いよいよあと数日で、GWである。このたびは妻と二人で、車での帰省旅を予定している。遊声塾のレッスンも、カルチャー教室もGWはオフとなるので、私もオフタイムにしかできないことをやる予定でいる。
日常生活を充実させるためには、ときおりのオフタイムが私の場合どうしても必要だ。自分でもわけのわからない、コントロールできないなにかが、いまだ突き動かす。その懊悩が生きていることの証左なのかも。
想えば田舎者丸出し、まだ少年の残り香が抜けきらず、18歳で世の中に飛び出してから、なんともはや、あわただしき時代の推移の渦の中を、なんとか泳いで現在に至っているわけだが、いまだ時折、私は考える。
なぜこうもあわただしくも手帳片手に、(還暦まで私は手帳を持ったことがない)予定表を消化するかのように、動き回るのかと。超高速インターネット時代のさなか、いったい何を求めて動き回るのかと。(私は手ぶらをこよなく愛する)
答えは、分からない。目には見えない、まさに風の中に在るのかもしれない。いきなり話は変わる。 弓を始めたことで何やら新しき世界に触れている、ことを何回か前の五十鈴川だよりに書いた。
そしてまたも話は変わる。いま塾でリア王を読んでいるのだが、その中に眼を失ったグロスターのセリフに、【目が見えた時はよくつまずいたものだ】という言葉がある。
GWはゆっくりと本を読みたいものです。 |
脈絡がなくて申し訳ないが、人間という葦のような存在は、悲しいかな何かをなくさない限り、本質的には、なにも見つけられないのではないかと、リア王をこの歳で読むと考えさせられる。
で、話は弓に戻る。昨日雨の中、夕方塾の前に、道場で素引きを、たまたま一人で静かないっときを過ごしていたのだが、弓を射るという世界は、限りなく静かで、長く厳しい修業が伴う。
またもや無謀にも、弓を始めてしまったのも何かのお導き、無理のない範囲で徳山道場に通い続けたい。道場にただただ立って、弓を構えて引くまでの一連の動作を、ただただ反復するだけなのだが限りなく難しい。が私の内なる心のどこかは楽しんで喜んでいる。
わが内なる見えない世界が、ほんの少しでも見えるようになることを願い、弓の所作時間を大切にしたい。水はつかめず、風や空気は見えず、愛も見えず、考えると、人間にとって最も大切な、こころや物事は 見えない世界にこそ存在する。
弓をひきながら、声を出しながら、土を耕しながら、見えない世界を少しでも感知する力を蓄えたいと、念じる初老の私がいる。
0 件のコメント:
コメントを投稿