは、徒然草(だったか)。もう我が年齢はいつでも非常事態がやってきても不思議ではない。(のである)

この度の手術入院は、命のはかなさ、と今在ることへの敬虔な祈りへの気づきを深化させてくれたのだと、一月たち感慨にふける私である。


 


2021-04-18

雨の午後、N・Kさんが西大寺の農家から直に買った見事なおいしいイチゴを届けてくださいました。そして想う。

 昨日雨のお昼ごろ、めったにならない私のケータイが鳴った。それは意外な(といっては大変失礼だが)正直思いがけないかたからのお電話だった。

五十鈴川だよりで私の手術入院を知り、西大寺で農家からイチゴを買ったので、届けたいという、ありがたくも、申し訳ないようなお電話だった。彼女は倉敷のほうに住んでいる。

N・Kさんとは、私がまだ40代でガンガンと元気に企画をしていたころ、椎名誠さんが創られる映画を野外で(野外しかない)上映していたころ出会った。彼女は当時熱心なシーナファン(おそらく今も)で私が企画した椎名誠誠監督の作品の野外上映には欠かさず来られていた。

当時彼女はまだ岡山大学の学生であったような気がする。私はシーナさんばかりを企画していたわけではなく、中世夢が原という磁場で、現代のホールでは 企画することが難しい、星空の下でこそ輝くような、いまだ私が行ったこともない、大地の国々の、未知のアーティストを探して、それこそ無知蒙昧非力を顧みず、情熱のすべてを(といっていいくらい)傾注していた。

その後、中世夢が原を辞するまで何とか企画を続けたのだが、N・Kさんは企業で働きながらも、時間が折り合えば(彼女はお仕事で海外出張が多かった)度々私の企画に足を運んでくださった。

私は企画するたびにアンケートをとっていたのだが、彼女の誠実な文字で書かれた、何故今夜の企画に来られたのですかという問いに、私の企画だからという文字があったのを、私は忘れない。

とまあ、歳月は流れ、夢が原を辞して、61歳でシェイクスピアを音読・朗誦する塾を立ち上げ、発表会をするたびにも来てくださり、都合が悪い時にはわざわざお手紙を下さったりした。

考えてみると、私が岡山に移住してやってきた多種類の企画を随分見てくださり、この間の時の流れの中での変遷、推移のあらましを、いい意味で傍観してくださっている稀な方なのである。

世代も性差も超えて、良き距離感で、つかず離れず、関係性、ご縁が継続していることは、急変する時代の世相の中で謎にしておくにしくはないが、ひとつ思うのは、彼女の中に名状しがたい今を生きる問題意識があり、私の中にもささやかに今を生きる問題意識が、ずれてはいてもすれすれで共有できる何か、妖しくも見えない糸が揺れているのかもしれない。

いつ切れてもおかしくはないがほどの危うさの中、糸は時に激しくゆれ反応する。もし彼女が五十鈴川だよりを読んでくださらなかったら、イチゴと共に寸暇、彼女は我が家の玄関先に姿を見せることは、叶わなかっただろう。意外性、というしかない稀なうれしい出来事。

雨の昼下がりのイチゴ一会の再会。夜、夕食後、いただいた大きめの箱に収まった、個性的で大きさがまちまちの、(白いイチゴもあった)輝くいちごに私はしばし見入った後、口に入れたのだが、その甘美なおいしさは、術後リハビリ中の体に沁みいってきた。

そぼ降る、春の雨の中、わざわざご足労、届けてくださったその姿に、私は歳月の重みの在り難さを痛感した。

2021-04-17

ミャンマーでの映像と、半世紀前のベトナム戦争での映像がかさなり、時空を超えて想う。

コロナ、オリンピック、米中外交、原子力環境汚染水処理等々、魑魅魍魎国益思惑が複雑に絡み超込み入った、パンデミック山積メディア報道には以前にもましてうんざりしながらも、このままでは私自身が思考停止老人として、生を閉じるのではとの危惧がリハビリ生活の中芽生えている。

論旨にまとまりがなくとも十分に老いているので書けるときに思い浮かぶこと、感情を書いておきたい。

半世紀以上も前の高校生の時にベトナム戦争での悲惨な、一般庶民や小さい女の子が裸で逃げまどう映像、佐世保に原子力空母がやってくるのを阻止するために、学生や市民がデモンストレーションをあげて戦っている映像をテレビで見て、無知丸出し素朴な田舎の当時の田舎の高校生に与えた衝撃の大きさは計り知れない。何か得体のしれない不気味な、これから先の未来を生きなければならない茫漠とした不安感を少年の私に植え付けたのだ(と今にして想う)。

だからその後、振り返ると、このような人生を送ることになったのかもしれない。漠然たる未知への不安、無知なまだ少年の域を出ない、多感で繊細な時期での時代の触覚のアンテナにわが体と心が、慄いたのである。

半世紀以上の時が流れ、思わぬ手術入院。術後リハビリ生活の老人の身であるが、あの慄きの感情が、今も心のどこかで少年期の自分と通底しているのを再自覚したのは、ミャンマーでの民衆弾圧殺りく映像を、退院後NHKスペシャルで観たがためである。

人種民族、宗教、領土資源、大国による正義を掲げての戦争や、代理戦争は我が国以外では止むことなく続いている。インターネットも軍需産業から起こったと漏れ聞く。テクノロジーや科学はおびただしい化学兵器を(人類史上初めてわが国に落とされた原子爆弾、アメリカ国から)今も生み出し、軍需産業が栄える。だが人類に平和は遠い。格差はとめどなく広がる。最近新聞で読んだ気がするのだが【正義とは分け与えることである】との哲学者キケロの言葉。(だったと思う、定かではない)

 戦後も76年、被爆者の苦悩は続いていて多くの方は、超高齢である。生まれていなかった、知らなかったでは済まされない、世界の大多数の弱者 、闇に葬られ消えてゆく無辜の人々の声に、耳を傾ける勇気を持たないといけないと、術後間もない老凡夫は自省する。

 アフガニスタンに散った尊敬する中村哲先生は、日本人の感覚からは程遠い 峻険な霊峰の下、苛酷な大地で、自然と最も弱い底辺の民に寄り添いながら、雪解け水による農と牧畜で、生活をし、極めて普通にまっとうにイスラムの神をよりどころに感謝して生きている、文字も読めない、庶民の姿を何十年も前から伝えている。

先生は逝かれたが、銃を置いたアフガニスタンの民と共に、十数年かけて、温暖化で干上がった干ばつの大地に用水路をまさに 創造し、緑の大地として蘇らせたた奇蹟は私の筆力では到底語りえない。

歴史的に長い間、大国の緩衝地帯としての不条理を、生きてこなければ来なければならなかった、アフガニスタンの民の痛みを、心血を注いで伝えた、先生の偉業は何としても五十鈴川だよりに書いておかねばならない。偉大な死者は、今を生きるあらゆる困難な民の一隅を照らす。

著作を(アフガニスタンの診療所から・ダラエ・ヌールの道・始め、初期の作品に私はびっくりした、20年近く前)通じて、一滴一滴未知の世界の現実を伝え続けてくださったのである。今となっては永遠に刻まれる生き方、お仕事をなさったのだと、あらためて畏怖心服する。

自主独立、自給自活、流血のない穏やかな生活 をこそが神の愛だと、中村先生は全身全霊でつづり伝えている。術後間もない初老男の私だが、これからの行く末いかに生きるべきか、心がいまだに揺れるのは、リハビリ生活が良き方に向かっているからだと思うことにしている。


 

 

 

 

 

2021-04-15

T氏が労働リハビリの相棒をしてくれる、そして想う⑤

 体動かしリハビリ労働を、お医者様の言うとおりに始めて、今日でほぼ10日が経つ。自分でも、いわば古希にも近いわが体が、こんなにも早く回復し、以前の様にはまだはかいかないものの、働ける面白さ、楽しさのような感覚がいくばくか戻りつつある。 

体重が少し戻り体全体に力が入るようになってきた。自然な動き、しゃがんだり立ったり、持ったり、引っ張ったり、そして何よりも歩くことをいやでも応でもしなくてはならないので、自分で労働リハビリの効果に驚いている。

それと私よりもずっと先輩で、いろんなお仕事を経験してこられたT氏が(専門は機械に強い技術者、肉体労働は定年後だがなんでも実によく知っている)私がいる午前中、自主的に 私の仕事を高齢なのに手伝ってくれるのである。

気の合うコンビで働くのは、実に面白い。これまでの人生で数回手術入院されているし、いろんな職種を経て生きてこられているので、人間としての包容力が大きく細かいことに実に気が廻る。私がちょっとでも動き過ぎようものなら、すぐストップがかかる。

どちらかといえば、文化畑馬鹿(みたいな)人生を歩んできた感のある私、アクションを起こさなかったらT氏とも出会えなかった。自分が不得手な分野に強い面白くユーモアのある相棒の存在は、私の晩年ライフを豊かにする。(私の知らないこと実学を教えてくれる)

術後いうことがない環境で、T氏と共に午前中働けるのは晩年時間の過ごし方としては、望外のリハビリ、喜びである。歩んできた道が異なるものとの晩年の出会い。

前期と後期の高齢者が、限りなくストレスがなく、青空の元コンビで仲良く馬鹿なことを言い合いながら働けるなんてことは、思いもしなかった。

ともあれ、今のところ自分の年齢にしては、順調に回復しているのがわかるけれど、筋力も肺活量も、そうは簡単には戻ってくれない。くれぐれも無理しないでゆっくり労働を 楽しもうと思っている。

春爛漫の時節、午前中深呼吸を繰り返し、つま先と丹田を意識し、天を仰いでただただ今を歩くのである。




2021-04-12

術後リハビリしながら、たまっていた新聞に目を通す、そして想う④

朝が来た。とはいっても夜明け前、外はまだ暗い。もう何十回も、五十鈴川だよりを書き始めてから書いているが、この静かな時間帯が私は一番好きである。起きてまだ間がない体で、胡乱な状態で何かを綴る。

書きたいことのほとんどは、書き始めてその日の躰が、精神が発すること、想うことを綴っている。予期せぬ手術入院以前からそのことに変化はないが、あきらかに手術入院以前と以後では 初老男の肉体は変わってしまった。だからおのずと物思う心も緩やかに変容しつつある。

肉体労働リハビリのおかげで、ずいぶんと動け、こうやって五十鈴川だよりを書けるほどに気力は回復してはいるが、集中力、持続力他、いまだ以前のようには体は動いてはくれない。だが私はそのことをまったくネガティブには考えていない。

身体は思うに任せぬにもせよ、意外なことに心は以前には思い及びもしなかったようなことに、反応するようになってきたのである。それは一言でいえば、生まれて初めての手術入院で、弱者(生まれながらの難病、奇病、事故他、あらゆる運命の不遇、陥穽を生きておられる方たち)への想像力が爪の垢くらいにもせよ、以前にもまして感じるようになってきたのだ。(ように感じている)。

話は変わるが、手術入院、後退後、ししばらく新聞や本をまったく読む気がしなかったのだが、五十鈴川だよりを書けるまえから、新聞や本もようやく読めるようになってきた。読む速度は以前よりずっと遅いのだが、じっくり落ち着いて読める。

体重が落ち(いちきろもどった)筋力が萎え、肺活量が落ち、息が上がりやすいので、オーバーではなく、細心の注意をわが体に払いながら、落ち着いて動かざるを得ない。そのことを、今私は前向きに、ポジティブにとらえながらリハビリしている。

約2週間かけて、たまっていた新聞にも、ざっとではあるがようやく目を通すことができた。幸い時間があるので、亀のように。こころが反応した記事は、以前のように切り抜いた。

話は変わる。自分のことだけで精一杯のこのひと月以上の間、ミャンマーでの悲惨極まる、一般民衆へのジェノサイドには、こころが痛く疼く。理不尽、不条理、言葉がむなしい。虐げられる側の(子供や若い女性)人々に想いをはせる一人の初老男子でありたい。

都会では、ミャンマー人や日本人の有志がSNSで声を上げ、ネットや街頭で、NOの意志表示の輪が広がり始めている。一人一人が我が身に置き換えての想像力、良心を持ちたい。見て見ぬふり、無知、無関心、無教養、、、。五十鈴川だよりを書く一人の人間として、何としてもNOの声を上げ、意思表示を継続持続し、同じ思いを共有できる方々と連帯したい。

 

 


2021-04-10

初めての手術入院で考えたこと。そして想う⓷

またもやちょっと真面目な⓷回目の 五十鈴川だより。午前中は肉体労働に復帰し、土曜日お休みの日の朝である。

極めて個人的に、今日思うこと、考えていることを つれづれ、雑記録ふうに書いておきたいと思う。さて、かなり以前のように生活するには支障がない程度に、身体が動けるようになり、何よりも青空の下で半日リハビリ労働ができることの幸運。幸せを噛みしめている。

わずか、ついひと月前はひーひー言いながら管をぶら下げ、病院のベッドでままならない身体での不自由、不安感の中、生と死についていやでもおもいを巡らさずにはいられない、今となってははなはだ、(もう2度としたくはないが)貴重な出来事を、この年齢で経験したことの重みを、退院後日々感じながら生活している。

なくしてみて初めて分かることがある。病院のベッドで、初老男の私は想うに任せぬ肉体と精神状況の中、(特に管が外れるまで)簡単に記せば、やはり生と死について、普段は考えないこと、もっと書けば考えても迷宮に陥りそうなことを、やはり出口のない穴の中に落ちたような気分で、考えていたようにおもえる。

あの稀な状況の中での自分と、今五十鈴川だよりを書いている自分は、同じ自分ではあるとは言えるが、あきらかに異なる肉体状況を今は生きている(生きられている)という認識である。

運命というものの摩訶不思議さに想いをはせずにはいられない。これは病気になるとかならないとかの次元の問題ではなく、ヒトは等しく何らかのアクシデントや事故になるやならない境界の上を、日々生きているのだという認識の深まりである。道とは未知である。

幸いなことに老いつつある肉体は回復し、退院でき、歩き動け、わずかとはいえ働け再起動。細胞は日々更新し、今現在の老いつつある日々の思いを五十鈴川だよりを書きながら更新(新しき自分という他者との問答交信)できるという有難さへの気づきの深まり。

先の見えないこのコロナ渦中生活の中で、私の身の上に突然起きた手術入院の出来事は、あきらかにこれまでやってきた、(やってこれた)生活、暮らし方、生き方を変容をさせる。

手術入院で思い知ったことを、いい方向に捉え反省し、自省し、これまで情熱を注いできたことが叶わなくなっても、けっして後悔しない、新しき細い道を家族や大切な方々と歩みたい。

2021-04-07

リハビリ開始からほぼ3週間、肉体労働アルバイトに復帰、そして想う⓶

 退院して2週間が経過、徐々に徐々に、本当にゆっくりと体は回復している(のがわかる)。だからうれしい。何をするにしても体が健やかでないと意欲というものがまったく湧いてこない。なにもできないのだということを、今回の手術入院で私は学んだ(ように思う)。

詳細にはつづれないが、腕には点滴、おなかには 5本の管をぶら下げ10日近く過ごした間は、本当に痛みと不自由さの中で、生きた心地にはあまりにも遠い、なんとも形容しがたい体験を私は69才の肉体年齢でした。

退院後、2週間が瞬く間に経過している。当初、家で何をするにも以前のようには体は動いてくれなかった。寝室と書斎を兼ねた部屋への階段の上り下りも、足の筋肉が衰えていて、すぐに息が上がり、なかなかに骨が折れ急激に老いを認識、実感した。

だが今これをかきながら(書くこともリハビリ)想うのは、身体というものは意欲を掻き立てる、言葉にならない、コトバにできないできない何か心の支えがないと、リハビリ他何一つ叶わないのだという厳然たる事実である。

だが体、命は玄妙精密、意識が働けば応えてくれる。退院後わずか一週間で肉体労働アルバイトの許可が出るまでに回復するとは思いもしなかった。M先生は管が外れたらとにかくわずかでも歩きなさいとおっしゃった。少々痛くとも不自由でも体の数値は快方に向かっているから動かせといわれたのである。(まったくその通りであった)

軟弱な私だが、術後食欲は全くなくても、出された病院食は時間をかけて3回ともほとんど平らげた。生きようという強い思い、回復するのだという意欲 はすべての管が外れた10日目あたり、M先生の言葉に従い院内の廊下を歩くことから再起、動き始めを開始した。少々痛くても動いた。休んでは歩き、休んでは歩きの反復、萎えた足の筋力アップから。

妻をはじめとする、家族の存在応援、孫の動画が大きく私の体を動かした。動く、とにかく動く。1日でも早く退院し、外の空気が吸いたかった。最後の1週間は院内のリハビリルームで担当の若い女性と共にリハビリをした。(この方がまた感じよかった)

院内のリハビリ開始を含めほぼ3週間、ずいぶんと歩けるようになり。昨日、一昨日と午前中肉体労働アルバイトを、私の体を案じてくださる75歳の先輩T氏と共に、何とかすることができた。お医者の許可が出たとはいうものの、不安がなかったといえばうそになる。が、あえて私はいやでも身体を天にゆだねる気持ちで、痩せて萎えた術後間もない体に活を入れ、草刈り機のエンジンをかけた。

エンジン音が春の天空に響き渡り、草刈り機を担いだ私は、以前の半分くらいの速さでゆっくりと動き始め草を刈ることに集中、何とか予定のエリヤの草刈りができた。案ずるよりも産むがやすし。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。T氏が私の早い復帰をことさらに喜んでくれた。

体の意識がやる気になれば動くということ、勇気をもって事に当たることの大事を再認識した。T氏というかけがえのない相棒と、馬鹿な冗談を言い合いながらの愉しいリハビリ労働は、家での一人リハビリとは比較にならない効果がある。

生命力そのものの、春の息吹の植物、樹木、雲雀その他の野鳥に囲まれ、青空の元雲を眺めながらの肉体労働は、うってつけのリハビリだと得心した。

食生活も一変、お酒は一切口にしなくなった。飲食も、生活習慣も古希を前にすべて反省、見直すことにした。(なんだか面白みのない初老男になるやもしれぬ)元の体重に戻り、ある程度の筋力が戻るまで、リハビリ期間とすることにした。


2021-04-05

69才で初めての手術をし、久方ぶりの五十鈴川だより。そして想う①

2月末ごろから夜になると発熱し、すでに体調がおかしい中 、熱がさがっていたとき、2月最後に書いて以来の五十鈴川だより。

実は 3月5日緊急入院、即手術、23日に退院、その後家でリハビリ療養を続けています。おかげさまで今日が4月5日、長い文章はまだ無理ですが、わずかでも五十鈴川だよりを書ける喜びを嚙みしめている。

世の中に出て半世紀、69才で突然我が身を襲った病名は肝膿腫。肝臓に膿がたまり、敗血症と診断され即手術入院していたのである。

手術はほかに肺にたまった水を抽出したり、胸壁にたまった血を採りだしたり、全身麻酔、部分麻酔で数日おきに3回行われた。幸い術後の経過は良好で、退院後 こんなにも早く五十鈴川だよりが書けるまで回復している。

おもわぬ、予期せぬ手術入院は、生きていることの不思議や有難さを、あらためてわが肉体を通し、直に痛みや不自由さを体験したことで、以前にもまして噛みしめられる自分が生まれたように感じている。

直観的なおもいや、本能的な感性に頼り、何とか半世紀を生きることができてきた私であったのだ、との幸運をこの度の手術入院で思い知った。その間、もともと痩せて幼少期から頑健な肉体ではなかったのに、世の中に出て徐々に丈夫になり、知らず知らずのうちに身体をいたわることを忘れを酷使していたのだと。そのつけが半世紀の節目に顕れたのだと思い知った、のである。

退院後、先日の検査でM先生から(良き先生に私は出会えた)半日くらいなら肉体労働に復帰しても構わないとの許可が下りた。この2年アルバイトをしている先の上司に連絡、事の推移を報告したところ、リハビリを兼ねて働いてほしいとの思いがけぬお言葉をいただき、実は今日から無理のない範囲で体を動かすことにしたのである。

実はまだまだ、以前のようには動けないし(動かない) 体重が5キロやせ、筋力が弱くなっているので、ある程度仕事ができるまでの筋力を、リハビリを兼ねて取り戻したいとの思いなのである。

私よりずっと先輩のTさんが、家でリハビリするより、職場でリハビリした方がいいとおっしゃってくださったのでその言葉に従うことにしたのである。