どのような大所高尚な文章を書いても、人間は日々の雑多なこまごまとした雑事からは私のような生活者は逃れようもないし、そのじたばた庶民の一初老男のあがきのようなものが、これから歳を重ねるにつれて出てくるのではないかという気がしてならない。
ともあれあれやこれやを抱えながら、小さき命の流れはあっちいったりこっちいったりを繰り返しながら、可能な限りナチュラルに流れてゆくしか方法がない。
ところで話は変わるが、M新聞の今朝の平和を語るという記事の中で、作家の高村薫さんが語っておられることがほとんど正論であるとの認識を持ちながら私も読んだ。
安全保障法案が通過し、いったいこの国の行く末がどのようになってゆくのかについての議論や高まりは、残念ながら私の生活圏ではあまりにも少ないが、私はいち個人として最低の思考はし続けないと、危ない危ないと自分に言い聞かせているつもりである。
まずは謙虚に現代史、知ることが肝要だと自分に言い聞かせています |
いきなりだが、平和というもののために軍隊を持ち、国家として暴走してしまうのを止めるためには、憲法というものをきちんと国民が考えて創り上げてゆく力を持たないと、為政者にいいように解釈され、気が付いた時には国民に死者が(まず自衛隊員)でる。
どのような国づくりをするのかは、やはり国民が国是としての、民主主義の憲法をきちんと練り上げる力を持たないといけないと、と私は思う。
70年間の平和な時代の大部分を享受できた世代としては、つぎの世代がということもさることながら、理想に過ぎないと笑われるにせよ、世界が穏やかでないと安穏とはしていられないという気持ちである。
つつましく、その日を何とかいくばくかのユーモアをもって呼吸できる在り難き立憲民主主義だけは、宝として手放したくはないとの思いである。
お亡くなりになった尊敬する作家の城山三郎さんが言っておられたと記憶するが、戦争に負けてたった一つよかったことは、平和憲法を手に入れたことだけだと。
あまたの戦死者の上に築かれた、この戦死者の出なかった70年間の平和というものだけは、次の世代にも手渡さなければ、申し訳ないという思いである。
今年も全国民が穏やかに桜を愛でることができるということが何よりもうれしく、平凡のへの感謝を込めて、発表会を終えたら束の間お墓参りにゆきたい私である。