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2017-01-25

妻のお誕生日の翌朝におもう。


昨日は妻の生誕の日だった。母もやってきて、娘も含め4人でささやかに我が家で夕食をともにした。

夕食後、こたつの周りに4人集まり、ケーキとお茶の団欒タイム。一時間以上、珍しく4人で話に花が咲き、寒いので母はお正月以来そのまま泊まった。

妻と私には性差も含め、年齢も8歳年下であり、生れ落ちた環境、性格も含めほとんど 共通するような部分が少ないのだが、出遭って31年、今も無事に暮らしている。

出逢いの、たまたまの妙というしかないものに導かれて、現在も同じ屋根の下で暮らしていられるありがたさというものを、節目節目に感じる。

このような極めて個人的なことを、臆面もなく五十鈴川だよりに書けるようになってきたのは、まぎれもなく、私が老いてきつつある証左だと思える。
このような方がおられると救われる

妻と私は東京の吉祥寺という街の、とある場所で出会ったのだが、その日のことは今もはっきりと記憶している。

(もっと老いたら書きたいという気持ちになるかもしれないが、今はまだ気恥ずかしい)

その日を境にして、私の人生はまさに大転回した、ということが覚る。オーバーではなく、その後から、私の人生にほのかな希望の光が灯り始めたのである。全身に生きるエネルギーが満ちてきた。

劇的という言葉があるが、演劇的に出会いが私を変えたというしかない。18歳から、私のような 人生を歩んできたものを理解し、伴侶として認めてくれる人は、そうはいないと思い込んでいた。

人間とは不可思議な器である。たった一人 認めてくれる伴侶の出現でこうも変化するのだから。

ところで話を変えるが、妻との数少ない共通性として感じるのは、お互い寒い季節に生まれていることと、戦後の貧しき暮らし向きの中でも、親の情愛に満ちた幼少期を送ったということくらいである。

昨夜も戦後の母の子育ての苦労話を、社会人なりたての娘も ともに聴けたことで、とてもいいお誕生会になった。

物質的に豊かさしか知らない世代が大部になり、(皮肉にも精神があまりにも脆弱になった)共通感覚が持ちえない家族が増えると、家族の情愛という根幹がなかなかに育みえないように思える。

話ていると、東京の長女からも妻にお祝いの電話が入った。(たまたま家族を持てた私だが、社会の最小の単位である家族というものが、このように揺らいでいる時代が訪れ ようとは思いもしなかった)

共働き核家族化の中での、親と子のいい意味での普遍的な情愛の深まる関係性を築いてゆくにはどうしたらいいのか。

それは私を含めた親の側が、真摯に己と向き合って各々千差万別の家庭を時間をかけて、築いてゆくほかに安易な方法など在るはずもない。

両親が寒風の中、辛抱する樹に花が咲くといっていたが、辛抱せよ、などと怒られた幼少期の記憶が生々しく今も残っている。怒っている両親が辛抱しているのだから、これに勝る教育はないのではないか。

親の姿を見て子は育つというが、けだし名言だろう。どのような時代に生れ落ちるにもせよ 。自分の足で歩いて、全身で居場所を、ささやかな手ごたえのある生活を見つけるしかないのだ。

いくらでも、言葉では書けるが、あとは実行できるかできないかで道は大きく分かれるというしかない。


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