とくに最近は大相撲人気が復活し、満員御礼が続き、若い魅力のある力士の活躍が目覚ましい今場所は、土俵が充実している。
昨日、私の好きな力士の一人、大関の稀勢の里が、悲願の初優勝と横綱の地位とを同時に手にした。ここは何としても、五十鈴川だよりに書いておかねばという気持ちなのだ。
高校生の時に見たロミオとジュリエットの映画のパンフレットがあった。 |
おもえば、我が家に小学4年生の時、白黒チャンネルガタガタのビクターのテレビが来た時から、
55年、栃若時代から現在に至るまでを可能な限り見続けている。
相撲に惹かれる魅力はなんだろうか 、と時折考える。それはきっと人間性というものが、丸裸で
如実に表れるということが在る、と私は考えている。
厳しいといえば、こんなにも厳しい稽古の、細部に至る様式化された美しい格闘技は、他国には類を見ない、国技といわれるゆえんである。
中学卒業と同時に相撲の世界に入り、15年かかって手中にした横綱の地位、もうあとのない最高位、キープしてゆくのは半端ではない。
男泣きという言葉が、日本語にはある。稀勢の里の涙には私も思わず涙してしまった。稀勢の里の愚直なまでの人間性に私は打たれたのである。
想えば、一途、愚直、いじらしさ、等々、古いのかもしれないが、私は絶滅危惧種的な、損得に限りなく遠い、すっきりとした雰囲気を持った人に惹かれる。
稀勢の里は、限りなくそんなぶきっちょで潔い性格を、いまだこの時代の中で持ち合わせている、強くて優しい稀な力士である。
私は彼の相撲に何度地団駄踏んだかわからないが、その果てだからこそ感動もひとしおであった。無事是名馬というが、親からいただいた頑健な体と、ひとえに腐らず稽古を重ね続けることで、手にした賜物というしかない。試練を乗り越えない限り人間は、やはり磨かれないのだ。
稀勢の里のご両親の姿が、何度も映し出されたが、ご両親の人格も映し出されていた。母の涙、父親の威厳、まさに古き良き昭和の面影をはっきりと視た。
このご両親あればこそなのだ。私は稀勢の里が最後の仕切りのあとの、すっくと立ちあがる姿の美しさに驚く。175キロの体を両足のつま先で支えて、天に向かって立ち上がり相手とまみえる。
相撲は勝負ばかりではまったくない。心の強さ美しさが土俵に顕れる。序ノ口から汗まみれ土まみれになって修行を重ねて、地位が上がるにしたがって、顔に品格風格が備わってゆく。
平等、自由、正義、愛、等々、血や汗の通わない空虚で軽い政治家や経済人教育者、の言葉が、跳梁跋扈してやまないご時世だが、民主主義とは何なのか?大人の発する言葉には責任が伴うのが当たり前であるはずだが、この世の関節が外れた、タガがゆるんだご時世に、明かりを灯す。
稀勢の里の姿は、私自身の生活をも照らし出す。男同士が裸でぶつかり合う潔さ、文字を書いていると時折むなしくなる。
体を動かし、おいしくご飯を頂き、疲れたら眠る。限りなく上下(かみしも)なくシンプルに生活したいものだ。
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