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2015-10-31

結婚記念日に100本の玉ねぎを植える。

もう長いこと五十鈴川だよりにお付き合いいただいている方は、またかと思われるかもしれないが、今日は我々夫婦の結婚記念日である。

結婚した当初は、ハロウィンなんてことすら知らない私たちであったが、昨今のハロウィンの大流行は、特に都市部においては大変なものらしい。

流行やブームにははなはだもって、距離を置くような生き方を心かけているので、ぴんとは来ないのであるが、このブームが一過性ではなく、どのように定着してゆくのかは、いくばくかの興味が起きてきた。

ハロウィンの日と、結婚記念日がたまたま重なっているだけなのだが 、単にお祝い日が重なっているにすぎないにせよ、単細胞の私はそこはかとなくおめでたい気分に浸るのである。

とはいっても、他国の収穫を祝う宗教的な行事に、かくも無意味に相乗り興奮してしまう、付和雷同的な国民性は、一部の人たちの局部的な盛り上がりとはいえ、何か時代の深層を映し出しているのではないかとも感じる。

とまれ、五十鈴川はそのような時代の流れには遠く離れたところを静かに流れてゆく、小さき今の暮らしをしながら、低みの見物をしているといった塩梅である。

ところで、朝一番竹韻庵に おもむき、昨日買っておいた2種類の玉ねぎの苗を、各50本植えてきた。3号地にはもう少し植えられそうなので、品種の異なる苗をもう50本先ほど買ってきた。
3種類目のマッハという品種の苗

近日中に植えるつもりである。1号地と2号地にチシャトウ、4号地には九条ネギとブロッコリーを植えたので5種類の野菜を植えたことになる。

つくづく単細胞の私を自覚する最近の私だ。3か月前までは荒地だったところが畑になり作物が植えられていると、まるで景観が変わってきて手を加えただけの喜びが体に満ちるのである。

 腰いーの痛さあよう~、というわが郷土の民謡があるのだが(私はこれを歌えるようになりたいと切に今思っている)、腰を伸ばし骨休めしながら遅々と歩む。

耕し、畝を作り、植え、水をやる。2時間もたつと100本の玉ねぎの苗は植え終わった。早朝の朝の菜園タイムは秋空の元なんとも気持ちがいい。(カメラを忘れたのでまた次回アップします)

さて今日は午後から久しぶりに妻との約束があるので、夫婦そろって出かけることになっている。一年に数回の我が家の大事は、ハロウィンとは対極の時間が流れる。



2015-10-28

沖縄、名護に住む桑江純子さんから【馬毛島漂流・矢板俊輔著】というご本が送られてきました。

今朝も起きたら、西の空に満月がぽっかり、新聞を取りにゆき、コーヒー片手に月を眺めているとサンナンのN氏から今日は畑に入れないとのTEL、というわけで雨後の思わぬ一日が過ごせることになった。

このところのお天気続きで体を動かすことの多い日々を過ごしていたので、私にとっては恵みの雨である。

夜は遊声塾があるので、久しぶりに家で夕方まで一人の時間を過ごそうかと考えている。10か連続で外壁の柱を塗り続けたので一階部分の柱はほとんど塗った。しばし一休みしながら、どうやって二階部分の柱や壁を塗ってゆくか、じっくりと考えたい。

ところで昨日、雨が降るとの予報を見越してわずか25株だが、竹韻庵に苗屋さんで買った九条ネギを植えてみた。先日肥料を買いに行ったときに見つけた苗で、苗が伸びすぎて枯れた部分も多かったので半額でいいと言ってくれたので、これまた実験的に植えてみたのである。

きちんとした畑地になるには、それ相当の月日が必要だとは思うものの、せっかく開墾したのだからなにか植えてみたくなるのである。

竹韻庵の畑地は、超ミニ畑も入れると、今5番目の笹の根ランドを開墾している。小さな耕運機で耕し竹笹の根を根気よく取り除いてゆくことを繰り返すだけである。

S氏も途中から参加しこまめに動く、やはり二人でやると愉しくもはかどる。もうお互いセカンドライフなのだから長時間やる必要はない。

ただひたすら楽しんでやるのみ、午前と午後、まったく異なることをやれる今の生活は、なんともはや言葉にならないくらいうれしく有難い。

S氏のおかげなくば、竹韻庵に通うこともなかったわけで、人生の有為転変は不可思議の極致。ブログを書き続けていたおかげであるともいえる。

氏は私のブログをよく読んでくださっていて、お声掛けしてくださったのだ。氏は誠実な人柄で私と違って人望がある。私とは性格がまことに持って異なる。だからお互いにとって良いのかもしれない。

私には数十年続いている君子の交わりのような友人知人が存在する。数は多くはないのだが、時折友はどうしているかと、秋空の元ふと思い浮かぶ。

そのような存在が心の中に棲んでいるということは、有難いことだと思う。若い頃は激論も戦わせた中にこそ、素晴らしき友はいる。

肝胆相照らし、お互いの欠点も含め、愛し愛され、支え支え合う、そのような関係性を育めるには、なにをどうしたらいいのか。虚心に実践の中からいよいよ今後考え続けたい。

利己と利他、夫婦関係も子育てを終えると別次元に入るかのように感じる。日々野菜に水をやるように適度な加減の按配の妙、思いやり、などと言うは易しだが。

ところで話は大きく変わる。沖縄の尊敬する人形劇かじまやの主催者、桑江純子さんから、本が送られてきた。

桑江さんご夫婦は私の唯一の沖縄の友人(人生を沖縄の芸術に捧げている)である。

このような希少本、(本屋さんにはまずおいていない)を(何度も書いているが私は、あらゆることに関して無知である)送ってくださる友を遠方の、辺境の地から送ってくださる友がいることの希少価値。

じっくりと心して読まねばならない本である。







2015-10-27

早朝月を眺めて晩秋に向かって指導する。

きのうゆうがた、ペンキ塗りを終えるころに現れた、東の空のお月さんをしっかと愛で、今朝起きて西の空に浮かんでいる月を再び愛でたのちブログを書いている。

肌寒い中での束の間のお月見。何度も書いているが私は月が大好きである、太陽と違って月は見続けることができる。熱いコーヒーを片手に、月としばしお話ができる自分は幸福である。

さて、何かと同じことをやっているかのように日々が流れてゆくが、2度と同じ日々はやってこない、今日は今日の時を刻んで木の葉も多彩というしかない色の移ろいをみせる。
朝日の当たるS氏の山荘

早朝、竹韻庵に向かう道すがら岡山大学の前の銀杏並木を通る。朝日に照らされて、日々色づく銀杏の葉の見事さはなんとも言えない。(今朝も眺められるとおもう、コンビニでコーヒーを買おう)

本格的に一日が始動する前の、静かな朝のひと時の学生街が私は大好きである。竹韻庵に通うのも週に3日とはいえ、3ヶ月が過ぎた。

わずか3月でも随分と竹韻庵の雰囲気は変わってきたように思う、何事も根気よくやり続けることの中からしか、見つけられないということを私は感じる。

話は変わる。続けるといえば夕方このところ平均2時間以上ペンキを一人で塗り続けている。昨日で9日間塗り続けた。さすがに少し疲れが出ているが、愉しいので続けられる。

こんなにも木工部分に塗装をし続けたことはわが人生で初めてである。自分でいうのもなんだが、こんなにもペンキ塗りが持続するとは自分でも正直思わなかった。
竹韻庵のご神木

長くなるので書かないが自分の家が持てるなんてことは考えたこともなかった家なので、大切にしたいという一念が私をして、 いざペンキ塗りへと向かわせてしまうのである。

塗りにくい部分を塗るときなどは首が痛くなるが、そんなときには秋の空のまだら雲を眺めしばし首休め、するとあらたなエネルギーが空から私の中に注入される。いわばそんな塩梅、人間の体は本当に不思議、意識の仕方次第での変化は、まさにいい加減である。

いささか早くに感じる木枯らし一番が吹き、今年は何やら冬の到来が早く来そうな気配だが、意識の持ち方次第での、冬の寒さを迎える心かけの準備だけはしておかねばと考える。

自分の頭で考えたことを実践する。 それ以外には私にはほかに今のところ方法がないが、とりあえずはお手本が身近に存在しているので、それをよすがに自分の足で(オーバーだが)晩秋に向かって歩いてゆく私である。

2015-10-24

肉体労働の秋、中森明夫氏のさわやかなコラムを見つけました。

10月、普段は読書の秋という感じなのですが、私の今年の秋はちょっと違う。肉体労働の秋と化しているのである。
竹韻庵の小さな畑にS氏と柵を作る

さすがにこの年齢になると、そうは肉体労働はしたくなくなるのではないかと考えていたが、想像以上に体が、未だ動くことに有難いという、単純な喜びに満たされる。

10月中、(もうあと2回だが)サンナンの畑で週2回午前中働き、竹韻庵で3日働き、声出しを2回やり、何かとあわただしく時が流れてゆく。

そのうえ、外壁の柱を先週の日曜日から塗りだしたので、かなり肉体に負荷がかかる生活にしばしなっているのである。

塗装は平日は夕方2時間くらいコンスタントにやっている。お天気が続いているし、私の性格なのかいったん始めると切りのいいところまで、どうしてもやりたくなってしまうのである。

時間はかかるが、わずか6日で家人も驚くほどに塗れた。案ずるよりもまずはなにともやってみることであると、あらためて感じ入ってしまう。大変だがわが家がきれいになるとうれしい。

日焼けして色むらのあった部分が統一された感じで塗られてゆく、乾いてくると分かるので、根気よく作業をどうしても続けたくなってしまう。空には月がぽっかり出て美しい。

作業を終え湯を浴びると、もう何もしたくはないといったくらい、充実した疲労感が襲う、妻や娘が応援してくれるし、手早く美味しい夕飯を準備してくれるので、これで英気を養い頑張れるのである。

そのようなわけで、実によく眠れる、気持ちのいい秋を過ごさせていただいている のだ。時間は一定あれもこれもはできないのだ。

ところで、話は変わる。こないだコラムニストの中森明夫氏が、瀬戸内寂聴のSEALDs小説を絶賛した文章をM新聞に寄せていた。
中森明夫氏のコラム

現役最高齢の作家が書いた青春ラブストーリー、若い女性がSEALDsの主催のデモに参加して、これまで付き合っていた彼と別れ、デモで出会った彼と新しい恋に落ちる、といった物語を、みずみずしいラインの文体で書き綴る93歳に、驚嘆している。

出だしの文体が引用されているが、まさに今を生きる若い女の子が書いているかのような文体なのである。

文芸誌すばるに掲載された、【さようならの秋】と題された わずか4ページの掌編。誰しも好みはあるが、そんなことはどうでもいい。超越したかのようなある種前人未到の境地を自在に遊んでいる、かのよう(読んではいないのに)。

秋空のような爽快感が私を襲った。性差はあるが枯淡の境地を時に生臭くも、生の終焉に向かって、こうも軽々と越境したかのようにふるまえる、書ける、寂聴さんには、やはりお釈迦様が棲みついているといわざるをえない。

可能なら満分の一滴でも見習いたいものだ。体の中をさわやかな風が、常時流れているような感覚を持続するためには、いかように老いに向かって生きればいいのか、きっと永遠の謎。

だからきっと生きていることは面白い、という側に私は立つ。五十鈴川も前向きに 、自分の感覚に正直に流れてゆくのみである。


2015-10-19

家の外壁の塗装にやれる範囲で挑戦する。

最近しきりにいろんな業者が、我が家の家の壁を塗りませんかという電話やチラシなんかを投函したりする件数が増えてきた。

建てて15年もたつのだから変色したり、北側の壁はカビが生えたりしてみっともないことは私も承知している。

世はまさにリホームブームのさなか、わが夫婦はこのところ検討と対策を思案してきた。家を建てたくれた業者さんにも相談した。

何せ外壁面積が広いので、業者に頼んだら足場を組むだけでも相当なお金がかかる。日本人は見栄えにこだわる。だが私はこだわらない。

雨や風にさらされている柱や壁に触ってみると、色はかなり変色したりしているが、15年経ってもかなりいまだしっかりしている。今から7~8年前、脚立で手の届く範囲まで、柱の部分だけベンガラを取り寄せて自力で塗ったことがあるのだが、それがやはりよかったのだと思う。

さすがは、ベンガラである。ところで若いころ一年近く英国で暮らしたことがある私には、英国人がいかに家を自力でメンテナンスすることが好きな民族であるのかを、肌で感じた。
なかなかに大変なベランダの3面の塗装

当たり前である。家を手に入れるのは庶民の夢が実現したのであるから、それはそれは大切にメンテナンスするのである。ガーデニングとメンテナンスは生きる喜びなのである。

そこで私は考えた。楽しみながら、英国人を見習い、やれるところまで 自力でやってみようと。今の体力なら手の届く範囲なら、時間を見つけてコツコツとやってゆけばかなり塗れるのではないかと考えたのだ。

業者に頼んでさっとやってしまうのも可能ではあるのだが、まて、ここはひとつ最後のチャンスではないかと考えたのだ。

何事もできないと頭から考えるのではなく、可能な限りは挑戦してみる価値があるのでは、とわば考えたのだ。

真っ青な秋空の元、やっと建てた自分の家を自力でコツコツと塗ってゆくのは気持ちがいいのではと考えたのだ。それに次回、全面的に塗り替えるころにはおそらく体力的に無理かもしれないので、いまならやれる、やりたいと思ったのだ。

そこで昨日、妻とホームセンターにいって塗料と刷毛を買ってきて午後から二階のベランダの木部から 塗ってみた。

脚立に登って、不安定な態勢で塗り続けるのは、かなりの慎重さを要するし、根気のいる作業なのだが そこはやはりやはり自分の家であるからなのだと思うからこそ、塗る意欲が湧いてくる。

ひたすら塗り続けた結果、ベランダ部分の木部3面を8割近く塗ることができた。お天気のいいお休みの日に、コツコツと時間をかけて塗り続けてゆけば意外と楽しめるのではないかという気がしてきた。

やがては、きっと塗りたいとは思ってもかなわぬことになる。今ならわずかでも自力で塗れるのだから、それを楽しまない手はないと、私は考えてしまうのである。

夕方作業をやめ、自分が塗った部分を遠くから眺めてみたのだが、いい感じに塗れていた。素人でもそこそこには、塗れるということが分かったので、焦らず亀のように塗ることにした。



2015-10-18

竹韻庵の小さい畑地にチシャトウを植えました。

月曜日から土曜日までこの年齢で、毎日時間はまちまちだがやることがあり、それをやり続けることで生活でき、日々を送ることができる私の今の暮らしに、ときおり真っ青な天を仰いで感謝する。

前回、私の書いたブログに岡さんがコメントを下さっている。この場をかりて深く感謝する。何度も書いているが私のブログにはコメントが少ない。だからどんなに短くてもコメントがあるのはやはりとてもうれしい。

竹の葉のお茶も生きているうちに何とか挑戦してみますね。可能なら、思いついたら何でもやってきたこれまでのわが人生、やろうと思えばほかの人の手を借りずできるのですから愉しい。

何事も自分の中から湧いてくる感情というものに、限りなく正直でありたいと思う私である。他者からは理解されなくても、迷惑さえかけなければ自分の気持ちのいい方向に、ただ単純に流れてゆきたいのである。

時代の流行や、自分にとって気持ちの悪いことには、できる限り近づかないように日々をおくれたら私は満足である。

さて、このところ週に3日竹韻庵に通っている。 昨日開墾した最初の小さな畑地にサンナンから頂いたチシャトウをとにもかくにも100株植えてみた。

日当たりが悪いし、土壌も数年は経たないときちんとした畑にはならないだろうが、景観的に何か作物が植えてあれば、との思いで実験的に自己満足で植えてみた。

竹韻庵には水道がないので、しばらくは水やりが大変だが、これくらいなら竹韻庵の雨水タンクと自分で水を運び何とか、その成長過程を楽しめたらと、勝手に思っている。

こちらの思い通りにゆくわけがないのが自然の摂理、こちらとしては自然のおこぼれをと、願うだけなのである。

耕し、笹の根を根気よく取り何とかそれらしい体裁に整地した小さな畑地は、なんともはや可愛い。水や日当たりの問題があるので畑地としては機能しないかもしれないが、整地しながら柿の樹なんかも植えてゆき、竹韻庵で過ごす時間を大切にしたい。

竹韻庵は岡山大学の裏手に広がる山中に在るのだが、森の中にひっそりとたたずんで在る。市街地との際に在るのだが別世界を堪能できる、得難い場所である。

S氏のおかげで竹韻庵管理人ができている今、動ける身体こそが 宝であると日々感じている。鎌で草を刈る。つるはしで小さな木の根をとる。鍬で畝を作る。ばんじで草を集める。斧で樹を割る。

大地と戯れるかのように、地下足袋で地面を踏みしめ足を運び、日々体を動かせることの幸福を私はかみしめる 。

ひとしきり体を動かして後、家に戻ってゆっくりと、在るもの、残り物で麺類中心昼食を作り、すませた後はしばし短めの午睡、目覚めてからは全く異なることを、夕飯までの時間過ごしながらの日々を送っている。

図書館で本を読んだり、運動公園で声を出したり、掃除したり、新聞をじっくりと読んだり、買い物をしたり、DVDを観たり、我が家の冬用の薪を割ったりと、まあ生活全般の雑事をやっているのである。

夕食前はメルとの散歩も私の日課になりつつある。まあこのように深まりゆく秋を感じつつ、平凡の極みわがくらしである。

ところで先日、森の中を風が吹くと、どんぐりの落ちる音がわが耳に響いた、たぶん生まれて初めて聴いた音。森は私の心を洗ってくれる。



2015-10-13

自立した老いに向かって、在るがままに思考する朝。

7年近くブログなるものを書いてきて、よほどのことが
ない限り一週間ブログを書かなかったことはなかったような気がしている。

ブログを書かずともほとん自分の暮らし向きには変化がない、満たされている、といったことがあるからかもしれない。

以前は何やら書かないと、といった思いがかなり心の中にあったようにも思うが、いい意味で歳のせいだという気がしてならない。

優先順位が微妙に変化してきているのも、事実である。書くことよりも、読んだり、声を出したり、体を動かすこと、生活の雑事に、重きを置いた時間を、優先するようになってきたのである。

毎月一回墨をすり筆で文字を書くことをこの2年半やっているのだが、何度も書いているように、時間は一定なのでブログを書いていない時にはほかのことをやっているのである。

とはいえ、どうしても書きたいことが ある場合は、にわかに川の水が増水するかのように書くかもしれないが、あくまでも五十鈴川だよりは、晩年ライフの渦中を右往左往揺れる、あるがままブログなので平に御容赦を、と願うしかない。

さて、だがいつものように話は変わるが、新しい安倍内閣で、一億総活躍 社会が掲げられている。美しい国といい、なんとも抽象的でぴんと来ない。

そんな私の漠然たる不安に、作家の保坂正康氏が見事にこたえてくださっている。10月10日のM新聞に。

ほとんど政治のことには触れたくないというのが私の個人的な正直な思いなのだが、 なんとも気持ちの悪い表現である、なぜなのかを書くにはまた相当な時間を取られるので止す。

話題を再び変える。竹韻庵にはかなり大きな琵琶の樹がある。

数週間まえ邪魔になる枝を切ったのだが、その際、葉っぱをお茶にできないかと家に持ち帰り、母と私で葉をむしり我が家の、あまり日の当たらないところに干して老いたら、いい色に変色したので、先日S氏と二人で竹韻庵で手でもんで細かくちぎり、なんとかお茶らしい体裁にできた。

そのお茶を私はこの数日飲んでいる。今日もこのお茶をポットに入れて持ってゆくつもりでいる。意外やおいしいのである。単なる思い付きで つくったお茶だが妻がすぐ容器に入れてくれたがなかなかいい感じでおさまった。

63歳の私は、今更一億総活躍の仲間には入りたくはない。社会の片隅で若者の邪魔にならず、そっと静かに琵琶の葉のように枯れて、静かに老いてゆく覚悟を育みたい、と思うのだ。

大先輩、五木寛之氏が書いているように、アンチエイジングではなく、ナチュラルエイジングこそが私には望ましい。

葉が落ちるように、ナチュラルに、自然(じねん)に先人たちは死を受け入れてきた。私もかくありたい、そのためにはどう生きるかを、日々(オーバーだが)五十鈴川だよりは寿命にむかってながれている、いわばそのような思いだ。

父が生きていた年齢までもし私が生きるとしたら、あと20年近くを生きることになる。老いながら未知の時間を生きねばならない。

40歳の時、60歳の自分の姿など想像すらできなかった。今私は82歳の母と時折過ごしながら、自分の20年後を想像する。

母はまったくもって立派としか言いようがない形で、老いを自立して生きている。若い人たちの邪魔にならず、野菜を育て、お裁縫、編み物をこなし、家族の支えとして真の意味で活躍してくれている。

最近時間があるときは、ブログを書いているよりも母と話をしたり体を共に動かしている方が楽しい私である。これからは母との時間を最優先したい。

自然の摂理、その母だってやがては老いてゆく。彼女も十分にそのことを自覚している。目の前に見事に歳を重ねてゆくお手本がいる私は幸せだ。


2015-10-06

5日ぶり竹韻庵に復帰、小さな夢の畑地を耕す今の私。

昨日から再び動き始めた。たった3日間静養していただけなのに、あらためて動けるということの有難さを、抜けるような秋空のもと、天を仰いでささやかに感謝している。

時間的に農の仕事を辞してから、かなり自分の個人的なことに割ける時間が増えたことが、何よりもありがたく嬉しいことである。

声を出し、読み,書き、体を動かし、生活に関する様々な雑事も一日の中で余裕をもってやれる今がバランスがいい。

この歳になっても、悲しい性(さが)的な己と付き合いつつ、今という時代を生きてゆく中で、自分自身を見つめ続けてゆく、いわば覚悟と勇気を育むためにはどうしたらいいのかを、あきらめずに、足を上げて地面を踏みしめている、今日の五十鈴川だよりである。

さて、今日五日ぶりに竹韻庵に行った。朝は肌寒かったが最高のお天気で気分は最高。病み上がりなので、あまり無理せず草を刈ったり、あれやこれや思いつくまま、体を動かし、11時前には作業をおえた。
1号地になる予定の小さな畑

竹韻庵にはイノシシがやってくる。イノシシがミミズを食べにやってきた後の、大地をほっくり返した後は、波打っているのですぐにわかる。そのエネルギーはまさにすさまじい。

いま、笹の根を取りながら、ゆっくりと開墾しながら、最初の小さな畑を作ろうとしているのだが、イノシシのことを考えると、作物を何にするのかを熟慮しなければならない。

仕事ではなく、手の届く範囲の小さな畑地での作物を育てたりすることは、母や妻と共に、身体が動く限りやり続けたい私だ。

60代、これまでの自分とは異なる可能性を探ってみたいのである。よしんばうまくはゆかなくても、ちっとも構わない。

そんな悠長な、遊び心でやれるようなことが、S氏のおかげで、突如わが人生に訪れたまたとない好機を私はただただ、S氏と共に楽しみたいのである。

80歳過ぎて、もし生きていたとして、後悔したくはないのである。今日やりたいことを、やれることをやった後に、明日がやってくる。そのことの繰り返しの連鎖の果てに、もし果実が、といわば夢見るわけだ。

何度も書いているが、未来が不確かであればあるほど、いまという一日をきちんと生きるより、ほかに私には方法がない。私の場合夢を見るには、汗を、体を動かすしかない。





2015-10-04

金木犀の香りに両親の面影をしのぶ。

我が家には家を建て替える前、つまり妻の両親が植えた樹木が、4~5本ある。もうほぼ終わってしまったが、先日まで金木犀の香りが窓を開けると我が家の中まで匂ってきた
父は庭が好きだった、花や樹木を愛していた
。我が家のご神木の一つである。

季節はまさに秋爛漫、青い空に、初老の私は吸い込まれてゆきそうな気持ちよさである。そんなことを感じるわが体は、徐々に回復している。が油断大敵、じっと我慢、家の中から我が家の庭の秋を愛でている。

愛でる嬉しさ悦び、秋を感じる微妙な移ろい。若いころには心を揺らさなかった細部に眼がようやくにして向かうようになってきた。

日本という風土と 、(私の場合は宮崎だが)自分が深く深く結びついているのだということが、歳を重ねるにしたがって実感するようになってきた。(わが体は空や水、森羅万象と密につながっている)

だからなのだ、五十鈴川だよりを書くようになり、年に数回どうしても故郷に足が向かうのは。こないだ帰京したのは6月、こうもお天気がいいと、わが心は五十鈴川周辺の景観にいざなわれる。

体調がもどったら、お墓参りもかねて、そろりとわが体はきっと故郷に向かうのだろう。それは帰巣本能だから、私自身にも止められないことなのだから、摂理にゆだねるしかない。

歳を重ね親としての務めも徐々に減るにしたがって、小さい頃のほとんどこの数十年思い出しもしなかったようなことを、風邪の功名で思い出した。

私が小学4年生のくらいの頃の記憶。ある秋の晴天の日、父が下半身が不自由になっていた祖父を、外に散歩に連れてゆくといい、私と二人の兄の3人で祖父をリヤカーに乗せ、町内散歩に出かけたことがある。

我が家から、海が見える港まで直線距離で500メートルくらい。恵じいちゃんのその時のうれしそうな顔がいまだ私の顔にくっきりと瞼に浮かぶ。サトばあちゃ んの笑顔も。

わが父は、小学生の私にとっては鬼と仏が同居しているかのような存在であったが、息子3人がリヤカーを引っ張ると、こころから満面の笑みを浮かべた。

きっと、戦後引き上げてきてから、人生でもっともうれしい幸せな瞬間だったのではなかろうかと、愚息の私は今にして、父の内面を推し量ることができる。

父と祖父との関係は、激動の時代、明治人と大正デモクラシ―人、多々相克があったと思うが、晩年体が不自由にになった祖父を、父は口にこそ出さなかったがいたわっていた。

いざという時の行動でその人間の真価が決まると父はよく言っていた。祖父をリアカーで散歩に連れ出した、あの秋の日の一日は今となっては、穏やかで平和で夢のような一日の出来事として私の脳裏に刻まれる、宝の映像。

姉兄弟5人、一番下の弟はタイにいるのでなかなか会えないが、皆歳を重ね 元気で再会できる幸福は、きっとちいさ頃の共有原体験があるからだと思う。

お酒が入り、両親の話になるといまだ俄然盛り上がる。頑固一徹、不器用、愚直そのものの、(そのDNAがいかんともしがたく私にも流れている)私にとっては、立ちはだかる大きな壁そのものだった父。

私が家族を持ち、安定した暮らしをするようになってから、娘たちを連れて帰郷するころから穏やかに話ができるようになってきたのに。(もっともっと戦前の個人的な話を聞いておけばよかったと後悔している)娘たちにはなんとも優しかった。

娘たちの脳裏に、父と母の生きていた晩年の姿が記憶に残ってくれたのが、いまとなっては、それが一番私にはうれしい。





2015-10-03

実りの秋の食材で風邪を治す。ルンタの上映始まる。

季節の変わり目をわが体はいまだ敏感にとらえる。小さいころから体は頑健には程遠く、痩せていて食もほそく、どちらかといえば虚弱体質であったのだ。扁桃腺を腫らしよく発熱し、うなされた。
今は廃線になっているこの場所まで津波はきたという

社会に出ていろいろな面で鍛えられるにしたがって、元気に動き回れる体を獲得してきたように思う。

発熱したり、だるかったりするのは、体がどこか変調を告げているサインなのだから 、悪いことではなく最近は決して無理はしないようにしている。

以前と違って、漸く私も人並みに家人の言うことを聞くようになってきて、あまり無理をしなくなってきた。考えてみると当たり前である。もう63歳なのだから、50代のようには体が動かないのは当たり前なのである。

ところで、身体はだいぶ回復してきたが、昨日ほどではないがまだ変な咳がでるので、今しばらくじっとしていようかと思っている。

風邪の功名ではないが、3日連続してブログを書けるのは幸せだ。絶好調でもなく、 絶不調でもなく力の入らない状態でも、のらりくらりとブログを書ける体力気力がある、ある種胡乱な気分も時にはいい。

発熱したり風邪をひくと、どうしても食欲が落ちるが、食わないと回復しないし、薬が嫌いな私はほとんど飲まないので、休息と回復力がつきそうな食べ物をこの2日間、朝昼と自分で作って食べている。

主にスープやお味噌汁がメイン。母の育てた、ゴーヤ、ピーマン、シシトウ、ナス、ミョウガ、などに、私が育てた玉ねぎ、ジャガイモ、それに市販のショウガ、キャベツ、ネギ、トマト、豆腐、アゲ、わかめ、シイタケ、ニンジン、里芋などを使う。(3~4種類を組み合わせるだけ)

味付けは、削り節でだしを取ってお味噌汁。西洋スープ(玉ねぎが欠かせない)の場合は岩塩と(イランの音楽家からいただいた)黒コショウのみ。

普段から昼食をこの数年作っているので慣れているのだ。簡単なものしか作れないが、時間さえあれば私は作るのは嫌いではない。

間食や食後は、バナナ、リンゴ、ミカン、栗、なし、柿、などをすこしいただき、ビタミン補給 。ご飯は少しで、梅干し小魚海苔は欠かさない。

これからは、怜君のように作ることを楽しみたいと思っている。もっと歳を重ねたら夫婦二人で料理することをシェアしながら交互にやれたら、ほどほどの円満さが保たれるのでは、とも思うのだ。

ともあれ、スープと休息の効果が現れたてきているのだろう。鼻水も咳も昨日よりずっとおさまってきた。こうもお天気がいいと外に出かけたくなるのだが、もう大人なのだから、おとなしく我慢しようと思う。
本を読めばフィルムが深く味わえる

ところで、今日からシネマクレールで【ルンタ】というフィルムが始まる。実は、ブログには書いていないが、私はこのフィルムを9月4日大阪で一度見ている。(なにもかけなかった)セバスチャンサルガドのフィルムと、ルンタ、今年の夏はデモに参加することで、思いもかけぬフィルムに出会えた。

9月27日夜、妻と娘と3人で、セバスチャンサルガドのフィルム、地球へのラブレターを見に行った。娘がきちんと受け止めていたことが、ただ嬉しかった。

それにしても、素晴らしいフィルムは何度も見る価値がある 。くどくどと書く気がおきないほどに。ルンタももう一度見る価値のあるフィルムだ。(チベット仏教の奥深さに震撼とする)一人でも多くの心ある人に見てほしいフィルムだ。


2015-10-02

9月30日、なんとも不愉快なSEALsの奥田愛基さんに対する脅迫状の記事に、思う。

63歳の夏旅で私が沐浴した大槌町の不動の滝
数日前ちょっと油断して、湯冷めをしてから喉が変調して、いつものようにやばいと思ったのだが時すでに遅しであった。

しかし、いつもよりはひどくはなかったので水曜日の遊声塾もなんとかこなし、昨日は竹韻庵委にも出かけ体も動いたので、安心したというわけではないのだが、やはり少し雨の中で体を動かしたのが良くなかったのだろう。

幸い熱はないのだが、いがらっぽい咳がでるのでここで無理したら、万病のもとになってしまうかもしれないので、今日は大事を取りじっとして過ごそうと思いながらも、ブログを書いている私である。

昨日とは打って変わり、秋の陽光が差し込んできている。体調は万全ではないがかろうじて本を読んだり、新聞を読んだりはできる。

本当はブログを書く気はなかったのだが、おとといの新聞に、SEALDs の中心メンバーの奥田愛基(あき)さんに、殺害を予告するような脅迫状が届いたという記事が社会面に出ていたので、書かずにはいられないのだ。

奥田さんによれば、家族にまで殺害予告が来ているという。一言呆れる、卑怯千万、笑止の沙汰というしかない。

私は何度も単細胞を自認しているし、訳知りな複雑怪奇な思考能力などまったくもちえないし、対応能力のない自分自身を、時に持て余しつつ、平凡に過ごせる日々の暮らしをこよなく大切にしている、一庶民である。

が、この記事には五十鈴川だよりは黙ってはいられないのだ。自由にものが言えない、もしこれが脅かされるとしたら、何おかいわんやである。

ユーモアのかけらもない閉塞感極まる、異なる意見に耳を傾けようともしない不寛容な社会の到来は何としてもご免である。言論の自由、表現の自由は民主主義のかなめである。

失ったら、またもや取り返しのつかない、物も言えない顔色を窺う暗い時代が不気味に忍び寄る、気が私はする。

上位下達の時代ではないのだ。曲がりなりにも何だかんだ矛盾を内包しながらも、戦後70年我が国は民主主義を、立憲主義を国是として歩んできた。今こそ国民の良識の水準が、戦後70年培ってきた国民の真価が、まさに問われている瀬戸際という気がしてならない。

そのような時代に忽然と現れたSEALsの若者たちの表現行為は、うまくは言えないが何かこれまでにない新しい可能性の萌芽を、閉塞感に風穴を開けてくれそうな可能性を感じるのである。

もっと言えば、新しい日本人の出現とでもいったものすら、私は個人的に感じている。 自分たちの国の行く末を、久しぶり、若者たちが自分たちの頭と体で、イデオロギーの色がなく素朴な率直さで現れ表現し始めた。

新しいユニークな若者たちの活動を、姿も見せず、卑怯な手段で封じ込めるようなやり方は、まったくもって言語道断、私を暗澹とさせる。

物言えば唇寒し秋の風、なんて時代錯誤も甚だしい。蛇行しながら、悩みながらも若者たちは声を上げることを継続している。五十鈴川だよりのおじさんも蛇行しながら、今後の展開を可能な限り見守りたい。

初夏から今に至るもあらゆる手段で試行錯誤しながら歩むSEALsの若者たちを、おじさんは応援する。

2015-10-01

雨の中竹韻庵で、S氏と共に野趣あふるるティータイムを過ごす。

S氏の依頼で竹韻庵にゆくようになってから早くも二か月以上がたった。今朝起きたら雨が降っていなかったのでちょっとでもと思い行ったのだが、予定通り雨が降り始め、10時前にはS氏もやってきた。

小さな耕運機がぬかるむようになるまではかろうじていくばくかは作業ができたし、安心して枯草や枯れ木を燃やすことができたので私の決断は吉と出た。動けば前進する。

作業日誌が竹韻庵にはあるのだが、今日10月1日で29回竹韻庵に通ったことになっている。午前中しか作業はしていない。

だが、自分でも随分と竹韻庵の印象は変わってきたように感じている。夏の暑さが嘘のように涼しくなり、単細胞の私は竹韻庵で現場で動きながら、作業の次の段取りを考えつつ進んでいる。

S氏も随分雰囲気が変わってきたといってくださるので、わたくしごときでも誰かのお役に立てるということは、有難き幸せというほかはない。

ほんの少しの間ではあったは、サンナンで農の仕事をさせていただいたのもとても役に立っているし、そのサンナンでいまもギリギリのところで頑張って農の仕事を続けている仲間からも、フリーでやれる時間帯に草刈りなどを手伝ってほしいとの依頼がきた。

金銭の多寡ではなく、依頼があり、その依頼に自分がこたえられるということは、これまでの自分の人生の経験が役に立っているということの証左なのだから、ありがたいことだ。

たびたび書いているように、18歳から生きるがためにいろんな仕事に私は従事してきた。特に私の苦手とする肉体労働をいやでもやってきたことが、つくづく今となってはよかったと私には思える。

まったく人生とは摩訶不思議な旅というしかない。縁えにし
夏の旅での山形の米沢藩のお城のお堀の蓮池  
の連鎖が苦手なことを好きな世界へと導いてしまうしまうのだから。

(いきなりだが、わけもわからない摩訶不思議な人物たちが大勢出てくきて奇想天外な夢について語るシェイクスピア作品が、だから私は好きなのである)

老いるということは、極端にいえば体がやがては動かせなくなる(動かなくなる)ということだ。だから明日のではなく、今日の自分を動かせるうちに動かす。そのことを意識して感謝する、となにやら物事はシンプルに流れ出す。

オーバーだが明日急に何事かが起こっても、悔いのないようにというきわめて単純なことの繰り返し。今日もまた竹韻庵で愉しく体を動かせたことに、ただただ素直に感謝する私なのである。

お昼近くからにわかに雨脚が激しくなり作業をやめ、濡れた体をふいて着かえてさっぱりしたのち、S氏に抹茶をいただき体を温め、雨音を聞きながら二人でおしゃべり。

小さな畑を漸く開墾しているのだが、その耕しつつある畑地も含め少し景観が変わり、雨の靄が立ち込める竹韻庵を、山荘の小さきベランダから眺めながらの風情あふるるティータイムは、ご褒美のように体に沁み、私の心を饒舌にした。