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2019-06-30

今日の音読輪読会のために、久しぶりにハムレットを読む。

外は梅雨空、雨は今のところ落ちていない。おそらく終日降ったりやんだりが続くのだろう。歳を重ねると暑さ寒さ、湿度他あらゆる気象条件に身体が敏感に反応するのがよくわかる。

まあ、例えば起きても今朝などは、体が重く感じたりするするのである。でもまあ、私には五十鈴川だよりという、体調調節機能があるおかげで、どんよりと曇りがちなわが頭と体を、上向き加減にすることが可能である。

私だって生き物だから、ふさぎ込みたくなったり、エネルギーを放出して茫然としたりすることはあるのだが、そこは年の功と、健康のおかげで対処できる。今のところ、掃除やささやかな手料理、散歩、水風呂等々で、気分転換を図り、音読ほか集中しないとできないことに、まあカッコつければ挑んでいる。

あえて、身体が重く感じたりするときには、ゆっくりと体を動かし、体操感覚でごろりゆるりと、ただの15分でもわが体を動かしていると、何やら気分は上向いてくるのが経験上わかっている。

いろんな翻訳で読むのが愉しい、学べる。
さて、私は本を読むのが遅い(読む本にもよるが)、今日はハムレットの音読輪読会である。時間を見つけて昨日までに久しぶりに一人で、ぶつぶつと音読しながら運動公園で読み終えた。(オフの日は、時間帯に応じて基本的に多読するのが私の読書)

一時間集中持続して音読することは、 この年齢になるとなかなかに負荷がかかる。酸欠になってあくびが出る。だが意欲の自己確認のためにも続けている。できる今を苦楽する。

ところで、先日のロミオとジュリエットの発表会で、音読輪読会のチラシを配った効果が、お一人ではあるが あった。連続して来られる方がおられるし、思いついて4回目が早できるのであるから、ちりも積もればの気持ちで、参加人数の多寡ではなく、良き時間を過ごしたいと考える。

還暦を過ぎて思いつきで始めたシェイクスピアの音読、はや7年目も半ばになろうかとしているが、身体は老いゆくのに、精神時間ははどこか時間が止まったかのように 、シェイクスピアの創造した言葉に、耳を澄ます感覚はいまだ深まっている。だから続けられる。

ヒトは呼吸を一瞬たりとも止められない器、呼吸を繰り返す。生きていることの始原の感覚、生まれてから息を引き取るまで万人に与えられた、それぞれの寿命は高貴の別なく、平等である。生きて今ある感覚を音読ををしながら、参加者と共有したい。

面白おかしく、時に大変悲しく在ろうとも、それこそがこの世との普遍は、あまねくシェイクスピアが全作品の中で、コトバに込めているところである。音のシャワーを浴びる。

ハムレットは答えのない問いを続ける。死の間際、最後の生き(息)コトバ、あとは沈黙。

2019-06-29

妻がフルタイムの仕事を辞め、二人で過ごす時間が増えてきた、そして想う。

目覚めて今日も一日が始まる。ちょっと妻のことを書いておきたい。先月妻は13年間フルタイムで働いてきた事務職の仕事を辞めた。当初は還暦まで働くといっていたのだが、諸事情で本人が決めた。

一口に13年、よく働いたと思う。彼女の働きなくして二人の娘を大学に行かせることはまず無理であったから、母親の底力のすごさをその間度々認識し、今に至っている。

私としては大いに結構、とてもうれしく思っている。妻は自分のことが五十鈴川だよりに書かれるのを嫌がるので、もうここいらでやめるが、フルタイムで働くのはやめたが、すでに歩いてゆける距離の西大寺の児童館で、週に数日働く仕事を見つけてきた。

ともあれ夏の終わり、次女が結婚式を挙げるので、それまではのんびりと過ごしてほしいとの思いである。妻も私もフルには無理だが 、働くことは苦にならないので、可能な範囲でうまく回ればとの思いである。

そのような流れで、平日もこのところ、雨の日私が家にいると妻もいるといった按配で、これからはいよいよ妻と共に過ごす時間が再び増えてきたのが、私としてはうれしいのである。(別々の部屋でお互いかってに過ごしている)
養老先生の本は繰り返し読む、ことにしている。

五十鈴川だよりには書いていないが、春先私のアルバイト先の空き地を、上司が 使っていいというので、今その12畳くらいのスペースに、ジャガイモや、サツマイモを母の指導の下に育てているのだが、まだ少し余裕があったので、先日の夕方母と妻と3人で枝豆を30本植えに行った。

もっと老いたら、土に親しむことは母との約束なので、今からずっと折を見て続けてゆきつもりである。(無心に雑草を抜き土に触れていると実に気持ちがいい)

昨日は午前中家から車で15分くらいのところにある瀬戸内市の図書館(この図書館が私は気に入っている)に二人で出かけ一時間以上過ごし、本を借りてその足で母をピックアップして、久しぶりに3人で和風のお店でランチをした。

妻が母と私に御馳走してくれた。妻は本当に母の面倒をよく見ているし、母もまた妻のことを頼りにしながらも、いまだ自立してのひとり暮らし。私にあのような凛とした晩年が過ごせるだろうか。隠者のような見事なひとり暮らしに憧れる。

人生の幕引きをいかに迎えるか、迎えられるのかは、今日の日々の過ごし方にかかっているに違いない。五十鈴川だよりを書き続けている煩悩は、きっとその日のための準備の 一端であるやもしれぬ、といった気もする。

2019-06-28

ロミオとジュリエットは、私に老いらくの夢を再確認させ、私は老いゆく時間を生きる。

起きると梅雨の晴れ間、というか二階の窓から青空が望める。今月はもうアルバイトがないし、ようやくにしてロミオとジュリエットの良き疲れが、身体から抜けつつある朝である。

ぼーっと青空に浮かぶ様々な濃淡、筋状の雲を眺めていると、わが体から拙文が紡がれてくる、何よりも自由自在なわが小さき体が、今日も生きて在ることの感覚を研ぎ澄ます ことができるのは幸福である。

人間は不自由であるからこそ、自由になれた時がうれしいという逆説に成り立つ。おなかがすく身体があるからこそ、食事が美味しい。7年目の発表会、ロミオとジュリエットはきっと後年、あと何回発表会をやれるかはわからないが、遊声塾にとって節目の年になったといえる発表会となった。

わが頭は昨日から、ゆっくりと次に向かいつつある。雨上がりの夕方運動公園に行き、一人で声を出した。持参した作品はハムレット。というのは6月30日4回目の音読輪読会があるからである。
無名時代の蜷川演出を10代の終わり新宿で観れたことはおもいでの宝である

何事も発案したら、実現実践しないとむなしい。いま考えてみると、思春期から思いついたり、考えたりしたことを、かろうじて平凡な生活の中で、いろんな方のお世話になりながら、非日常的な事に情熱を費やし、実現することを繰り返してきた、その過程をいまだ生きているというのが、わがささやかな人生なのである。(という気がしている)

夢を生きる獏という存在に近いかもしれないが、夢を自己実現するためには、現実のあらゆる困難に立ち向かう勇気がないと、まずは無理である。勇気というものはどこから生まれてくるのであろうか。そのことについて費やす 、書く時間がいまはないが、振り返ると18歳からささやかに自己実現を繰り返し自分を信じながら、勇気の持てる体を作り続けて今があるのではないかとの、思いである。

全く何の希望も勇気もないまま、私は世の中に飛び出た。あれから半世紀の時が流れ、確実に私は老いゆく渦中をさまよいながら生きている。親としての役割を何とか終え、さあいよいよこれから、どれほどの健康に過ごせる時間の余白があるのかは、神のみぞ知るというところ。や

もし、私が父の年齢まで生きることが可能だとしたら、あと十数年。よく生きるという言葉をよく聞くが、よく生きるとはどういうことか。そんなこんなややこしいことを、自分に問う勇気を持続しながら、声を出しながらシェイクスピアのコトバと格闘するおのれという存在を日々確認したい、もうただそれだけでもいい、との思いなのである。

あれもこれもはやれないし、一つだけに焦点を絞ってこれからは生きてゆきたい、のである。そういう意味で道半ばで終わる可能性が高いが、遊声塾の面々音読で出会えた方々とシェイクスピアの創造した魅力的な登場人物の台詞、コトバを日々声に出して、遊ぶことが私の老いらくの夢である。

2019-06-25

第27回 奥村旭翠独演会を大丸心斎橋劇場で聴くことができました。(私の感性はますます過去に回帰する)

Gw明けのころのことだったと思うが、新聞で筑前琵琶名手の人間国宝であられる奥村旭翠さんと落語家の桂南光さんの対談記事を読み、一年に一度という個人の会の演奏会が6月23日大阪であることを知り、遊声塾の発表会の翌日なので、行くことに決め、問い合わせ番号切り抜いた。

だが時すでに遅し、私が電話をした日にはすでに完売とのことであった。だが、私はあきらめなかった。発表会の翌日、疲れ切っていた 体を休めながら読みたかった本を片手に在来線でゆっくりと大阪に向かった。

車中何度も居眠りをしながら心斎橋の大丸の14階にある劇場についたのが、午前11時頃、完売との表示が見えた。とにかく場所は確認できたので、開園午後2時。開場の1時半まで近辺を散策し、お昼を済ませることにし、時間までめったに来ることのない盛り場での一時を過ごした。

ゆっくりと昼食を済ませ、13時半過ぎ再び277席の劇場へ。個人の会の事務局の方が受付におられたので、事情を話し、もしキャンセルがあればとお願いし、運試し私は待った。万が一聴くことがかなわねば、大阪でしか出会えないようなものでも観るつもりであったが、運は私に味方した。

私と同世代くらいの、まことに品のいい女性が開園5分前、遠くからわざわざ起こしくださいましてありがとうございますと、(実にきれいな日本語だった)ティケットを持ってきてくださった。スタンバイしていたのは私一人であった。

やはりあきらめないでよかった。ロミオとジュリエットを終えたばかりのわが体は、いい意味での虚脱感があり、それを埋めるには聴いたこともない、筑前琵琶の音色が 、語りが、と直感が働いたのである。

筑前琵琶は魂を鎮めるための演奏と語りである。開演、幕が開くと一人の女性が琵琶を持ち端座して静かに琵琶を奏で、語り掛けるように歌いだすと、会場は水を打ったようにしずまりかえった。

生まれて初めて耳にする、筑前琵琶の世界。途中講談のゲストが入り(この方も素晴らしかった)人間国宝は3曲語り演奏された。声と音が疲れ切った体に沁み行ってきた。突然、静けさや岩に染み入る蝉の声という芭蕉の句が浮かんだ。筑前琵琶、この世界に比類ない芸能は日本人の感性が生み出しえた独特のものであると、再認識した。午後4時前に終演。

 事務局の女性にお礼を伝え、すぐに梅田に向かい在来線に飛び乗った。虚脱感に満ちていたわが体は、息を吹き返し帰りはずっと本を読み続けた。(頭の片隅で、琵琶の音色と声の余韻が響いていた、日本人の感性の繊細さはいずこへ、私の中であの感性にあやかり、日本語でのシェイクスピア音読に少しでも迫りたいと思わぬインスピレーションを得た)

人間国宝は、一言もしゃべらず、ただ演奏し語った。その姿たたずまいはこの世の物とは思えないほどに崇高で、まるで菩薩のようであった。

あの世とこの世をつなぐ、日本が生み出した奥深き芸能の一つ筑前琵琶を、ロミオとジュリエットの発表会の翌日 に出遭えた幸運を、きちんと五十鈴川だよりに記しておきたい。


2019-06-23

第6回シェイクスピア遊声塾発表会を終えた翌朝に想う、とりとめなき五十鈴川だより。

疲れているが頭はどこかさえている。第六回目のシェイクスピア遊声塾の発表会、ロミオとジュリエットを無事に終えることができた。そのことだけでも、わが五十鈴川だよりにきちんと書いておきたい。

6回目にしてようやく達成感の持てた発表会ができた。塾生と私の7名で挑戦した朗誦による発表会。あらためてロミオとジュリエットという作品の素晴らしさが、この一年音読し続けたおかげでこの年齢で再び沁みた。6名の塾生にはこの場を借りて深く感謝を。

昨夜は全員ではなかったが、塾生と遊声塾 をこよなく応援してくださるT氏7名で打ち上げ。久しぶりに心から愉しくおいしいお酒をいただいた。

2次会、何と私がカラオケに行こうといい、自ら歌をうたったのはいつ以来か。塾生の歌う姿も初めて見た。みんな各々の世界が、歌に反映されていた。楽しかった。心地よく酔い、同じ電車でT氏と共に家に向かった。

最後の一杯は、T氏がコンビニで買ってきたウイスキーを、二人東岡山の駅のベンチで。こんなにまでわが塾をほめてくれるのには、大恐縮である。ほとんど褒められることの少ない人生を送ってきた私であるので、一念発起遊声塾を立ち上げて報われた思いに満たされた。(T氏は一次会を持ってくださった、昨年のリア王の2次会に続いて)
我が家の妻の手入れによる今朝の紫陽花

大多羅でT氏と別れた。ナイスガイである。西大寺の駅に降り立つと、水田から蛙の合唱が聞こえてくる。しばし酔い覚まし。風に当たり酔狂なるもののけ思いにふける。こういう時間が私は大好きである。無為なるひと時。

蛙の合唱を聴くと、生家の真ん前に広がる幼少期の水田風景が蘇る。目線が低かったので広大な風景、ほかに何もなかった。今の季節、夜になると蛍が乱舞した。あの原風景、夏休み、晴れた日は毎日五十鈴川で惚けたように遊び続け、ぐっすりと眠った少年期に、わが心はたぶん正気の間はとこしえに回帰する。記憶の母はまだ若く、美しかった。

記憶の中に埋め込まれた、音への回帰、森のざわめき、生き物の聲音、台風の風の音、せせらぎ水の音、自分の心臓の鼓動 、物売りの聲等々。わが体は記憶で成り立つ、思い出の宝が全財産、その幸福ノスタルジー感覚で繰り返し今を生きる(エネルギーが湧いてくる)。

年齢を忘れさせるほど、いまだロミオとジュリエットのあの純粋さに、一途さに私は打たれる。あのような作品を書いたW・シェイクスピア、途方もない。煩悩に揺らぎながら、今しばらく塾生と共にシェイクスピアを音読しながら、答えのない問いを死者たちの側から思考してゆく勇気をロミオとジュリエットは私に示唆する。


2019-06-22

ロミオとジュリエットは老いらくの体に、再びインスピレーションをもたらす。

忙中閑あり、時間的余裕のない朝の、それでも書かずにはいられない五十鈴川だよりである。今日は第6回目のシェイクスピア遊声塾発表会ロミオとジュリエットの日である。

昨夜最後のレッスンを終え、普段よりずっと遅く休んだにもかかわらず、5時間熟睡したらすきっと目が覚め、めったにあげないお線香を点て、てをあわせた。

雨の予報で心配していたのだが、今のところ外は雨もなく穏やかな朝である。午後まで持つことを願うしかない。昨日はいつもより短い時間で稽古を終えたが、何とか発表できるところまでは、こぎついたかの安ど感につつまれた。

初めてみた舞台蜷川幸雄演出のロミオとジュリエットのパンフ
何よりも、塾生のチームワークが、世代が多岐に及んでいるにもかかわらず、稽古を共に積み重ねてきたなにかが塾生同士を、いわば同志的感覚で結び付けているのかもしれない。

共に汗をかき、ともに苦しんだ仲間というものは、やはりかけがえがなく尊いものであると感じた、昨夜の帰り道であった。

と、ここまで書いたらもうほかに書くことがなくなったのだが、あとはひとりでも多くの方に足を運んでもらえたらと思うだけである。このような気持ちに私がなっているのは、塾生が年々成長しているからである。

世の中に発表できる程度の域にようやくにして、達してきた塾生の姿を見ていただきたいし、やはりシェイクスピア作品の言葉の自在な面白さ、物言う言葉の術 の妙味の一端を味わってほしいからである。

私はようやくにして、シェイクスピア遊声塾の存在をもっともっと知っていただきたく、終えたらきちんとした 名刺作りから始めるつもりである。

時間の都合でここからは端折るが、青春期にロミオとジュリエット出遭えた私は大いなるインスピレーションを得たが(たとえ若気の至りではあれ)、老春期再びロミオとジュリエットと再会し、またもやささやかにインスピレーションを得たかのような面持ちなのである。


2019-06-21

第4回目のシェイクスピア音読輪読会に寄せての末尾の一文を書く。

間違いの喜劇・十二夜・ロミオとジュリエットに続いて、6月30日天神山文化プラザで行われる(午後1時から5時)第四回目の音読・輪読はハムレット。生きている間は何度でも声に出したくなる言葉・ことば・コトバに満ちた、私に懐疑的に生きることを知らしめた、蠱惑的な作品です。長いので2回に分けて音読します。次回は7月21日か、28日の予定です。是非ご参加ください。

上記の一文は、 第4回目の~シェイクスピア音読輪読会に寄せて~の末尾に足した一文です。遊声塾のNさんのおかげでロミオとジュリエットの発表会の時にPRできる。

いよいよ発表会が明日に迫り、すっかり頭はロミオとジュリエットモードだが、きっと終えたら、また新たなことが始まりそうな予感がする。どういうものか体は老いてゆくのに、シェイクスピア作品を持続的に音読しているおかげで、わが内的な宇宙はいまだ、元気であるのは、ありがたいというほかなしである。


何度も書いているから、もうあまり書きたくはないのだが、瓢箪から駒、本当にお気楽に、だが当人は真剣に塾を立ち上げたのである。がしかしこの数年以前にもまして音読することが、苦読的な中に、喜びのような感覚が深まるのを覚えるわが老いらくの体なのである。

老いらくの体に染み入る花の色
 この感覚の持続が許す間は、今しばらく音読輪読会を持続したいし、もちろんシェイクスピア遊声塾ももっともっと進化(深化)したいと考えている 。そのためには私自身が音読の稽古を学び重ねなければと、思わずにはいられない。

どういえばいいか、登ったものにしか見えない景色というか、音読し続けてきたからこそ感じる息の深まりが声となって、わが体からの音となって放たれる心地よさのような感覚をようやくにして感じ始めたのである。

それはもちろん、【生と死】シェイクスピア作品の登場人物の言葉が、いま生きている私をとらえて離さないからである。 中でもハムレットの言葉はやはり繰り返し音読せずにはいられない。



2019-06-18

今日の新聞から、琴線に触れる記事を見つける。

夜明け前の一時が私の最も好きな時間帯であることは、もう何十回も五十鈴川だよりで書いているから、またかと思われる方もいるかもわからないが、今朝もこの書き出しである。

昨夜きれいな月を眺めながら、9時過ぎに横になったら午前4時前眼が覚めたので、いつもより早く目が覚めたので思い切って起きた。もうすぐ夏至、日が長くまだ涼しい早朝の時間帯が、気持ちがよくていいのである。

この早朝の数時間は私にとって本当に一人静かに物思いに浸れる、一日の中での黄金の時間帯、つまりたぶん十分な睡眠によって、新鮮になったかすかな脳細胞が、古い脳細胞と入れ替わったかのような、錯覚にも似た気分にさせてくれるからだろう。

今日もお天気、これからアルバイト前の一時、気分な萎えるような新聞報道ほかには 、目も耳もかさず、自分の五感を解き放ち、自分の現在を気持ちよくしてくれる報道ほかにはは目を通し、我が家のささやかな妻が手入れしている庭の草花を眺め英気を入れる私である。

さて、話題を変えるが起きてすぐコーヒーを淹れ、しばし日曜日の書評を読んだ。本当に夜読むのとは全く違った感覚で、すらすらと読めるのがうれしい。私の場合だが物事の思考判断決断時間帯は、午前中に限るとのおもいは一段と深まる。

好奇心なくしては男が廃る
書評以外にも目を通していたら、日ごろからこの方の書かれた文章は必ず読む 保坂正康氏の月一回連載の、【昭和史のかたち】が目に入り、じっくりと読んだ。

落ち着いて、じっくりと読みごたえのある視点、論点、また蒙が開かれるかのような論考に接することができるのが、私が新聞を購読している理由である。はっきりと書くが新聞報道のほとんどは読まない。

ひどい書き方だが、広告他ほとんど私にとってはごみのような紙面から、これはと唸るような記事や、書評他、私の脳細胞を 活性化する文章を見つける。見つける喜び。

そのような記事に出会うためには、わが体が新鮮でないとなかなか疲れた体では染み入ってこないのである。私はだから疲れているときには、ひたすら体を休める。これは年齢を重ねるにしたがってそうなのである。

朝、一日のはじめに信頼できる方の文章に触れる。一日何か琴線に触れるような文章を見つけたいと思う。今日という日は今日だけである。



2019-06-16

雨上がり、朝いちばん運動公園でロミオとジュリエットを音読する一日の始まり。

昨日は雨が一日中降り続き、ちょっとした買い物以外に家を出ることがなく過ごした。夜半から雨がやみ、真夜中の寝室の部屋から美しい月が望めた。

朝起きてみるとお天気なので、五十鈴川だよりを書きあげたら、公園まで声出しに出掛けようと思っている。夜は稽古、それまでは発表会のための心身の充実に宛てたいと思う。

稽古といっても声を出し続ければいいというものではない。古き良きDVD作品を見たりして、精神のビタミン、気分転換に良き本の文字を書いたり、近所を散歩したり、昼風呂に入って体操したりと、私なりにロミオとジュリエットの稽古に向かう準備が必要なのである。

集中したら弛緩する。その加減の繰り返し、今回はとにかく役柄が変化に富んでいる。セリフの量は大したことはないのだが、2幕(も少し声を出すが)以外はほとんど要所要所でいろんな役柄を音読するので、気持ちの切り替えが実にこれまた集中を要するのである。

でも、音読を繰り返すことで昨日までは感じなかったような音というか、声がこの老いゆく身体からいまだ発せられる、だからこそ続けられているのだということが覚るのである、繰り返しの音読以外に私には方法がない。

こればかりは死ぬまで変わらないだろうという自覚があるが、自分でも何という不器用なキャラであるのか、時折自己嫌悪に陥りそうになるが、早朝のお天気の空に裸足で立つと、さあ、今日も声を発したくなるのが不思議である。(日向人的な単細胞人間である)
一度この方の本を読もうと思っていた

きっとこれも丸6年以上継続してきたからこその、何かからのご褒美といえるのではないかと、大地の上で安堵し、声を出せる今を天を仰いで感謝する私である。

そして永遠の繰り返し、幸福とは何か、生きていることの意味とは何か、なあんて答えのない問いを、おもいつつシェイクスピア作品を音読するのだが手ごわい。シェイクスピア作品を音読して晩年ライフを生きようと思いついたことは、慶賀というほかはない。

ハムレットは言う、【雀一羽落ちるのも神の摂理】と運動公園の木の葉一枚落ちるのも、季節が廻るのも、麦畑が色づくのも、万物が移ろいゆき果てに実りその命をいただけるのも神の摂理、なあんて殊勝な感覚がさえてくるのも、声を出すことで体の隅々に呼吸の深まりと共に、酸素が行き渡るからではないかと、おもえる。

無になってお経を唱えるかのように、魅力的な登場人物の台詞を音読し続けると、何やらの御利益があると、わが体が実感している。

きっと、大昔から人は労働し体を動かし、作物を育て、文字が書けなくても読めなくても、念仏を唱え歌い踊り、 きっと自分という存在と無意識の自己対話を朝日を浴びながら、星を眺めながら、夕日を浴びながらやっていたに違いないと確信する。

昔には帰れないが、この超音速デジタル社会の中で、いかに心の在り様のバランスをとって生きればいいのか、それは正直にわが体が喜ぶことにこそ夢中になる、以外に 私にはほかに方法がない。


2019-06-15

ロミオとジュリエットの発表会当日の一文を書きあげ、そして想う。

9日以来の五十鈴川だより。すでに書いたがとにかくロミオとジュリエットの発表会をベストコンディションで迎えるために、そこに照準を当てた日々を過ごしているがために、五十鈴川だよりにまで、思いがいたらぬわが日々の暮らし、どうかご寛恕願います。

さて、いよいよ 来週の今日はロミオとジュリエットの発表会である。今朝一番、よく休んだ体で、当日来られた方々への一文を何とか書きあげることができた。

気楽に書ける五十鈴川だよりと違って、やはりいつもとはちょっと異なる感じでのいちぶんとなった。でもまあ、音読することも五十鈴川だよりも私にとっては、今や私の暮らしには欠かせない、必須ライフなのであるから 、紙幅の中に収めることができてほっとしている。

7年目にして、6回目の発表会ができるなんて夢のようである。特に今年は主に乳母役で初参加のOさん、昨年から参加されいきなりケントの大役を音読し 、今年はジュリエットをよむNさんの加入ほかで、塾生6名の士気がチームワークよく彩られている。

多くの登場人物を、一人が何役も音読しなければならないわが塾の宿命は変わらないが、こればかりは仕方がない。当日来られたお客様は面食らうかもしれないが、重ねて書くが致し方ない、のである。
読めないと思いますが、お時間あればいらしてください。

シェイクスピア遊声塾と銘打って立ち上げた塾、年々シェイクスピアのコトバを声に出して読みたいという塾生の参加が増えてきていることが、ことのほか私にはうれしい。

その塾生たちが、自主的に発表会の会場交渉、チラシの配布のお願い、また素敵なチラシの作成、人物相関図あらすじ等の作成などをやっている。

塾長の至らぬところを、補って余りあるほど素敵な塾生がいるということの驚きである。数ではなく、中身なのである。

本当に何かを創造的に(想像的に)やろうと思えば数人でもきっと面白いことができると思わせる面々が、特に今年から集っている。そのことがまた老いゆく中で私を活性化させる。

この面々で、シェイクスピア作品ばかりではなく、いよいよ日本の作家の作品も読みたいという気が、私の中でにわかに湧き上がってきつつある。

私自身がますます学まねばならないという気に、いやがうえにもさせる塾生たちである。簡単には妥協せず続けてきたこと、情熱がぶつかり合う稽古なくして生きた声は出ない。このような奇特な塾生と共に、全員でロミオとジュリエットの発表会を乗り切りたい。

2019-06-09

6月22日、ロミオとジュリエットの発表会、塾生たちがコトバと格闘する姿を是非聴いていただきたく思う。

いよいよロミオとジュリエットの発表会まであと2週間と迫ってきた。今夜からの日曜日のレッスンも含め、あと5回レッスンし本番に臨むことになる。

私も含め、なかなかにシェイクスピアのコトバに命を吹き込み、朗誦することは至難である。でも私は塾生たちが、毎週毎週声を出し続けた姿を一番よく知っている。

私の塾に参加してくださっている 6名の貴重な塾生が少しでも、声を生きいきと出せるように、私としては微力を尽くしてギリギリまでのレッスンを積み上げたいと、それだけである。

そのためには、私自身がコンディションを崩すといけないので、とにかくよく寝てよく食べて、私も多くの異なる性格の役柄を一日に一回は声を出すようにしている。

好きこそものの上手なれ、というがしかりであると実感する。やはり、どこか声を出すことが好きだからこそ、続けられるのである。とくに現代人と異なるというか、エネルギーがあふれた時代の経験したこともない役柄が多い、シェイクスピアの登場人物の台詞は、異なる国の旅人になったかのように、つまりは遊ぶことが可能なのが、醍醐味である。

まあ早い話、普段の日常生活ではありえない言葉遣いで遊ぶことができる、そのことがシェイクスピアの劇を、いま生きているわが体で声に出せることが面白く、また簡単にはよじ登れない嶮しい詩的劇言語だから、挑みたくなるのである。

今回私は、小さな役も含め6名の役を音読する。(間違いの喜劇を一人で全役読んだことはあるが)登場人物が多いロミオとジュリエット、苦肉の果て、このようなことになっているのだが、私は人数が少ないからこそ、いろんな役を声に出して遊ぶのだというくらいの覚悟なのだが、やはり言うは易くである。

塾生のNさんが作ってくれた素晴らしい人物相関図、あらすじ、役名
登場シーンが少なくても、そのキャラクターに存在感をだして、音読することは実に難しい。昨年はリア王のみだったので、リアに集中できたが、今回は多面的役柄の集中持続切り替えが瞬時に必要なので、まるで落語のように頭のスイッチ切り替えに挑んでいる。

ロミオとジュリエットは一役だが、ほかの塾生は私と同じような思いを抱きながらレッスンを積み重ねているに違いない。

わが塾では男性が少ないので、今回もまた女性が多くの男性キャラクターを音読する。そのことはやったもののみが知る、難しさである。ベンヴォ―リオ を読むMさん、マーキューシオを読むAさんは四苦八苦している。(まあみんな四苦八苦しているが)

でも、挑んだもののみが体感できる域にまでようやくにして達してきつつある。そのことが私にはうれしい。自分の体でその役柄と格闘し、自分の体にその役柄がなじむまで音読を繰り返すと、何かみんな一回り大きくなったかのような。

本当に、シェイクスピアの創造した、運命と格闘する登場人物たちを音読すると、いやがうえにも精神と肉体がいつの間にか鍛えられるのである。

その格闘し続けた塾生のロミオとジュリエットの発表会、一人でも多くの方に来ていただきたいと願わずにはいられない。

2019-06-08

ロミオとジュリエットの発表会を終えたら、孫の望晃くんに会い、そのあと時間を見つけて五十鈴川で沐浴したい。

昨日は久方ぶりの、とくに午前中は雨脚が強く、その雨音を聴きながら、最後のロミオとジュリエットの案内作業に費やした。

ほぼ30通以上、墨をすってあて名を書いて、すべてに万年筆で一筆入れるので、とにかく時間がかかるのであるが、それが一番私には似合っているし、一番それがしっくりする、何よりもそういうふうに過ごせる時間があるということの、ありがたさをこの封書作業は確認することができる。

このようなことがない限り、お葉書を書いたり、手紙を書いたりするような感覚で便りを相手のことを想像しながら書くなんてことはない、だからはなはだ貴重な時間なのである。

ほとんど岡山にやってきて縁を得た方々に 、ロミオとジュリエットの発表会の案内を出すという形で、私の現在の暮らしぶりの一端を、知っていただくのは有難いというほかはない。

今回はとくに、もうほとんどお会いすることもなくなってしまった方々にも、もうこれが最後の案内になるかもしれないという思いで一筆入れ、これまでのご厚誼に感謝し、投函した。

私がデジタルに頼るのは五十鈴川だよりと、よほどのことがない限り はパソコンに向かわないが、便利さのスパイラルにはゆめゆめ気をつけないと、どこか足元をすくわれるという、生き物的な本能が私を不便さの方にと私をシフトさせるのだ。

だが、娘たちの若い世代のデジタルとの向かい合い方を見ると、やはりそれなりにバランスをとって上手に生活の中で、使いこなしているので、要はやはり人間性の問題なのである。

文明の利器というものは、利害や兵器や衝突での他者の存在の不幸を無視し、自分たちの道具としてのみ優先使用、自国の民ファーストであっては、これから先の時代あってはならないと私は考える。

水の惑星に生きるすべての民が、まずは飢えない程度の食物の連鎖ができるように、食料のキープ、その環境の維持にこそ生かすためにこそ、デジタル世代の若い能力をこそ生かしてほしいと、私などは考える。

だから、若い方々がプラスチックごみ問題や、銃の規制問題や、少数マイノリティの問題等、あらゆる利便さの上の負の問題に、ややもするとまたかとマイナス思考に陥りがちであるのに、果敢に挑んでいる報道なんかに接すると、どこかで初老男はほっとするし、やはり若さゆえの、その柔軟な発想に脱帽するのである。
いい歳であるからこそ体について学びたい私である

孫に恵まれてからというもの、孫たちがこれから生きてゆく未来の、環境問題ほかに以前に比してだが、関心が湧いてきている。悲しいかな人間が第一人称的な、自分中心からしか世界をとらえられない、不自由な生き物であるとは認識はしている。(がそこを何とかしたい)

が生々流転、死者と生者の不滅の連鎖、循環は永遠なのであるから、旧態依然たる経済原則ではこの惑星はごみほかの、人類の負の遺産で 見る影もなくなるのではと危惧してしまう。

安全な水や、食糧が確保できる。惑星環境のサステナビリティ をこそが、これからの未来最も重要であるとの認識を、私などの凡夫でさえ考える。ではどうするか。

そのための新しいモラルライフの実践、老い方、老いる方法を考えたい。五十鈴川のせせらぎの音を聞きながら、太古からの命の循環の果てに今、自分がここに存在している有難さを想う。ロミオとジュリエットの発表会を終えたら、五十鈴川で沐浴したい。

2019-06-04

一昨日シェイクスピアの輪読会に参加されたN氏と長ーい昼食、談論風発、愉快なひと時を過ごしました。

一昨日の輪読会の後、ちょっと遅くなったが同年代の男3人で軽く飲みながら昼食をした。T氏は短時間で退座、残った私とN氏とで話が盛り上がり、思わぬ長時間の昼食となった。

結局、場所を二度ほど変え、夕方まで飲み語り合った 。量は大したことはないのだが(ほんとうに外でお酒を飲まなくなった。もうこれまで十分に飲んだし、飲んで語り合いたい知人も少なく、そのような時間も、いまは私にはもったいないのだ)N氏とこんなに話が続いたことが我ながら意外だった。

氏とは正直これまで、二人きりで語り合ったことは一度もなく(短い時間ならあるが)氏のことに関しても、映画に関して詳しく、一家言ある方である、というくらいの認識しかなかったが、どこかに誠実なぶきっちょな性格が匂っていて、お会いするたびに好感を持っていた。

そのような方が何故か、私の思い付きシェイクスピアの輪読会に3回連続して参加してくださったそのことに、私はある種どこか感動していたのである。

古希(推定するだけ年齢はどうでもいい)近くの体で、おそらく普段聲など出してもおられない身体を押して、参加してくださったその事実に、どこかで私は打たれていたのである。

人間何をするにしてもエネルギーがいる。がシェイクスピアの輪読はやってみればわかるが、ことさらの集中力、持続力なくしては、なかなかに困難なのである。

ことに現代人は人前で恥をかいたりすることが、ことのほか苦手である。私だってそうである。初めて出会った他者といきなり輪読しながら声を出しあうのは、普通に考えてもかなりの勇気を振り絞らないと無理である。

ではなぜ、N氏は連続して参加してくださっているのか、謎めいているのだが、指紋と同じように人それぞれ声紋というものがある、人間はAIではない。人それぞれ声音が異なる。

そのことが素晴らしいのである。どんなに聲の出ない小さき音しか出なくても、ヒトは言葉を操る、身体という器から逃れられない。

N氏は私がやろうとしている体と聲 との関係性に関心を持たれて参加されているとのこと。私は体の芯から声を発することの気持ちのよさを、61歳でシェイクスピア遊声塾を立ち上げて7年目にしてようやく少し、声を出す喜びのような感覚がわかってきつつある。

書評を読むのが私の楽。しみの一つ、です
20行くらいの長いセリフを、かぼそいわが体で 流れるように発するのはなかなかに骨が折れるが、一言でいえばやりがいがあるし、シェイクスピアの詩的言葉は、いくら声に出しても飽きが来ないから、きっとやれるのだろう。

ともあれ、遊声塾のレッスンと輪読会は全く異なる。何はともあれ一人で読むのではなく、他者の前で自分の声をさらしだす勇気をもって参加するだけで十分である。

人間は変化する器、変化するには他者との関係性の中で、おのれをさらけ出し、自分という器の可能性を見つけてゆける存在であると、私は考える。

旨い下手とか、低次元の話ではなく、自分の体から自分の声を見つけてゆく勇気をこそが、肝要なのである。自分の体がしおれるのかしおれないで、小さき花を咲かせるのかは、ハムレットが問いかけるように、永遠のそれが問題なのである。

特効薬はないが、人間は勇気を持ちうる器である、他者の前でいい意味で恥のかきっこができる輪読会をこそ私はやりたいのである。

ロミオとジュリエットはある面、勇気の物語でもある。最後にN氏に一言、あなたの勇気に勇気をもらいました。久しぶりに妙味ある人間と 語り合え、愉快でおいしいお酒でした。この場を借りて感謝します。

2019-06-02

第3回シェイクスピア音読輪読会の朝に想う。

今日は午前中、岡山のきらめきプラザで第3回目の、音読輪読会である。間違いの喜劇、十二夜、に続いて音読するのはロミオとジュリエットである。

理由はことさらにない。シェイクスピア遊声塾を始めたのも、輪読会を始めたのも自然の流れである。でもまあ、何はともあれ3回目をやれることが、ささやかに嬉しい。

遊声塾の発表会に向けての真っ最中なので、輪読会についての言及、告知はほとんどしていないが、連続して参加される方が5名ほどいるので十分に成り立つし、連続して参加される方がいるということが、喜びである。

日々の暮らしの中に、ささやかにありがたいいっときが、刻めるような過ごし方ができるように、凡夫の私の体はいまだ囁く。紋切型ライフにややもするとわが体は安きに流れる。安きに流れるのを否定しているのではない。わが脳は怠惰である。

だが、怠惰がなにもまた生まないことも、わが脳は知っている。だから、そのせめぎ合い的な絶対矛盾をこそ生きねばならないのが、宿命ではないかと考える。

理屈はともかく、言葉にすると陳腐だが行動実践することの中から、かすかな光を感知するしかない。くたびれるまで声を出すと、実によく眠れる。よく眠った体はよく働く。

日々の循環的なシンプルライフが、遊声塾をはじめて極めて深まってきているのをわが体が、実感している。

6年前に求めた本・言葉がない。
単なる思い付きで始めたことだが、翻訳日本語の言霊を繰り返し音読していると、時折言霊がわが体に忍び寄ってきて、わが体に乗り移り、変身してゆくかのような、いい意味でのエクスタシー感覚を昨年のリア王の発表会あたりから、かすかに感じ始めている。

日本語なるものでできている、わが体の有難さを、シェイクスピアの翻訳日本語のコトバ を繰り返し音読することで、初老の体にいまだ精気が蘇るのである。これこそ、私が遊声塾を立ち上げた、無意識のうちに求めていたものであるのかもしれない。

老いゆく渦中のさなか、あえてあらがうかのように音読を持続する中で、ロミオやマーキューシオ、ティボルトほか、思春期の若者の声を音読すると、にわかに初老の体の奥深くに眠っていた、忘れていた自分が立ち上がってくるかのような錯覚に陥るのである。

老いゆく中での未知との遭遇、自分とは何か、自分はなぜいまここに存在しているのか、自分はどこから来たのか、なあんてことを、柄にもなくシェイクスピアのコトバを音読していると、考える。スフィンクスの謎である。

この世界は、ヒトは不条理、謎だらけ、だから面白い(と思いたい側を私は生きる)。このような感覚を共有できるかのような ヒトとの輪読会を私はもとめているのかも。


2019-06-01

枯れないために五十鈴川だよりは流れる。

6月に入った。午前中だけとはいえ、週に4日(雨の日はお休み)ほどアルバイトをしているせいか、毎週毎週があっという間に過ぎるし、土日のお休みがやはりことのほかうれしい。

毎日が日曜日という暮らし向きには、やはり私はまだ老いつつもいまだ若く、どこかに負荷がかかった生活というものが、私に合っているのだという気がする。

世の中に出てから、いろんなアルバイトや仕事をしてきたが、圧倒的に仕事に関する価値観が覆ったというか、いやというほど青春の終わりを足掛け3年富良野で過ごした経験がいま思えば、私を変えたのだと、いまはっきりとわかる。

どのような仕事であれ、与えられた仕事の中で何とか生活し、食って生きるのだといういわば覚悟のようなものが座ったように思う。肉体労働者の素晴らしさを私は富良野の畑に這いつくばる出面(でめん)のおばさんたちから学んだ。

以来、一番苦手とした肉体労働が、とんと苦にならないというか、苦にならないように肉体をうまく持続して使いこなす知恵のような感覚が生まれ、いまだ細くて筋肉も少ない初老の体であるが、十分に動ける身体を維持できている。有難いというしかない。
素晴らしい御本、佐藤優氏は真の知の肉体労働者・先生である。

わが老いらくの体をとの対話、まず動かしたらよく休むこと、次に栄養を良くとること、次によく学ぶこと(知的好奇心をなくさないこと)、そして私の場合旅をすることである。(他にもあるが割愛)

愛こそすべてならぬ、身体こそすべてと、初老の今実感する。少年老い易く学成り難し、というが、まさに然りであるけれども、でもまだやれることはたくさんあるのだ、そしてますますやりたいことが湧いてくるわが体がある。でなければ五十鈴川だよりは枯れた川になってしまう。

一日でもそうはならないようにするには、かくあるべきかと、わが体に問うしかないではないか。 同じような生活をしていてはどこかが倦んで、飽きが来る体質のわたしだが、飽きがこない打ち込めるものを持つことが一番肝心である。

そういう意味で、還暦を過ぎシェイクスピアのコトバを朗誦することを思い付き、始めたのは 好運であったというしかない。これは声を出せる間は飽きることがない、と断言できる。だが、生き物の摂理、年齢と共に筋肉も衰え声量も落ちる。

しからばと、またもや自分に問うのである。その時はその時腹をくくるのである。これまでの人生、やれるだけのことをやっていると、次の何かが待っていてくれる。(くれた)

だから、先のことは考えず、今はかろうじて声が出せているのだから、今の声を出すのである。このようなことはあまり書きたくはないのだが、内向きな同世代が多いように感じる、いまを楽しめない大人が。(もちろんお手本になる素敵に生きておられる先輩もいる)

私はアフリカをはじめとする異国の地で、貧しさの中でもカッコイイお年寄りを数多く見てきた。ものにあふれ囲まれ、精神的に貧しき人生より 、何も持たずに、だが肝心な事を見失わずにいられるような、ライフをこそ目指したい。

命さえもが、資本の論理の渦に飲み込まれてしまう、危険極まる時代の渦にはできる限り近づきたくはない、初老の私である。