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2018-09-09

何か見えない世界に、静かに手を合わせる

酷暑の夏が過ぎ去ったかと思えば、9月に入り矢継ぎ早に、台風や地震が関西や北海道を襲い、その爪痕の痛ましさ、捜索が行われていて、行方の分からない方が、おられることに関しては言葉がない。

身を切られるような経験や体験をすることもなく、孫を眺められている現実、平凡で非凡な日々にただただ感謝する私である。

ところで、昨日から次女もわずか3日ではあるが里帰りしていて、孫の望晃くんを中心に我が家はにぎやかである。ひさびさに家族の声が満ちている

このような平凡な日々の営みが、ある日突然の災害で突然断ち切られたら、私はどうなるのであろうか。そのようなことを想像するだけで、 ゾッとしてしまう。家族というかけがえのない関係性。

誠に運命の先行きはわからない、ある日突然不条理な世界に投げ込まれる、わが家族にも起こりうるのである。年齢を重ねるにつれて、生きる姿勢がシンプルになりつつある、もっと書けば多面的にシンプルな生活を心かけている(つもりである)。

できるだけ、華美な生活を避け(しようとはまるで思わない)リアのセリフではないが、老いてゆく中で、今まで気づかなかったようなことに価値を見出す、わずかではあるが気づくようにな心かける。これこそが、老いつつある幸徳であるのかもしれない。
ようやく石牟礼道子さんの御本を手にしている

本当に大切で大事なことは目に見えない、とは、よく聞く言葉ではある。これまでの人生、見えたり、聞こえたりすることに右往左往しながら、ほとんどの時間を費やしてしまいがちであった私を変えたいのである。

一年近くの間、リアの言葉に寄り添ってきて想うのは、理不尽、不条理な世界にある日突然放り込まれた時の、人間のあまりの不毛な無力感である。でもそれは、悲しいかな、そのような境遇に置かれたもの(運命)にしか、永遠に感知できない。(こころの闇の奥深さ)

リアは言う、気違いにしないでくれ、気違いにはなりたくないと。 忍耐の鏡になりたいと。

いくつになっても、いまだ人間存在の魂のたゆたう危うさから 逃れられない自分を感じる。見えない世界をほんのわずかでも感知したり想像することに重きを置く生活にシフトしたく念う私である。(よしんばかなわなくても)




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