もちろん背後に控える半田山の様子も、まるで生きて動いているかのように変化する。まさに万物が、生き生き躍動する春、私自身もその春を、今年は例年になくささやか極まる幸福感に、満たされているかのように動いている。
枯れかけていた竹韻庵の柿の木の芽吹き |
こんなことは昨年まではなかったなかったことだから、なにやら新しき、私にとっての春なのである。人間界の、まさにかまびすしいほどの、あれやこれやの報道をしり目に、初老の私は、呆けたようにひたすらバカになって、大地の草の根に立ち向かう。
草を抜きその根に、目を限りなく近づけると、信じられないほどの十重二十重の根が土に絡みついている。その生命力のすさまじさたるや、私ののあやふやな心根をはるか凌駕してやまない。
私は雑草の生命力に脱帽しながらも、母のように雑草取りに戯れながら、手先を動かし続けながら、老いてゆきたく念じる。
老いてゆく晩年時間、可能な範囲で 何かを楽しみながら発見できないものかと、頭の中のシナプスの根を、雑草のように伸ばす方法のようなことを念じ夢見るのである。
考える。思う。に続いて最近とみに気に入っている言葉が念じるという言葉、 今と心という文字が合わさっている、調べてみようと思うが、まあわたくしごときが思いつくことである。
竹韻庵の野草の花名前を調べるつもり |
昔から大多数の名もなき貧しき民衆は、念じることの中にしか、ほかに道が見いだせなかったのではないのかと 、はたと思い当たる。
念じることの中で、にわかに菩薩的感覚が肉体のどこかに宿ったような感覚が生まれるまで人々は、祈り唱えたのではないのかと思える。
そこに、歌や踊り絵画ほかの多種多様な芸術の神様が生まれたような気がしてくる。生きてればこそ念じることが可能だ。
そこにさかしらな、現世的なご利益などを期待するのは、浅はか至極という気がする。何も願わずただただ、昔の人は念じたのだと思える。
私は現代文明という素晴らしさを享受しながらも、それに胡坐をかきたくはないという絶対矛盾を生きている。
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