昨日午前中4週間ぶりに、手術してくださったM先生の定期健診にゆき、血液検査をした。結果は随分よくなってますよ、とのお言葉。血液検査でえられる、肝臓のあらゆる機能の数値が正常値なっていたのである。
この数十年の中でもっともよく改善していた。お酒を飲んでいたころには定期健診では一向に改善しなかった機能数値が、嘘のように改善していたのである、我ながら驚いた。
世の中に出てから覚えたお酒、50年近くの生活習慣依存、この細い体の肝臓がよくぞ持ちこたえてくれていたものである。若い時は酔うことに酔っていた。(若さを持て余し、これは致し方ない)
自分の愚かな馬鹿さ加減を、今更反省しても遅いのかもしれないが、半世紀ギリギリのところで、悪運強くM先生の手術のおかげで(現代医学の)生きながらえることができた現実を、自分のつたない語彙では表現しかねるほどに、厳粛に今私は受け止めている。
お酒を辞めたことで、今後どのように自分が変化してゆくのか、ゆかないのか、老いつつもハムレットの ように思案のしどころ、これもまた天啓と受けとめる勇気を持ちたいのである。このようなことがつづれるのも、身体が復調しつつあるからである。
このような数値結果をみて、M先生は次回の検診は3ヶ月後にしましょうということになった。次回は7月の半ば、暑い季節、コロナの世相の行く末もさることながら、まずは自分の老いゆく体はどのように変化しているだろうか。(どこか能天気に面白がりたい、天邪鬼は治らない)
話は変わるが、世の中に出て折々(ふつうは誰でも)各年代ごとに、がけっぷちに立たされた経験が私にはある。(もう二度とご免である)私が何とかこの年齢まで生き延びることができたのは、時代と友人と運に恵まれたことと、親からしつけられた自分を信じ、追いつめられると、乏しい生活の中環境を変え、必然的に自分を変えてきたからではないかと考えている。
この度の手術入院は客観的に考えると、平和裏に推移してゆく個人的な時の流れの中で、久しく訪れていなかったがけっぷちが、ある日突然、外的(敵)にではなく内的に顕れたのだと、今はすこぶる謙虚に受け止めている。
父は齢80過ぎまで生きて、(兄によれば最後まで弱みを見せなかったという)亡くなる半年前に書いた文章が残っている。私は寿命のことをこの度の手術入院で初めて真剣に向き合えた気がするが、退院後、かなり回復するにつれ、死のことを考えるのはやめようと、縁起でもないとの絶対矛盾を生きる、今朝の五十鈴川だよりである。