中世夢が原の囲炉裏のある屋敷で、かなりの時間を40歳から退職するまで過ごし、そののちW・シェイクスピアが生きた400年前の作品を声に出す日々をこの5年間過ごし、思うことは自分自身がますますもって、現代文明社会生活に適応できなくなってきている、というまぎれもない自己認識である。
そういう自己認識をもって日々を生きる私であるが、そのように書くと、どこか悲しい、寂しい気配がただようが、本人は意外とそれをどこかで楽しんでいる。
今やデジタルワールドの世界からは逃れようもなく、ちゃっかり五十鈴川だよりが書けることだって、デジタルのおかげなのであるから、我ながらの絶対矛盾的可笑しさである。
何事もバランス、我が初老生活、この世界この時代に生きているものの宿命的な現世を、いかにやりくりやり過ごし、おのれの居場所(体を風通しよく)をいくばくかでも確保するには、これまで生きてきた中で身につけた知恵を、生かすにしくはない。
あだや真面目に時代に迎合せず、柳に風と 受け流し、今ある手の届く範囲での、俊敏には動けない身体との対話を繰り返しながらの、ゆったりライフをこそ楽しむこと、こそが冥利なのだとの、今のところの思いである。
絶対矛盾、これまで手にしなかった方の本も手にしている |
さていきなり話は変わるが、 歳と共に記憶力が弱まってくるというのは事実である。リアの長いセリフを可能なら繰り返し声に出す中で、暗記に挑戦したいと考えて実行してみて思ったことなのだが、若い時の何倍もの時間を要した。
老いてゆく中、現世的な時間がますます短くなってゆく中で、台詞を体に記憶する時間は ますます増えてゆく。だがこれを悲観的にとらえる必要は全くないと私は考えている。
老いてゆく中で、暗記力が衰えるのは当たり前ではないか。だがささやかに、まだ言葉を繰り返し発する中で、かろうじて言葉は体のどこかに、よしんば瞬時には出てこなくても蓄積されてゆくのだということが、分かったからである。
老いてゆく中での発見である。若い時より何倍も時間はかかるのだが、言葉がすらすら出てくるときの嬉しさは、若い時の比ではない。
遊声塾を立ち上げた時に思ったことは、老いてゆくこれからの時間を、シェイクスピアの言葉を声に出すことで、わが体と向かい合いたいと考えたのである。
あれから瞬く間に5年、私の体はシェイクスピアの言葉で、何とかかろうじて磨かれ生の充実を生き延びている。
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