今日はこれから、高知へ家族旅行に出掛ける。母と娘も一緒というのは初めてではないかという気がする。
おそらく一番喜んでいるのは母である。このところ母のことを書くことが多いが致し方ない。実の親とは、(代わりに兄や姉がしてくれていたのでその点はよかった)このような旅をすることがかなわなかったので、私としても実にうれしい。
妻は、私と母が仲良くしていることがうれしいらしい。最近は妻と同じくらい、ひとり暮らしの母の様子を散歩がてら訪ねるくらいの仲である。
あの年齢で、いまだ義理の息子である私に結構気を遣う母であるが、この数年の家庭菜園の師弟関係で、ぐっと他人行儀でなくなってきた。
すべてのことに言えるが、関係性を深めるのには、共通の時間を過ごすということがやはり大きいと思う。 母のシンプルライフ、ここに極まる、といったかのような生き方を間近に接している私としては、なぜこのような欲の少ない生き方が可能なのかを、少しでも学びたいと思っている。
彼女にとっての、生きがいのような孫である下の娘との旅は、きっとおそらく特別なのだと思う。人間に暮らしで一番の宝は、やはりその人にとってかけがえのない大切な何かを、持てているか、いかんではないかと、思える。
私もそうだが、特定の宗教的な感覚 を持ち合わせていない、いい加減な生き方が大部のような日本人であるが、お墓参りは欠かさず祖先を敬い、未来の子供や孫の幸せを願うのは、大方の人々のごく普通の心性のように私には思われる。
だが、戦後のとくにバブル後の、家族という概念が一気に崩壊しかかっているような、多面的にあらゆる価値観がまるでタガが外れかかってきているような時代状況が訪れてきている、不気味さを感じているのは私だけではあるまい。
良し悪しは置くとしても、戦前まで極めて普通の日本人なら、普通に持ち合わせていた いたような共通感覚が、個人主義的民主主義のなかで、失われてきている現実を、私は痛感する。
だから、私に家族ができた時、うろたえつつもどうしたらいいものかと、考えつつ
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