会社には行かなくても畑にはゆきながら、隙間の時間ネギの行商を可能な限り続けている。午前中にネギの薄皮を母とむき、午後数時間程度行商するといった塩梅。たまに午前中にすることもあるが、きわめてまれである。
もうあと一周間もしたら、今収穫している畑のネギが収穫できなくなり、行商ができなくなるが何とかもう一つ畑のネギを行商できないかと、私は思案中である。
まったく見知らぬ方のお店に営業を始めて、まだわずか2週間くらいしかたっていないにもかかわらず、4件のお店からの継続注文が入ってきているからである。
このことは、私に大きな希望を与えている。私だって人間だから、飛び込むまでは大いに勇気がいったのだが、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、といった表現が一番私にはぴったりくる。
じっくり考えたら、あとは実践と行動あるのみである。結果が出なかったら終わり。私自身が食べておいしいと感じるのだから、自信をもって売ることができる。あとは値段の交渉がうまくゆけば成立する。きわめてはっきりシンプルである。
実践し経験を積みながら(やったことがないことをやっているのだから)農産物の直接商いというものを、肌で学んでゆきたいと思う。ただただひたすら謙虚にやってゆく。それしかない、だって素人なのだからである。
わずかな武器はこれまでの人生で学んだ経験と、今のところおいしいネギしかないのだから。ほんとにわずかな時間しか行商していないのに、この思わぬ成果は何を物語っているのか。
ただ一つはっきりしているのは、自信のないものは売れなということである。そのことをこの年にして学んだ。
春からは畑の隙間にジャガイモや、ニンジンなんかも植え、作物ができたら可能な限り直接商いがやれたら、楽しいだろうと夢見る。大きな商いではなく(そんなことはできなし考えてもいない)手と私の体が動ける範囲での商いで、生きてければいうことなしである。
私は希望や夢がないと、どうにも生きている実感が持てないタイプのようである。お金があらゆるもめごとの(戦争をはじめとする)種ならば、可能な限り子育てを終えた世代は、耕作放棄地を借りて作物を育て、金銭的には貧しくとも精神的には豊かな晩年の過ごし方もありうるのではないかと私は考える。
案ずるより産むがやすし、わずか2週間で私の場合その可能性の芽が私の中で実感できつつある。そのことの意味は私の中で極めて大きい。
晩年は、遊び心をもって生きられたらこんなに楽しいことはない。一人では無理だが3人いれば何とかなる。A専務をはじめ私には素敵な仲間がいる。だから苦労を楽しめる。楽しめればそれは苦労でも何でもない。
今日も、昨年秋植えた玉ねぎの様子を見に、母と妻と午前中出掛ける予定だ。母はもとより妻も土いじりが大好きなので、漸くにしての夫婦晩年時間を畑でこれからは過ごすことができる。
画面を見ているより、今の私は地面を大地を空を眺めながらの体動かしがことのほかに楽しい。一日動かした体を静かに床に横たえる、大いなる眠りが私を救う。
最後に今のところ営業で見つけたお店は、ラーメンやさん 、お好み焼き屋さん、おうどん屋さん、焼き鳥屋さんの4件である。あと12件見つければ私は十分に余裕をもって生きられる。
未知との遭遇を私はひたすら楽しみたい。そのために安全な作物を育てる。これしかない。
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