2000年に他界したので17年目、時折お線香を手向けるが、もちろん命日には欠かしたことがない。歳を重ねるにつけ、亡き父の声が私自身の体に響くようになってきた。
私は幼少年期、あまりにも怖かった父から逃げたくて逃げたくてしようがなかったが、いまはあの父の息子に生まれてきてよかったと、こころから思える自分がいる。
厳格といえば、もうこのころはそのような父親は皆無であるように思える。良し悪しではなく、頑固なまでの、理解されなくても自分の雰囲気を醸し出す大正男の存在感。
私は自分でいうのもなんだが、あの苦手だった父親に、自分がだんだんと近づきつつあるようなきがしてきている。
竹韻庵で焚火をする私 |
教職リタイア後は、碁を打つことと旅をすること、庭いじり以外は何もしないで、人生に幕を下ろした大正生まれの父。
戦後生まれで、日本の歴史始まって以来(かもしれない)というチャラチャラと浮かれた、戦後民主主義教育を受けた私は、思春期からことごとく父と、男4兄弟の中で一番対立した。
いまはそのことが遠い日の出来事であったかのように、懐かしく面出されるのはなぜなのだろう。
単に私が老いたということではないように思うのだが、このことに関しては今はブログで書くのは控える。
ともあれ、目の前に父はいないがいまだ父や母は私の中に、脈々と息づいているのだ。最近はあまり顔を出さないにもせよ、悩んだりしたときにはそっと父親の顔を浮かべたりする、父ならどうするかと。
最後まで父親の威厳を保ち、亡くなる半年まできちんと文章も書いていて、頭はしっかりしていた。何事につけ単純明快、豪放磊落、かといって繊細で、男は潔く在れと、私に訓示した。
また、男子たるもの一度決めたら死すとも不帰の気概でもって生きてゆけと、上京する放蕩息子 に言い放った。
そのように生きてきたわけでは全然ないひ弱な私だが、最後の最後になると父親のいろんな言葉が脳裏で響いたことは確かである。
親は選べず、至言である。強さとやさしさをバランスよく併せ持つということはまことにもって難しい。
時代の行く末は、全く予断を許さないほどに 混沌化しているが、あの両親が生きたように、おそらく私も歩んでゆくのではないかという気がする。
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