映像の世紀に入って100年以上、私が思春期の頃からは写真の時代だといわれ、私自身もささやかなブログを書きながら、現代人は文字を落ち着いて読むという時間(書くという時間)が持てなくなりつつあるという気がします。
私自身が写真を入れない(入れられないのもあるのですが)文字だけのブログを書き始めてずいぶんになります。
現代人は時間や規則にがんじがらめになっています。私もその渦中を何とかこの年齢まで生きてきましたが、漸くにしてそのくびきからは解放されそうな気配です。
畑にいるひと時や、声を出しているひと時は、まったくの自由な感覚を私は再び取り戻しています。その時間があれば生きられる。
だからなのだと思います。のびやかに、質素な充実感に満たされながらの日々を送りながらこのようなブログが書けるのだと。
父は何度も何度も、若い時の苦労は買ってでもせよ、と口にしていましたが、自分が親になってみて思うのは、そのことの程度の差ではないかと思うのです。
理不尽な苦労とか、 飢える苦しみのような経験は人間から人間らしさを限りなく遠ざけてしまうのではないかと、私は考えます。人はたやすく狂気(凶器)になれる生き物であるという冷厳な事実は、(すべての人がそうではないとは思います)いかんともしがたく世相を覆っています。
私がこの年になって農に惹かれるのは、命の元である食べ物を土と光と水があれば育てられるという、安心感に他ならないと思うのです。命を紡いでゆく連鎖感覚。生と死の循環感覚。
あまりにも体が都市化して、潤いのある体を見失っているという(私自身が)気がしてならないのです。自分で自分を取り戻そうとしているのかもしれません。
食べものがある安心感が、ことのほかに私には重要です。母は寡婦となってからの数十年、ささやかな菜園場でいつも土いじりをしていますが、まさに地に足がついた暮らしをしています。
私は身近に晩年の過ごし方のお手本がいることのありがたさを思います。母が元気な間いろんな話をしておこうと最近つくずく思います。
実の父母とは、あまりにも話をする時間が少なかった ことを私は後悔しているからです。いま、ネギの皮をむいたりしながら母と過ごす時間を私は大切にしています。
話は変わり、世界を震撼とさせる、ニュースが飛び交います。感性の堕落なのかもしれないのですが 真実はいかんともしがたく、私の住む世界とは遠いところ、という現実的無力感が私を襲います。画像ひとつで、世界の人たちは(私も)その影響下から逃れられません。
特に、9・11以降、世界の見方はささやかに私の中でも大きな変化が起きました。 のほほんとは生きていられない時代がやってきたという認識です。イスラーム世界の限りなく複雑な歴史と文化。
別世界ではあれガソリン車を運転しながら中東の果ての国々の、世界を巻き込む大問題は、身近に私たちの暮らしと結びついています。無関心ではいられませんが、無知の自覚の前には軽はずみな言動をする気になれないのです。
何か事が勃発したら、日本も巻き込まれ、あっという間に瓦解してしまいかねないほどに恐ろしい世界がやってくることを暗示しています。
私たちはいざとなったらそういう世界に投げ込まれてしまいかねない、という冷厳な事実のなかの平和を享受している、といった認識が私には在ります。
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