家人は寝静まり珍しく私だけがおきている。今日も早朝に起きてから、中断していた黒川創さんの小説【岩場の上から】を読み終え(おすすめします)、竹韻庵にゆき戻って、お休みの妻と外で昼食をし、少し昼寝をして図書館に行5時まで過ごしてから、弓の稽古に出掛けるといった、一日であった。
S氏に借りた本、自然界の野草をもっと学びたいものだ |
一日の過ごし方の、おおよそのパターンがほぼ決まりつつあるが、生きている わが体は下り坂の中、微妙に変化し続けている。そのこと苦楽しめる(変な言葉遣いですが)自分がいて面白がっている。
おそらくは変化し続けているからこそ、このような能天気的な、のらりくらり五十鈴川だよりが書けるのであるとしか言いようがない。まさに自己愛ここに極まれるかのような、ブログであるが、いたし方なし、ご寛恕願うしかない。
さて、弓に話に戻るが、今日も稽古を終えて空を見ると、三日月が浮かんでいた。本当に私は月が大好きである。ただただ目がゆく。
月が満ち欠けするように、自分の体も心も、微妙に変化する 。毎週土曜日夜、一日休んだだけで通っている。0からのスタート、まさか弓を自分が始めることになるなんてことは、皆目考えもしなかった。
何事もそうだが、見るとやるとでは大違いである。改めて そのことの当たり前さが、大いに新鮮な今夜の私である。自分の息子くらいの先生に手とり足取り倣っている。
まことに持って、所作全般に神経を集中しないといけない。これはある意味、まったくシェイクスピアを声にだして読むことに通ずるのである。
疲れているので、これ以上書くのは控えるが、弓の稽古と、シェイクスピアを声に出すことは、表と裏のような感じで、この両方を訓練することで、私にとっては裡に向かうベクトルと、外に向かうベクトルとでもいった感じで、身体がこの年齢まで経験したことがないような驚きを感じている。
弓、まことに持って奥深い。弓之町と天神山で私の老春の苦楽は今しばらく続くことになる。
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