今年に入って、竹韻庵の道に根を張っている孟宗竹の根を少しずつ採る根気のいる労働を続けているのだが、その根が山になってきたので、濡れていて火事の心配がないので燃やした。
二時間ほどいて燃やしたのだがとても短時間では燃やしきれなかったが、半分近くは燃やすことができた。
根を採るのは大変だが燃やすのは簡単である。あれほどふてぶてしいまでに、私の全身に負担をかける孟宗竹の根も、乾いて水分がなくなるといとも簡単には灰になってしまう。
私だって干からびて、燃えてしまえば孟宗竹の根と大して変わらないということである。話があらぬ方向にそれるので止す。
竹韻庵の敷地には一体全体どれほどの根が縦横無尽に張っているのか、空恐ろしく感じてしまう。笹野根も含めれば、きっと私が生きている間に果敢に、根と 格闘してもおのずと勝負は見えている。
見えないからこそ、いくばくかの時間を根と格闘できるが、見えたらきっと戦意喪失してしまうに違いない。
がしかし北海道の開拓民に想いを馳せるまでもないが、世界中で人類は先ずは手と道具で、根と格闘しながら、田畑を広げてきたのだろう。
また、話があらぬ方に流れるので止すが、何事もほどほどにしないとやがてはとんでもないことになる。
竹韻庵で根が燃え、煙が空に吸い込まれてゆくのを眺めながら、ほどほどに在らぬことに想いを馳せる気まま時間は、なにものにも代えがたい。
まさに徒労のように、寒い冬場、根と過ごす竹韻庵時間は、この年齢だからこそ味わえる老春タイムとしては、はなはだ貴重な時間である。
もしや、孟宗の根と出合わなければ、私の妄想も育みようがないわけで、つるはしを振るうことで、私の脳裡の奥深くの毛細血管が刺激されるのであろう。
つるはしを振るうことは(声を出すこともそうだが)まさに体との対話なのである、と最近とみに実感する。
一日でも長くつるはしを振るえる体をキープしながら、自分自身と対話したいものだ。
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