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2017-02-22

佐藤優さんの御本から学び続ける。

体と心に余裕があるときにしか私の五十鈴川だよりはなかなかに書けない。この歳でいまだいろいろとやりたいこともあり、動き回りながら、週にに三回五十鈴川だよりをかけるいまの暮らしをことのほか私は楽しめている。

S氏が撮ってくれた竹韻庵での私と相棒メル


物事は始めたら必ず終わりが来る。必死という言葉がそれを端的に示している。おぎゃーとこの世に生を受け、やがてお迎えがくるまで、この世という舞台を、意識を持った人という生き物は右往左往と生きるしかない。

朝から何やら意味深ですが、私の脳は朝が一番物事を考えるのにはいいのでいたしかたない。とはいうものの、何事もあまり深刻には考えられない能天気な日向人なので、 ちょっとした食い物とお天道様があれば、なんとかなるといった塩梅でこの年齢までをしのいできた、ように思う。

もうこれからは悩みつつも(悩むことも人生の楽しみの一つである)、苦しむことはほどほどにして、ひたすら今日という日を在り難く過ごす、という一点に絞って歩めれば、と現時点で考える私だ。

書くことは考えることだと、頭のいい方がおっしゃっていらっしゃる。尊敬する井上ひさし大先生は、すべてのエッセイは自慢話だともおっしゃっていらっしゃる。まことに持って至言。

まあ、私の拙文などは単なる自己満足的、いい気なブログに過ぎないが、私にとっては自己管理、自己調整的な意味合いをもつ、いまや大切ないっときになっていることは自分が一番承知している。
孤軍奮闘するかのごときお仕事ぶりには驚嘆する

ところで何回か書いているかもしれないが、佐藤優さんという、私にとっては先生と呼びたいほどに、端倪すべからざる、いろんな知らないことを教えてくださる外交官から作家になられたかたの御著書を、2006年からなるべく読むように(羅針盤のように)こころかけている。

ちてきインテリジェンスにあふれ、視野が広く、その該博的な知識に裏打ちされた論の進め方、考察は、ちょっと群を抜いていて、この方のものの考えをかなり私は参考にしている。

でないと私のような単細胞は、すぐにあらぬ方向に持って行かれそうな不安を覚えるからである。複眼的な思考を持ち、我が身を懐疑的に生きる癖をつけないとまずいと、佐藤優さん(とても近しく感じるのだ)の御本を手にするたびに反省しきりの私だ。

芸術もそうだが、世界はあまりにも広く、学ぶことは無限にあり、人生は移ろいやすく気づいた時にはあまりにも短かし、といった気がする。

でもまあ、謙虚に物事を知る、学ぶということは大いなる楽しみ のひとつである。限られた時間のこれからを、佐藤優さんの御本から少しでも学びたいと思う私である。

ところで、明日から富良野塾2期生、山下澄人氏の芥川賞パーティに参加するため上京しますので、四日ほどパソコンを離れます。

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